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国立劇場
いとうせいこうによる 文楽の極意を聞く

竹本織太夫編(その1)

左:竹本織太夫、右:いとうせいこう

いとうじっくり話すのは久々だよね。もう6年どころじゃないでしょう。

織太夫織太夫になってから8年目ですから、最低でもそれくらい。

いとうそうか。随分経ったなあ。

織太夫襲名披露のパーティでは会ってますから、そんなこんなでほぼ9年ぶりくらいじゃないですか?

いとう9年?!どうなってんだ、時というものは。

織太夫あはは(笑)。あっという間ですよ。

いとうほんとですね。

織太夫でしょ?

いとうこっちは観てるんだけどね、一方的に来て観てる。

織太夫襲名は、正式に決まる3年ぐらい前から、ずっと咲太夫師匠に「継げ」と言われていて、3回目に言われたときに、「今回はうちの親父さんの五十回忌で、わしは八代目綱太夫の息子として五十回忌の追善の舞台をやることが夢だった」と。「ここでお前が“織太夫”になることには大変な意義があるから、今回限りは言うこと聞いて、継げ」と言われたんです。

いとうそれまでには、「織太夫」じゃない名前を継ぐ話もあったんですか?

織太夫そうです。20代後半ぐらいで1回そういう話があって、それは「つばめ太夫」です。

いとう「つばめ太夫」

織太夫でも、まだそういう時期じゃないと思いますとお答えしました。

いとうああ、そうだったんだ。

織太夫で、師匠から「名前を継ぐとしたら“つばめ太夫”か“織太夫”か」と言われた時、「“つばめ太夫”です」と言ったんです。

いとう自分で? 織太夫さんが師匠に言ったの?

織太夫そう。それで、その3か月前にも、夏だったと思います。住太夫師匠からも言われたんです、東京の国立劇場で。咲太夫師匠が歯磨いてる時に、「お前のところの咲甫(織太夫の前名、咲甫太夫)な、“つばめ太夫”どうや?わしぴったり思うねん」とおっしゃった。42歳で織太夫になってるから、その2、3年前で40歳くらいの時ですよ。「わし、ぴったりや思うねん」って。そしたら咲太夫師匠が「兄さん、こいつもう40でっせ。40で“つばめ”はないでっしゃろ」って言ったらしいんです。

いとうああ、若々しい雰囲気の名前なんですね、「つばめ太夫」というのは。

織太夫はい。でも、「つばめ」っていうのは、「竹本津太夫」のところで葉っぱの芽が出るって書いて「津葉芽」の当て字なんですよ。

いとうえ、そうなの!

織太夫はい。それで、(豊竹)山城少掾師匠はもともと4歳から6歳ぐらいまでかな、片岡仁左衛門家にいてて、役者やっていたんですよ。

いとう役者を? 知らなかった!

織太夫さんの話題に引き込まれるいとうせいこう

織太夫片岡銀杏という名前で、当時の三代目片岡我童、後の十代目仁左衛門に弟子入りして子役をしていたんですよ、確か。十代目仁左衛門は養子にするつもりがあったとかいう話もありますが、十代目仁左衛門の妹さんのところに子供が生まれて、甥っ子ですね、その人が養子になったので、結果的にはそうはならなかったんです。後の十二代目仁左衛門となった人です。子役となった後、浄瑠璃は竹本政子太夫と鶴澤清道という方に習われていたみたいで、あと日本舞踊は浅草の初代花柳壽輔さんに踊りを習ってたみたいですよ。お父さんは浅草の筆職人で、お母さんは大阪の人やったから、

いとうあ、お父様が浅草の人だってことしか知りませんでした。

織太夫阪町に住んでいた、十代目仁左衛門の弟で、今の十五代目仁左衛門さんのお祖父さんの当時の三代目片岡我當、後の十一代目仁左衛門に紹介してもらって「法善寺の津太夫」に入門したんです。阪町って今の丸福珈琲店の本店があるところ。

いとう本店ね。あそこね。

織太夫あの並びに仁左衛門丈の家があったんです。

いとうへえ、そうなんだ。

織太夫そこから今、法善寺に「侘び寂び」というすき焼きの店があるんですが、そこが「法善寺の津太夫」と言われた七代目綱太夫の家だったんです。初代鶴澤清六の娘である鶴澤きくと茶見世をやっていて、後にカフェーリスボンというカフェになったり、孫婿と結婚して七代目綱太夫の名跡養子の四代目清六が「鶴源」という天ぷら屋を始めたり……と四代目清六が私にとっては大伯父であり、その弟子であり妹婿の二代目道八が私の祖父、祖父は十代の頃は大伯父が揚げた天丼の出前していたなんて逸話があるくらい清六家は法善寺ともゆかりが深いんです、初代綱太夫・二代目綱太夫の墓もあるので、本当はこの時間だけでは話せないくらいなんですけど、話を戻して、「津葉芽」という名前なんですが、三代目我童・十代目仁左衛門の俳名が「芦燕」なんです。草冠に「戸」という「芦」と、

いとうああ、「芦」ね。「長沢芦雪」の「ろ」ね。江戸時代の絵師の。

織太夫芦燕というのが十代目仁左衛門の俳名なんです。だから、仁左衛門家から綱太夫家に行くにあたって、その時、師匠の七代目綱太夫は三代目津太夫を名乗っていたので、「津太夫のところで葉っぱの芽が出る」ということなんです。片岡銀杏という歌舞伎俳優から文楽の太夫となるのにこれ以上ない名前なんですよ。だから、その「つばめ」というのはスワローじゃないんです。

いとう植物の成長を含意してるのね。

織太夫津太夫のとこの葉っぱの芽なんですよ。それが芽吹く=出世するので「津葉芽」なんですよ。

芸名の由来などを語る竹本織太夫

いとうでも、それが織太夫さんにその当時は合っていたんだって、住太夫師匠は思ったんだ?

織太夫思った。40歳で。でも、27歳ぐらいの時に同じような話がもう一回あったんですよ。

いとうそれはつまり、「つばめ太夫」を名乗った人の芸が、織太夫さんに近いということですか?

織太夫咲太夫師匠は山城少掾の直弟子。で、山城少掾師匠の幼名が初代津葉芽太夫で、その後、「古靱太夫」から「山城少掾」になってる。

いとううんうん。

織太夫八代目綱太夫師匠は山城少掾師匠の直弟子で幼名が二代目つばめ太夫。咲太夫師匠は「竹本綱子太夫」から「豊竹咲太夫」になって、「つばめ太夫」になってない。山城少掾師匠は最初の弟子が八代目綱太夫師匠で、最後の弟子が咲太夫師匠。咲太夫師匠にとっては、私が最初の弟子じゃないですか。

いとうそうか。だからそこは埋めといたほうがいいんだね。「つばめ」を。

織太夫そういう意味では「つばめ太夫」は、僕は綱太夫家を相続しているので八代目綱太夫師匠の幼名という縁があり、そして咲太夫師匠は山城少掾師匠の弟子だから、私からしたら直系の“祖父師匠”の幼名でもあるんですよ。

いとうそうか、複雑だけど名前で歴史がつながる。

織太夫僕からしてみたら直系の幼名なんですよ。

いとうでも当時、それはまだ自分は向いてないと思ったんですか?

織太夫そうそう。

いとう「織太夫」に関しては、説得もきちんとあった。

織太夫実はその後も1回断っているんですよ。夏に師匠が病気で、「わし、あかんかもしれん」っておっしゃったりした時に「お前、“つばめ”になれ。襲名せえや」って言われて、「いや、まだいいです」「何でや?」みたいな話になって、結局はお断りした。で、3回目、最後は師匠とおかみさんから、私の妻と2人で来てって言われて、「わしは親心としてこれから言う。親父(八代目綱太夫)の五十回忌をわしはやりたい。でも、これに当たっては綱太夫家を再興させなきゃいけない」と。八代目綱太夫の五十回忌追善興行として、綱太夫の前名である織太夫を復活させておくと、綱太夫家は織太夫が相続したことになる。前名だから。

いとうなるほど。

織太夫それと、「お前、“つばめ太夫”になりたいか知らんけど、いずれ綱太夫襲名の話が出た時に、綱太夫になる前に織太夫にならなあかんちゃうんか、って言われるかもしれない。だから、これは親心やと思って織太夫を継げ」とも。

いとうまずそこを継いでおけと。

織太夫といった事情があって、いわば急遽、織太夫になったんです。

いとうああ、そうだったんだね。確かに急だった印象がある。でも、それは織太夫になって、ゆくゆくは“綱太夫”という名前を継げるようになったらという気持ちがあるわけでしょう?

織太夫最初、子供の時に入門した時から師匠は、「自分は“咲太夫”のままでいく」と言っていた。だから、私が入った時に、これでうちは跡取りできたって、いろいろなところから言われたんです。子供の時から、お師匠はんは「“咲太夫”のままでいく。継ぐとしても“古靱太夫”を継ぐ」と。古靱の名前を預かっていたからね。

いとうそうなると織太夫から“綱太夫”しかない。

織太夫そうそう、うちの家はね。だけど、当時は九代目の綱太夫師匠がいらして、その前は「織太夫」も継いでいたのでね。要するに、「織太夫」「綱太夫」は源太夫師匠が継いでいたけど、「源太夫」を襲名するに当たって、「綱太夫」の名跡を咲太夫の家に返すという話になった。それで私の織太夫襲名につながるんです。

いとう今までこのシリーズで話をしてきた皆さんは、研修生とか研究生みたいにして入って、それで文楽技芸員になった、という話の方が多かった。文楽のいいところはそういう実力主義の世界でもあることですからね。でもさ、織太夫さんの場合は小さな頃からというか、親戚とか親とか、そういった「血」で継いでいく系統の人なんですよね。

穏やかな笑みを交えて話すいとうせいこう

織太夫せいこうさんとは、僕が26、27歳ぐらいから、お稽古をしたりもしていましたですね。

いとうそうそう。僕は血のまったくつながらない織太夫さんの弟子ですから(笑)。

織太夫もう時効ってことで言ってもいいです(笑)。

いとう言ってもいいんだ。やったー。あの頃は静かーにやってましたもんね(笑)。

織太夫あの頃は「細字」やったから。細字って弟子取っちゃいけないんですよ。「太字」にならないと。

いとう「細字」って?

織太夫番付の。

いとうああ、番付のね。細字と太字ってどう違うんですか?

織太夫これ分かりやすく説明するのが非常に難しいですけど、太夫、三味線弾きの集まりである因講というのがあるんですね。その中に、「平人」「中老」「古老」「太夫」という格があるんですよ。太夫に「切語り」とかあるじゃないですか。あれは番付で「切」の字が頭につくですけど、三味線にも三味線格というのがあったりするんです。

いとう三味線格?

織太夫三味線格って、番付の名前の上に「三味線」って書いてあるんですよ。普通みんなないんです。

いとうそうか、そうなんだ。

織太夫はい。格としては平人、中老、古老、太夫で4つなんです。

いとうそれは太夫の世界の方ね。

織太夫はい。三味線だと、これ2種類あるんですよ。因講の格としては一緒で、4つに分かれます。平人、中老、古老、三味線格って分かれる。これが文楽座因講というものの格です。今度は番付になってくるとまた変わってきて、細字、中字、太字、三味線格と分かれるんです。

いとう難しいなあ。

織太夫これによって、番付の字の太さが全く違うんです。

いとうそうですよね。番付的なものだから。

織太夫はい。今は切語り3人で、3人とも太字の名前の上に「切」がついてます。幹部と言われる太字だと、「切」の字はありません。違いはそこです。三味線で面白いのは、細字の三味線弾きの名前はもちろん細いんですけど、苗字の「澤」が番付だと僕らで言うところの「シャクザワ」になります。「沢」ってさんずいに尺って書くじゃないですか。

いとう書きますね。

織太夫でしょ。若手はさんずいに尺の「沢」を書くことになる。だから「尺沢」なんです。

いとうあ、そうなんだ。

織太夫で、ちょっと太くなると中字って言われたりしますけど、この人たちは、「半沢」って言って、略字で、さんずいの右の部分がぐにゃぐにゃっとした感じになります。これが「半沢」。今度は太字の格になったら「本澤」って言って、さんずいに四に幸せの「澤」って書くんですよ。

いとうあれね。あの「澤」ね。

織太夫これが野澤であろうが鶴澤であろうが、豊澤であろうが、太字になると全部本澤なんです。細字が尺沢、中字が半沢、太字が本澤、それと三味線格。

いとううわ、難しい。難しいよ(笑)。

織太夫でも、番付をぱっと見たら明らかに分かる。

いとうはっきり分かるようになっている。

笑顔で語る竹本織太夫

織太夫そうそう。因講の格というのは基本的に年数なんですよ。

いとう年数。

織太夫平人格から大体13年経ったら中老になる。

いとう次に上がるんだ。

織太夫はい。ここから次は古老になる。古老になるのにはちょっと推薦が必要だったりとか、そういうこともあります。だから私たちもそうなんです。僕は8歳の時、細字から始まって、中字は9年間でした。これは短い方なんですけど、師匠が引き上げてくれたこととか、師匠が10年間ぐらいは病気がちだったので、その師匠の切場を代役でずっと勤めさせてもらったこととか、あとは名前に対しての格というので早く太字にしてもらったのかなと。

いとう名前というのは?

織太夫織太夫という名前に対しての格がある。織太夫が細いと……。

いとうそれはおかしいと。バランスがおかしいということになったりするのがこの世界なんですね。

織太夫そうなんですよ。だから、相撲の番付とかと一緒でそれは実力主義です。

いとう誰でも見れば分かる。

織太夫一目で。番付を見たら結構楽しいですよ。

いとう面白そう。それは全然知らなかったから。

(つづく)

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