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鶴澤清志郎編(その3)
鶴澤清志郎編(その2)よりつづく
いとうま、それはともかく(笑)、それで始めるわけじゃないですか。
清志郎何か三味線弾きになりましたね。
いとうで、最初に言った、実は三味線というものが合図出しているという、つまり全体の構造ですよね。その構造自体がわかったのはどのぐらいなんですか。
清志郎うーん、今でもわかったとはちょっと言えないですね。言えないですけど、心構えとして、そのつもりでなきゃ駄目だと師匠には言われ続けています。
いとううんうん。
清志郎そんなの僕ちょっと弱いんで、人の影に隠れがちなんですよね。太夫に合わせていくとか、ツレだったら、そのツレている人たちに……。
いとうそういう人を目立たせるように。
清志郎そうですね。自分を消してどうやってやるか、というのをいつも考えてしまうんですよ。それじゃない、ということを師匠はおっしゃいます。
いとう自分で出ろと。
清志郎そうですね。自分が主導してやっていくという意志を持ってやるんだ、というのを強く僕に言ってくれるんですよね。だから、せいこうさんに伝えている言い方はちょっと強いですけど、文楽内のルールじゃなくて、僕のルール。
いとうああ、そういうことか。というか、師匠が特に清志郎君にはこういうふうにしたほうがいいって思ったときのルールが、まず三味線が引っ張れと。
清志郎意思を持って弾けと。
いとうということだよね。
清志郎そうなんです。でも、実際にそうやってやると、人形さんもこっちに合わせて足踏んでくれるようになるし、太夫も強い意志でガッと行ったら、息をグッと詰めて言ってくれる。
いとう向かって来てくれると。
清志郎はい。こっちが強い意志で「こうです」ってはっきり言い切らないと、何て言うか、全部がぐにゃぐにゃになるんです。そうなりかけた時に全部をコントロールできるのは三味線なんだと思っています。そういうふうに師匠がおっしゃることを少しずつ理解できるようになるいうか、本当にそうしないと、まとまらない。一体感がもし生まれるとしたら、それは三味線の力なんだと、僕はそういう意識でいます。

いとうよく言われていることで、僕も人に人形浄瑠璃の魅力を伝える時に言うことがさ、合わせに行ったらあかんということがありますよね。各自が合わせに行かない、バラバラじゃないんだけど、自分の解釈でこれがいいと思うやり方でやっているんだけど、でも、確かに客としてはある一瞬ズバーンと合う時があって、「あっ、この気持ちわかる」みたいな。「それはそうだよね、そりゃあ姫はそういう仕草になるよね、その時こういう声出るよね、その時こういう音楽聴こえているよね、わかる!」っていう時がある。でも、また離れていってしまうというのが僕は実に都会的な音楽だなという、都会的な娯楽というか、都会的な芸だなと。説明、説明、説明、当て振り、当て振り、当て振りをしないというところなんだけど、でも、そういう、今、僕が言ったことはどのぐらい合っているんですか?
清志郎ほぼ全部合っているんじゃないですか。むしろ不正解を知らないので。
いとうそうか、そうか。
清志郎皆さんの感じ方が正解だし、どう伝わっているかですね。どうやっているかじゃなくて、どう伝わっているか。
いとうああ、なるほど。
清志郎はい。でも、僕は全然、その今おっしゃったことに対しても全く疑問がないですね。
いとうでもさ、それで三業がバラバラになっている状態がある意味並行して動いているということの良さ、ある程度の距離感が少しあるということ、僕はクールさだと思っているけども、情念を語るんだけど、ベタベタしない、し過ぎないという、田舎っぽくないという感じのものを、それをまとめる唯一の細くて強い線が三味線だということでしょう。
清志郎うん。そう思っていますね。
いとうそれがなかったら、バラバラになっちゃうということでしょう。
清志郎なりかねないですし、太夫は仕事量がとんでもなく多いので、誰かがコントロールする必要があると思うんですね。
いとうどういうこと、どういうこと?
清志郎1人だけでは多分、自分をコントロールし切れないぐらい仕事量が多いんですよね。登場人物も多いし、いろんな感情も出てくるし。で、やっぱり自分で語りつつ、そのムードみたいなものに入り込んでいくのもかなり集中力が要ると思うので、その空気を三味線が作り出すというか。
いとうああ、そうか。
清志郎まず太夫をその気持ちにさせる、太夫をどう入り込ませるか。で、太夫がそういうふうにしゃべりの力で物語に集中して、今は怒っている、泣いているみたいなところがかなりくっきり三味線の力と一緒に語り込めるようになれば、人形が遣える。で、そこで人形が遣えれば、文楽としてのまとまりが出るんで、お客さんに伝わる。
いとう伝わる。
清志郎そうすると、客席に何かこう渦みたいなのが起こって、それをまた三味線が変えていくという好循環が生まれていくんですけど、三味線の力はむしろ太夫をどうやって追い込むか。
いとうある世界に、物語の世界に追い込むか。
清志郎はい。引きずり込んでいって、緊張感とか、何か呼吸をコントロールするようなところがあるのかなと思うんですけど、太夫がどうやって緩まずに息を詰めて、ガーッと語っていくかとか、三味線がバシバシバシと畳みかけるようにするかとか。
いとうまだ行け、まだ行けって。
清志郎壁をつくってコントロールしていくので、例えば曲がりそうなところにガガガガッと全部こっちでいなすようにするというか。
いとう行き過ぎたら行き過ぎたでクールに引いてとか、音量も少しだけ下げれば、勘づいて、すーっと、「あっ、ここはちょっと行き過ぎた」とかということの調整をしている。
清志郎そんな感じがしますね。

いとう調整をする楽器だからこそ、清志郎君が自分で感じている、相手を立ててしまうところも出ちゃうかもしれないから、そこを気をつけろということでしょう。
清志郎そうですね。
いとうアシストになっちゃうから。
清志郎そうなんですよ。はい。だから、そこですよね。並走してしまうと、道外れていることも気がつかないまま一緒に行ってしまうので。
いとうああ、そうか。
清志郎そこでここまでだ、というところで止めてあげる。
いとう「それは違う」ということだね。その「違う」というのは、つまり、物語のセリフや地の文とか、そういうものの解釈の問題ですか。
清志郎うーん、どうなんでしょうね……。解釈とも言えるかもしれませんね。この意味合いのこの内容を語るんだったら、こういう言い方になるだろうという必然みたいなものとか、こんな緊迫した場面でこんなにだらだら進まないだろうとかいうのは、お互い当たり前に寄せていく。浄瑠璃のルールということなので、世間の常識じゃないのかもしれませんけど、ある程度大多数の人がそっちに旗を上げるものに寄せていく。
いとうその音を出す。
清志郎そうですね。で、呼吸をコントロールするという。
いとう相手の、それは息というやつですか。
清志郎そうですね。その音を出す目的も、きっと太夫さんのためだと思う。お客さんのためじゃなくて。太夫の世界にいざなうといいますかね。音色で、今は自分は姫を語っているんだなとか。
いとう姫らしくね。
清志郎今、武士を語っているんだなというのを乗せてあげるというんですかね、そういうことができれば。あとは呼吸ですね。
いとうその呼吸は何、リズムのほう?
清志郎うーん、吐く息ですかね。
いとう吐く息の量ですか。
清志郎そうですね。量と距離というんですかね。
いとう届く距離ということですか。
清志郎深い息とか浅い息もきっとあるんですけど、浅いところで止めて跳ね返すとか。
いとうえっ、何?!跳ね返すって?
清志郎吐くのを何か止めて、吸わせるというんですか、ガッと飲み込ませるみたいな。
いとうああ、言い過ぎないで止めて、すーっと後ろに下がっているみたいな。ズドドドドッと前に行っているだけじゃ表現の幅が出ないというか。
清志郎そうですね。勢いを落とすことも大事だと思います。その持つ単語そのもののリズムと呼吸というのもある程度あるので、普通に正しく読みさえすれば、そのリズムもきっと生まれてくるし、でも、変にダラーッと流れていったりとか、そういうとこは止めないといけないので、そういうのが三味線の仕事なんですかね。太夫が集中して、今、緊迫してなきゃ駄目なんだということに気がつく。
いとうその世界観から絶対外れないというか、世界観をきっちり埋めるために、内面的にも埋めるために三味線が音でその合図を出しているというか、指示をしている感じ?
清志郎そうですね。
いとう「ここまで上がれ」とか、やっているということですね。
清志郎そう考えてやっています。実際に語っている側には伝わっていないことばっかりだと思うんですけどね。思わずそこに引きずり込まれてくるだろうと信じていくしかない。
いとうそれは、この人のこの時の演奏がやっぱりそれがすごい究極なんだよなとか、きっとあるわけでしょう。
清志郎そうですね、見本とする人の。
いとうどんな人の?
清志郎僕はもちろん自分の師匠ですね。
いとううん。すごいと。
清志郎どの曲でも参考にしますし、もちろん師匠の三味線が大好きですよね。全然違いますよね。何だかわからないですけど。
いとう僕、今の織太夫さんにちょっと太夫の真似事を体験させてもらって、同時に、真心ブラザーズの桜井(秀俊)ってやつが、せっかく太夫にはまるだろうと思って俺が聴かせたCDの三味線ばっかり聴いてたということがさ、やっぱギタリストなんだという。で、あいつはあいつで清馗君のところに通って、ちょっとやらせてもらったりして。だから桜井とよく国立劇場とか文楽劇場とかに行って聴いている時に、「清治さんの演奏がすご過ぎる。ギタリストとしてとんでもない域に行っている」と。「せいこうさん、本当にすごいです」って。どうすごいのか、俺は聴き分けられないんですよ、逆にね。で、どういうことなのって聞いたら、「一番わかりやすく言うと、1人なんだけど、オーケストラに聴こえるんです」って言うんですよ。どういう意味?
清志郎いや、僕にもわからない(笑)。
いとうどういう意味なのかな。
清志郎わからないですね。
いとういろんな倍音とか、ああいうのが単音で出ているわけじゃないということじゃないかな。
清志郎そうでしょうね。かなり絞り込んだシャープなシンプルなというか、正確な演奏をされるので、あんまり曖昧に動かすこともないし。ただ、何でしょうね、音の深みですよね。
いとう深み……。
清志郎何ていうか、厚みというんですかね。どう言ったらいいのか、幅というのか、それをオーケストラとおっしゃるのか。

いとう幅というのは、つまり、厚みというのは、例えば1音出したときの中にたくさんある厚みなのか、タイミングなのか……?清治さんはこうも言っていますね。、そこに例えば庭があって、左のほうに石がね、枯山水なのかわからないけど、そういうようなものを、これは僕が勝手に出している例だけど、そういう時に、その庭の前で何かやっているのを三味線が鳴らしたときに、その石がどこにあるかがちゃんとわかんなきゃ駄目だとたしか言っていて。「そんなことが何にも言葉で言ってないのにわかるってどういうことなんだろう?」って、また「すげえな、浄瑠璃」って思っちゃって。どういうこと?
清志郎わかんない。
いとうわかんない?(笑)
清志郎わからないことばっかりですね(笑)。でも、かなり具体的で、曖昧なところがないので。
いとうそういうとこ、そういうとこ知りたい。何?
清志郎イメージでは、すごく全部はっきりされていると思いますね。
いとうここはこういう人がここに立っていて、こういう気持ちで、ここはこういう気持ちで、その気持ちがだんだん変わってきていてとかって、そういうこと?
清志郎それも含めてですね。あとは太夫さんとの関係で、太夫さんの呼吸をもらってから、音のない部分の取り方というんですかね、ここもすごく明確で、曖昧なところが1か所もないですよね。僕はこれを見失ってしまうんですけど、間を。
いとうつまり、そのたびごとにちょっと雰囲気が変わっちゃうとかってことね。
清志郎音の捉まえ方というか、周りの音を捉まえて、その後ろに来る空間みたいなものがものすごいはっきりイメージされていますよね。どこに着地するか、当然ですけど、全部わかっていて、ということの連続ですよね。1個も着地点がブレないですよね。
いとうブレることがない。それは相手との関係が特にわかりやすい。
清志郎そうですね。これも、だから、そういうところも含めて曖昧にしていないと思うんですよ。適当なところがないですね。イメージを含めて、間もそうだし、強弱も全部そうですし、毎日同じことをされるので。
いとうはあー。でも、ほら、太夫のほうがもしブレちゃった場合はどうなってんの? それを太夫のほうもブレても変わらず?
清志郎そうですね。やり続けて。
いとうやり続ける。
清志郎太夫さんが戻ってきますね、うちの師匠を信じて。
いとうああ、戻ってくる。
清志郎うん。
いとうどういう感覚?それ戻ってくるというのは。やっぱり、いつもと違うふうに、いや、太夫がやっちゃう、客との関係でもやっぱりそれは少しずつ変わっているからこその芸だと僕はやっぱり思うんだけど、でも、それが行き過ぎちゃってるような場合に、確実に元に戻せるように。
清志郎そうですね。そうされていますね。
いとうリズムも。
清志郎はい。
いとう音量も。
清志郎はい。そこが僕にはちょっとわからないですけど、呂勢太夫さんもうちの師匠から「勝手にやりなさい」って言われつつも、でも、師匠が拵えたものの中からははみ出さないようにされていますし、何かいつもと違うことが起これば自分がどこか違っているのかな、というふうに認識されてますね。そこも難しいんだろうなと思うんです。
いとうすごい世界ですね。
清志郎ついていってもいけないけど、勝手に行ってズレていたら、どっちを信じるかといったら、それは師匠を信じるということになると思うんですね。

いとううんうん。そのとき人形はどういう感じなんですか。清志郎君は一番人形遣いの気持ちがわかる三味線でしょう。
清志郎いやいやいや。でも、人形のほうはもう太夫、三味線がやるように動くしかないので。
いとううんうん。合わせに行っているというんじゃないけれども、どっちかというと合わせられる、みたいな。
清志郎そうですね。浄瑠璃の文章が中心になるので、太夫が「誰が何をした」って言ったら、その人が何かをするしかないので。
いとうそうですよね。
清志郎人形さんも先行して動いてはいきますけれども、でも、書かれていない動作はできない。だから結局、太夫が語らんと動けないというのは先代玉男師匠もおっしゃいます。「お前らがやってくれんと動けん」と。
いとう俺たちは動けないんだと。
清志郎それは玉男師匠が僕に言ってくれたんで。
いとうそれはもちろんね、言葉の問題はまず確実にあるにしても、まあそれは言葉が主導する以外にはないよね。で、この場合の三味線弾きと人形遣いの関係ですよね、どうなっているんですか?
清志郎ほとんど見えてないんで。
いとうそうですよね。一番最初に言ったけど、見えない位置にいるんだもんね。
清志郎そうなんです。合わせることはできないんですけど、うちの師匠ですと、「フシ落ち」という、「トントントントーン、ジャラン」という人形の出入りに係ることの多い旋律があって、会場ごとに舞台の間口が違うので。
いとうああ、そうか。
清志郎そういうときのその距離が。
いとう人形遣いの移動距離が違うんだ。
清志郎そこを感じて1つ足すこともあったりとか、そういうふうに常に人形さんが動けるように。合わせるってことじゃないですけど。
いとううん。そうせざるを得ないですよね、だってね。まだ座敷に入って、座敷の奥にも行ってないのに、その音を切り上げるわけいかないもんね。
清志郎はい。だから、常に合わせてはないんですけど、どうやったら遣えるかということは考えている。
いとううんうん、それをお互いに融通し合っていると。
清志郎そうですね。
いとうむしろ合わせに行かないというのは、気持ちとか気迫とか、そういった問題で何かこう思わずついていっちゃったとかということをしないということなんでしょうね。
清志郎そうですね。ぎりぎりの速度もきっとあるんで、人形さんが、ちょっとそれは速過ぎて遣い切れないという話になって、相談したことあるんですけど、それはぎりぎりのせめぎ合いですよね。それでも、動きやすいからこうしてくれというのには応じられない。
いとう応じられないと。
清志郎そうですね。
いとう曲としてこうなんだと。
清志郎はい。
いとう「その間に動いてくれ、むしろ」というせめぎ合いがある。
清志郎せめぎ合いですね。師匠とかはそういうことが起こらないように、やっぱり間が大きいとか、本当に遣いやすいんだと思うんですけど、その辺もどこを譲るかですけど、動作に合わせてしまうと、曲として一番大事なところを明け渡してしまうことにもつながるので
いとうなるほどね。
清志郎ただ、自分の基準がズレている以上はどこまでも突っぱねるわけにもいかないんで、きっとこっちに原因があるんだなと思って、やることを少し変化させる努力をするべきだと思うんですけど。でも、そうやったら遣いやすいんですね、って合わすということはやっちゃいけない。
いとうそれをやっちゃうと、伴奏になっちゃうもんね。
清志郎そうなんです。
いとう絶対伴奏になっちゃいけないということを気にしているということ。
清志郎はい、それはやっぱり。
いとうそれと、太夫の言葉に合わせて人形が動くけど、あんまりその何て言うかな、俗に合わせると当て振りになっちゃうもんね。
清志郎そうなんです、そうなんです。
いとうこの2つは絶対かっこ悪いもんね。
清志郎それと、太夫さんの席から見えない位置なので、機構的にできないというふうになっているのもあるんですけど。歌舞伎の竹本さんみたいに舞台の見える位置にはいないので。
いとうああ、歌舞伎は見えるよね。うんうんうん。
清志郎はい。「振り返るな」と言われているので、やれない。
いとう「振り返るな」ってやっぱり言われているんだ。
清志郎そうです。やれないのもあるし、やらないようにしているのもあるし、お互いにそのルールは守って、人形さんもそんな事細かにこっちに注文を出すということはされないですし、「どうしてもここだけはちょっと……」ってところだけですかね。
いとうちょっとだけ間を遅れて、自分もその思い入れの動きがしたいとか。
清志郎何とかなるかな、という時はたまにありますけどね。
いとううん、面白いねえ。面白い。
鶴澤清志郎編(その4)へつづく
2月文楽公演は
2月8日(土)から26日(水)まで!(17~19日を除く)
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