文楽かんげき日誌

蝶の道行にみる世界

青柳 万美 

 豊竹咲太夫文化功労者顕彰記念、文楽座命名150年、さらには豊竹呂太夫、竹本錣太夫、竹本千歳太夫が「切語り」に昇格して最初の公演。
 4月文楽公演はそのような節目として相応しい華やかさと充実した内容でした。

 第1部『義経千本桜』では伏見稲荷の段、第2部『摂州合邦辻』では万代池の段と、前段がつくことでそれぞれを物語としてより深く味わえましたし、なにより登場人物への理解が深まるのでクライマックスに向けて疑問点を持つことがありません。第3部『嬢景清八嶋日記』は、一日通しでご覧になれば、第1部の道行初音旅で雄々しく戦う景清の姿が登場しており、孤高の武人で盲となった現在の姿に自然と胸が痛みます。
 観客の物語へののめり込みは自然と舞台へも届き、どの演目についても、さらなる熱演へとつながっていたと思えます。
 そして舞台上が人形だから叶うリアリティがあります。狐の忠信がふいに登場するのも狐から忠信に"化ける"のも(『義経千本桜』)、薬によって見目の変わった俊徳丸が義母の犠牲で元の姿に戻るのも(『摂州合邦辻』)、人形だからこその瞬時さです。そして人形遣いが同じだからこそ、その瞬時に変わることが現前に起きたことと観客は信じてしまいます。

 全演目に触れたいところですが、敢えて1つ、『契情倭荘子』蝶の道行 についての感想をお届けします。第3部の最後、いわゆる「打出し」の演目です。
 主人公として登場するのは助国とその恋人の小巻。二人の家は不仲だったため小巻は兄に首を切られてしまいます。助国は親を諌めるために切腹、主家の若殿の身代わりとなり、小巻は若殿の許嫁の姫の身代わりとなります。この世で結ばれることのなかった二人は番の蝶に化身し冥土へ…。四季の花々咲く美しい庭を舞台に、この世で結ばれなかった恋人たちの魂という設定です。

 宝塚歌劇ではロミオとジュリエットやアンナ・カレーニナ、シラノ・ド・ベルジュラック、うたかたの恋、など悲恋を扱った物語のラストに主演とその相手役とが手を取り合い、歌い、踊り、頬を寄せあうことで「二人の魂は天に召され、そしてこの世では叶わなかった幸福を得たのでした」という、なんとなくハッピーエンドな仕掛けがあります。ハンカチが吸収し切れないくらい泣いたとしても美しい世界が見られて幸せ、と明るい気持ちで家路に着くことができるのです。しかし江戸時代の狂言作者たちはそんな配慮をしてくれません。在りし日を語りあう恋人たちの安らぎも、蝶の命のように儚く結局地獄の責めにあい、私たちにはその面影を忍ぶしかない。

 通常より少し高く持たれた人形はまさにふわふわと蝶のように舞い、舞台にうっとりしていたのに現実を突きつけられる衝撃…。夢を見たい現代の私としては「ええ!?」と思う終わり方です。しかし当時の人々の意識を推察するに、命も惜しまず、六道に迷うことも厭わず真を貫く恋はロマンチックであり、かつ現世で幸せになってほしいと言う逆説の願いを抱くようなものだったのではないでしょうか。
 この『契情倭荘子』蝶の道行 には、生きてこそという人間賛歌が込められているように思え、上演が途絶えても素浄瑠璃として残り続けたのもそんなところに理由があるのでは?と想像するに至りました。もし夢見心地なラストなら観劇から1週間近く、この浄瑠璃について考えることもなかったでしょう。

 最後に、この物語には鴨長明『発心集』や実際の事件(源太騒動)といった複数の背景があり、荘子(荘周)による斉物論の有名な寓話「胡蝶の夢」もその一つです。
 解釈は専門の方に委ねますが、私は、この話にはシェイクスピアで知られている世界劇場の考え方、そして人形浄瑠璃では近松門左衛門の「虚実皮膜論」に通じるものを受け取っています。
 『契情倭荘子』蝶の道行、考え尽くされた戯曲としての必然と完成度を感じさせる浄瑠璃でした。

 

■青柳 万美
大学卒業後、NHK高松放送局、NHK大阪放送局に勤務。リポーター・キャスターとして、生活情報のほか、伝統工芸や古典芸能にまつわるインタビュー企画など作成。MBSラジオ『あどりぶラヂオ』やFMひらかた『おはラジ TUE』で歌舞伎をテーマに話すなど、古典芸能に馴染みのない人へ向けたきっかけ作りを大切にしている。その一環として会員制オンラインサロン Petit Foyer 歌舞伎倶楽部 を主宰。MBSラジオ『日曜コンちゃん おはようさん』 、タカラヅカ・スカイ・ステージ『NOW ON STAGE』などに出演。

(2022年4月15日 第一部『義経千本桜』、第二部『摂州合邦辻』、
 第三部『嬢景清八嶋日記』『契情倭荘子』観劇)