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鶴澤清志郎編(その2)
鶴澤清志郎編(その1)よりつづく
いとう今、お幾つでしたっけ。
清志郎50です。
いとうだから、そんな年じゃないわけで、そんな何十年って古くもない時代にそういう空間があったということですね。
清志郎そうですね。師匠の子供のときと話が合うというか。
いとうああ、そういう感じなんですね。
清志郎はい。
いとうそれで、でも人形にも行かなかった。お父さんは、だって人形遣いなんでしょう?
清志郎そうです。その後、中学校に入って、中学校にその人形座のクラブ活動があったんで、そこで初めて人形を遣ったのかな。話がちょっと戻っちゃうんですけど、その前に詩吟と扇の扇舞というのを6歳からやっていたんですけど……。
いとうえっ、詩吟やっていたんですか!?
清志郎はい。
いとう僕の親の方がね、木村岳風という近代詩吟をつくった人にゆかりがあって。
清志郎僕、その孫弟子ですもん。
いとうマジですか!
清志郎はい。
いとう木村岳風が体が悪かったときに、ずっと泊まっていたというか、静養みたいにしていたのが僕のおじいさんの家で、おじいさんは家の鯉とか、ああいうのを食べさせて。
清志郎えーっそうなんですか。
いとうそう。だから、僕の親戚みんな木村岳風の岳風派で、岳風記念館は僕の父親の実家にあるんです。
清志郎えーっ。
いとう少なくとも前はあそこの館長、俺のおじだったんですよ。
清志郎めちゃ嬉しい。
いとうそんな木村岳風の名前が出るとは全く思わなかった(笑)。
清志郎僕が6歳の時に教わりに行った、70ぐらいおじいさんの先生だったんですけど、その先生の師匠が木村岳風。
いとうふーむ。
清志郎はい。岳風先生は飯田の矢高眼科という眼医者の先生とすごく親しくされて、飯田とご縁があって。
いとうそうなんだ。何なんだよ、これ。おかしな話になってきた(笑)
清志郎初めて知りました。嬉しい。
いとう話が通じるの、嬉しいですよね。誰に言っても通じないもんね(笑)。

清志郎僕にとっては大師匠ですから。
いとうそうですよね。僕にとっては親戚みたいな気持ちで。
清志郎岳風会で全国大会を回っていました。
いとうはー、そうだったんだ。じゃ、詩吟は当然やっていて。
清志郎はい。で、人形の舞台がある神社の秋祭りで、僕も詩吟と舞で6歳ぐらいから舞台に出ていて。だから、その舞台にはすごく馴染みがあるんですよね。
いとううん。ある意味、民俗芸能的な趣きの中で、詩吟という世界にいたわけですね。
清志郎そうですね。
いとうで、ずっといたわけじゃない。
清志郎はい。
いとうここから三味線に行くという、そこのところを聞きたいです。
清志郎それで、中学のときに人形クラブに入って、人形遣いを3年間やっていました。で、高校生になった時に人形座のほうへ入座して、高校に行きながら人形遣いの活動していました。
いとううんうん。
清志郎で、高校の時に住太夫師匠と先代の燕三師匠がいらっしゃって、演奏してくださって。それは薬師寺の住職の方がご一緒だったかと思うんですけど。そこで僕、住太夫師匠と燕三師匠の浄瑠璃で足を遣ったんです。
いとうマジで? すげーな。
清志郎その後、文雀師匠と和生兄さんと和右さんが講演で飯田へ来てくださった時に、高3の頃だったんですけど、花束を渡して、「文楽行きます」って伝えて、その後、12月に冬休み入って大阪へ、高速バスで初めて出たのかな。で、文楽劇場に行って。
いとうその時、「文楽行きます」と言って花束を渡して、僕、師匠の世界に伺いますよって言ったときには、もう完全に決まっているわけでしょう、気持ちが。
清志郎はい。もう決まっていました。大学受験もしなかったですし。
いとうもうこの世界に行くからって。
清志郎人形遣いになるって決めていたんで。
いとうあっ、それは人形遣いになるということを宣言したんだ。
清志郎はい。
いとうで、人形遣いになるつもりで上京というか、大阪行くじゃないですか。
清志郎はい。これだけ熱意があれば、きっと入れるだろうと思って、文楽劇場に着いて、どこに行っていいかわからないで、ガードマンさんにとりあえず訊いてみたら、「上行け」って言われて、5階に上がって。
いとうちょっと待ってください!何にも言ってなくて行ったんですか。
清志郎はい。でも、文楽の皆さん、いなかったんです、東京公演で。
いとうあははは(笑)。メンバーがいない!お留守だったと。
清志郎何にも調べずに行った。
いとうそれでも行ったんですね。
清志郎インターネットもないし、調べる伝手がない。
いとうあー、そうか。
清志郎はい。文楽というのが世の中にあるということがわかったんで、行ったぐらい。
いとうすごいなあ。それは本当に江戸時代みたいな話だよ。
清志郎それがなかったら、もしかしたら誰か人形遣いさんに直に入門していたかもしれないですね。
いとうそうか。面白い話だなあ。

清志郎で、ガードマンさんに「入れてください」って言ったら、俺じゃない、上に行けみたいになって、上に行ったんですけど、よくわからないんで、入口で大きな声で叫んだ覚えはあります。
いとうすいませーんって?(笑)
清志郎「文楽入れてください」って。
いとう「文楽入れてください」(笑)
清志郎そうしたら養成課の人が来て、養成事業というのに入りなさいってなって、何かよくわからないですけど。
いとうサインとかして?
清志郎その時はサインまでは行かないです。この日に試験があるから、もう1回来て、みたいに予定を言ってくれて、その研修生の試験のときに改めてまた出てきたんです。まあ、結果、大阪に行って帰っただけで。もう帰らないぐらいの気持ちだったんですけど(笑)。
いとうどういう面白さなんだろうね。やっぱり清志郎君って面白いね。
清志郎で、それで、研修で三業とも習ったんで、三味線というものに初めて。
いとうそこで触れた。
清志郎はい。聴いていたはずなんですけど、全然そこまで意識してない。
いとう意識してないんだ。人形のことだけしか頭になかったんだ。
清志郎はい。
いとう太夫はどのぐらいの意識?
清志郎太夫も全然。
いとう意識してない。人形だ。
清志郎そうですね。人形以外は考えてなかったんで。
いとうはあ。で、そこで三味線に触れた。そしたら、急激に三味線に行っちゃったわけ?これは急なの?
清志郎これは、じわじわというのか……。
いとう研修しているわけじゃないですか。
清志郎そうですね。あの時はまだ若いし、何もわかってないんですけど、詩吟をやっていたんで、研修で声出せって言われてもそんなに苦じゃない。
いとうなるほど、なるほど。
清志郎嶋太夫師匠が「お前、何かやってたな」ってすぐわかってくれて、詩吟というのをやってますって言ったら、「全然発声が違うから、それはすごくいい」とかって言ってくださったのを覚えていますね。で、人形もまあ何となく。
いとう動かせる。
清志郎めちゃくちゃですけど。淡路島の吉田東太郎という元は文楽座にいたおじいちゃんが飯田に来てくれてて。
いとううん。
清志郎簑助師匠と同じ頃に文楽に入られた方なんですけど、その方に教えてもらっていたのも大きかったかもしれません。文楽風の持ち方とか、そういうことは教えてもらっていたのかもしれません。アル中だったみたいでずっと手が震えていて。
いとうすごいね(笑)。
清志郎人形を持ったときだけ、ピタっと止まる。
いとううわー、人形持つと止まるんだ。
清志郎はい。「坊主、酒買ってこい」ばっかり言っていましたけど(笑)。
いとうやるなあ。
清志郎かっこよかったですけどね。そのおじいちゃんに人形を教わったことも大きかったと思います。で、研修のレベルなら、同期にもまあまあ遅れを取らずに行ける。でも、三味線だけは本当についていけなくて。
いとう難しい。
清志郎すごい劣等生で。同期のあとの3人はまだ楽器とか音楽の素地があったから、耳も確かだし。僕は調弦もわからないし、一と二と三の弦の音の違いも全くわからないんです。音高も一緒に聴こえるし、音質も全部一緒に聴こえるから、この3本違う?というぐらいのところからだったんで。
いとうなるほど。
清志郎すごくこれに、浚うのに時間がかかったんですね。研修の授業で三業習って、5時ぐらいに終わって、そこからは4、5時間は三味線だけ稽古していたので、「三味線のすごい好きな奴がいる」という噂が流れた。
いとう逆に(笑)。
清志郎違う、そうじゃない。(笑)
いとうできないからなんだって(笑)。
清志郎それで三味線の先輩方がたまに来てくれるようになって、三味線弾きになれ、みたいな。
いとう好きらしいなと。
清志郎違うんです、違うんですって(笑)。やらないとついていけない。そういうので、時間的には確かに太夫、人形に関してはあまりお浚いはしなかったんですけど、三味線だけはひたすらやっていて。
いとうへえー。
清志郎それで1年たったところで、どうするかと。どうしようかなって、わからなくなったんですよね。でも、ここで放り出すにはあまりにもったいないというか、すごく三味線の音に魅力を感じていまして。
いとう感じ始めてたんだ。
清志郎すごい音だなって。僕にとっては、リコーダーと鍵盤ハーモニカ以外で初めて手にした楽器なので。

いとうでも、その聞き分けはもうできるようになってくるわけですか。
清志郎そうですね。2、3か月で何とかやっと調弦ができるように。
いとう調弦もできるし。
清志郎ずっと、ドンドンテンテントンドンとか、そんなことばかりやっていましたね、3弦の音を覚えるために。何とかそれは合わせられるようになって、やっとついていっていた感じですね。
いとうで、それを次の年にも選んだというか。
清志郎そうですね。そこからはどれになるかを決めないといけないので。
いとうじゃあ、そこですね、人生の。
清志郎そうなんですよね。分岐点でしたね。
いとう分岐点ですよね。でも、三味線がやりたいって思うってことは、できないから悔しくてなのか、好きだからなのか、どちらですか。
清志郎できないから悔しくて。それだけでした。
いとう悔しいから、やりたい。
清志郎やりたい……うーん、まあ、今でもそうですけど、ちょっと人間的に弱いところがあるので、負荷をかけて自分を鍛えるほうがいいかな。三味線が目的とあのときは思ってなくて、難しいものとか、ずっとできないままで置いておけるものをやっているほうが、自分は成長するのかなって。
いとうすごい偉い。
清志郎でも、それが今ちょっとね、最近かみ合わなくて困っている。
いとうあー、自分と?
清志郎はい。好きじゃないから(笑)。
いとう好きじゃないから?!(笑)
清志郎好きで始めてないから……何て言えばいいのか、うーん……。
いとう何か違う。
清志郎うん。
いとう面白いな、でも。面白い。

清志郎そういうので若気の至りというんですかね。追いつかなくなってきたんですよね。自分に負荷をかけて、嫌いでもやるということでは続けられない。今、だから、かなり止まっているんです。
いとうそうか。それは、より難しいものを弾くとかというようなことにせざるを得ないということになってくるわけ?でも、そんなこと選べないもんね。
清志郎そうなんですよね。
いとう演目によってだし。でも、とにかくレベルを上げちゃうしかないですね。
清志郎そうなんです。
いとうめちゃめちゃあの人すごい三味線弾く人が1人いるよ、というふうになるしか、負荷をかけて幸せになる道はないんじゃない?
清志郎ないですよね。また、師匠方、先輩方がすご過ぎて、もうそれを追っかける気持ちがちょっと今、消えかけていて(笑)。
いとうやばいじゃない(笑)。
清志郎困ったなと。
いとうすごいねえ。
清志郎だから何とかね。
いとうスランプじゃん、それ。いいじゃない(笑)。
清志郎あはは。そうですかね(笑)。
いとういや、まあまあ、僕も楽器のスランプはないけど、書くことのスランプはひどいのが、16年間、小説書けなかったんだからね。書こうとすると、体の力が抜けちゃうというか。
清志郎えー。
いとうこんなことしてもくだらないって思っちゃう。でも、書きたいんですよ。それが16年間続いて、急にポーンとまた書き出した。でも今、早くも第2期スランプが来ていますから。
清志郎そうですか。
いとうええ。いつまでも来ますから(笑)。
鶴澤清志郎編(その3)へ(つづく)
2月文楽公演は
2月8日(土)から26日(水)まで!(17~19日を除く)
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