国立劇場草創期
2023.05.02 更新

国立劇場草創期 ⑪
演芸場開場

三遊亭金翁(落語家)
 国立劇場の草創期を知る方に貴重なお話をうかがう「国立劇場草創期」。第11回目のゲストは落語家の三遊亭金翁さんゆうていきんおうさんです。金翁さんは昭和4年(1929)東京世田谷生まれの深川育ち。12歳で三代目三遊亭金馬に入門し、山遊亭金時を名乗り初高座。同20年(1945)16歳で戦後初の二ツ目として昇進し、三遊亭小金馬に。テレビ出演で一躍お茶の間の人気者となり、同33年(1958)真打昇進。同42年(1967)四代目三遊亭金馬を襲名。令和2年(2020)二代目三遊亭金翁を襲名され、93歳の今も現役で高座を務めていらっしゃいます。今回は、国立演芸場の開設に尽力された頃のお話をうかがいました。
 (この記事は、会報「あぜくら」令和4年(2022)10月号に掲載された特別インタビューを、ご好評につき再録するものです。)

三遊亭金翁さんは令和4年(2022)8月27日に逝去されました。93歳でした。
このインタビューは、同年7月にご自宅で行われました。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

演芸人が建設運動

昭和40年代後半から50年代の前半にかけて、国立演芸場建設運動に力を注がれたとうかがいました。

 あれは三宅坂に国立劇場ができたことがきっかけです。立派な劇場が出来たのを見て、演芸人の間で「演芸も日本の伝統芸なのだから、国立の演芸場が欲しい。国立演芸場は必要だ」という声が広がったのです。政治家さんや役人の方への働きかけは、講談師を辞めて参議院議員になった一龍斎貞鳳いちりゅうさいていほうが熱心に指導してくれました。個別に役所に掛け合っても話が通らないので、団体戦でいこうということになりまして、昭和46年(1971)に日本芸術協会(現落語芸術協会)、落語協会、講談協会、日本浪曲協会、太神楽曲芸協会、日本奇術協会、漫才協団、東京演芸協会がひとつになって、日本演芸家連合という組織を作ったのです。初代会長は春風亭柳橋しゅんぷうていりゅうきょう。副会長が三遊亭圓生さんゆうていえんしょう東家浦太郎あずまやうらたろう松旭斎天晴しょうきょくさいてんせい鏡味小仙かがみこせん、コロムビア・トップ、牧野周一まきのしゅういち。理事長は神田山陽かんださんよう。副理事長が春風亭柳昇しゅんぷうていりゅうしょう柳家やなぎやつばめ、リーガル天才。私は昭和48年(1973)に理事長になり、平成16年(2004)から13年間会長を務めました。

演芸場建設運動は、演芸人の熱望から始まったのですね。

 あの時は、国立演芸場を開設してもらうために、演芸人が一丸となったのです。あれだけ一生懸命になって運動するなんてことは、後にも先にもないと思います。国が運営する恒久的な寄席がどうしてもほしかったのですね。それに不安定だった演芸人の地位を高めたいという願いもありました。

金翁さんも陳情に行かれたのですか。

 陳情に一番通ったのは会長の柳橋さんですが、私もよく駆り出されました。役所に行くと「ああ、金馬さん。まぁどうぞ」なんて皆さんがお声がけくださる。これは芸人の特権で、ありがたかったです。陳情の持ち時間は3分でしたが、時間切れになると「今のは前座、これからが真打の登場です」なんて、リーガル天才さんがうまい事を言って皆さんを笑わせるんですよ。お堅いお仕事の気晴らしになるのか、芸人の陳情はいつも大笑いでした。
 そんな賑やかな陳情が功を奏したのか、昭和48年(1973)2月には国立演芸場を建てるための調査費が文化庁の予算について、昭和52年(1977)4月の国会で建設の予算が通りました。この時は、嬉しくて乾杯しましたね。建設運動を始めて8年、これは異例の早さだと言われました。

盛り場にない演芸場

閑静な環境に不安はありませんでしたか。

 閑静どころかむしろ寂しいところで、お隣は最高裁判所でしょう。新宿、池袋、上野、浅草にはすでに寄席があって、繁華街で演芸場がなかったのは渋谷です。実は道玄坂に良い土地があったのです。ところが高額で手が出なかった。色々と当たって、結局国立劇場の地続きにあった民有地、今の場所に決まりました。お客様が来てくださるのか心配しましたけれど、他に選択肢がないのですから、ここで頑張ろうと腹を括りました。

国立演芸場開場

昭和54年(1979)3月22日が開場式。23日から29日までは開場記念公演「日本の寄席芸―東西名人揃いぶみ―」でした。

 春風亭小朝しゅんぷうていこあさ君の「雛鍔」で初日の幕が開いて、私は2日目、24日夜の部で「愛宕山」を出しました。25日の昼の部には、圓生師匠が「鹿政談」でトリをとられました。
 高座も楽屋も客席も、広くて綺麗で贅沢な造りですよ。夢のまた夢みたいに思っていた国立演芸場が本当に出来たのだから、それは嬉しかったです。

開場記念冊子と記念公演の大入袋


 開場記念公演は賑わいましたが、やはり寄席のお客様には馴染みのない場所です。演芸家連合の顔付けもうまくいかず、その後の客足はよろしくなかったです。出演料は「ワリ」といって入場料を劇場と折半する形で、最低保証を決めていなかったので芸人の受けも悪い。これではいけないというので、2年目からは出演料のワリをやめて、顔付けも国立劇場さんにお任せしました。この2年目のてこ入れはよかったと思います。

国立演芸資料館と養成事業


 演芸場の本来の名称が「国立演芸資料館」であることを今の若手は知らないでしょう。お客様方もご存じないかも知れませんね。実は、「演芸場」では建設許可がおりなくて、「演芸資料館」として認可されたのです。つまり、演芸資料館の中のホールで寄席芸を披露するというかたちです。
 ところが、この資料館が実にありがたいと、後になって気が付きました。資料として高座を記録録画してくれるでしょ。古い映像は特に貴重ですよ。演芸に関する書物や所蔵品も相当収蔵されてますね。それを展示して無料で見せてくれます。
 それから寄席囃子や太神楽の養成。寄席囃子の方は、今ではほとんどが国立劇場の研修生出身者でしょ。これも国立さんでなければできないお仕事です。

国立演芸場に望むことはありますか。

 国立演芸場ができて、国の側にも演芸人をひとつの地位として認める動きが出てきたと思うのです。平成になると柳家やなぎや小さんさんや桂米朝かつらべいちょうさんが人間国宝になりました。その間、演芸人の意識も随分向上したのではないかと思います。
 建て替えて新しい劇場になっても、国立演芸場は国立ならではの一流の番組を組んでもらいたい。芸人が「国立の番組に出たい」と思うような檜舞台であってほしいです。

新しい演芸場の杮落こけらおとしでの高座を楽しみにしております。

 新しい劇場が出来るのはいつですか?7年後!生きていないですよ(笑)。もしも100歳まで元気だったら、お役に立てるといいですね。お客さんがくつろいで、ゆっくり噺を聞くことのできる、国立さんらしい品のよい寄席になってほしいです。

三遊亭金翁


貴重なお話をありがとうございました。

(取材 あぜくら会)



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