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竹本織太夫編(その5)
竹本織太夫編(その4)よりつづく
いとう:伯山君ともだけど、いろいろと他の分野の人ともやるようになったじゃない?ほかのジャンルとさらにね。それがまた違ってきているでしょう、やり方が。
織太夫:伯山さんというのも、当代は六代目ですけど、二代目伯山は二代目織太夫、後の六代目綱太夫の親友。だから二代目伯山とか初代三遊亭圓朝だとか、みんな親友ですからね。初代柳亭燕枝も。
いとう:なるほど。
織太夫:あの辺の人たちが、川崎大師にある六代目綱太夫の碑を建てたんですよ。二代目伯山と三代目織太夫などが一緒に大追善大会をやって、その碑を建てたというのがあったから、それで、三代目織太夫以来百何十年ぶりに「織太夫」が寄席に出るというところで盛り上がったんですよ。
いとう:そう、あれは企画としても素晴らしい。
織太夫:結局、初代圓朝の『牡丹灯籠』を伯山さんと一緒にやったというのも、
いとう:憎いね。
織太夫:うん。僕からしてみたら、二代目、三代目織太夫の縁があるからっていうことなんですよね。
いとう:というか、納得もする、こっちが。「ああ、うまいな。うまい企画だな」って。
織太夫:血じゃなく芸でつながってる。芸と名跡の縁でつながっていて、当代たちが集結して、
いとう:盛り上がってね。
織太夫:素敵じゃないですか。
いとう:素敵、素敵。
織太夫:織太夫が文楽出てないときは東京にいて寄席で荒稼ぎしてたと。二代目、三代目の織太夫、二代目、三代目の伯山もそうですけど、「八丁荒らし」という異名があったと。素浄瑠璃だけで客いっぱいにしてたらしいです。
いとう:そうなんだ。
織太夫:お客さんが多すぎて、両国の寄席の2階を落としたという。それから柱に鉄を入れ始めたということで。
いとう:そうなんだ(笑)。
織太夫:そういうのを聞くと、江戸で国立劇場の芝居がないんだったら、自分で自主公演をして、
いとう:そうだよね。それはそうなんだよ。
織太夫:自主公演で素浄瑠璃で荒稼ぎしてやると、すごく言いたいんですよ(笑)。
いとう:話題にしようという。
織太夫:弟子たちの勉強の場でもあり、そういう場所を作って、素浄瑠璃から文楽を観るということ。江戸における浄瑠璃文化というのは、清元、常磐津、新内だけしかないはず、まだ。でも、100年前は違った。ちゃんと義太夫がど真ん中にあった。江戸時代もそうです。
いとう:そうなんですね。
織太夫:明治18年に、猿若町3丁目に東京の文楽座が出来て、公演していたんですよ。これを最初に話した初代竹本津葉芽(つばめ)太夫になる前の片岡銀杏時代の山城少掾が父親と見に行って、後の師匠になる津太夫(七代目綱太夫)を観てるんですよね。
いとう:そこまでやっぱり人気があった、義太夫というコンテンツが。じゃあ、織太夫さんも今後のさらなる展開が期待されるということですよね。
織太夫:そうですね。いろんなことやりますよ。いっぱい考えていますから。
いとう:ちょっとずつでいいからね。ちょっとずつ。一番突端のところをちょっとずつ上手にやって、あとのことは人に渡してって感じで。
織太夫:そうします。
いとう:前から言ってると思うけど、今回も言うわ(笑)。頼むから。倒れられると困るんだよ。面白いことやってるわけだから。
織太夫:本もまた手伝ってください。
いとう:もちろん、もちろん。
織太夫:この間の文楽の「忠臣蔵」のお客さんの入りが良くなくて、それが悔しいので、『忠臣蔵から文楽のすゝめ』というのを考えたんだけど、あえて『忠臣蔵のすゝめ』でもいいかなと思ってて、そういう本を出したいなと。
いとう:どこが面白いかということも含めて。
織太夫:芸談も含めて。忠臣蔵の楽しみ方ですよ。
いとう:それはいいと思います。確かにね、
織太夫:「ブラタモリ」みたいに「忠臣ブラ」やったり、せいこうさんとやってもいいじゃないですか。
いとう:その場所に行ってね。
織太夫:塩味饅頭の話とか。討ち入りの前に飲んだと言われる、剣菱という酒あるでしょう?
いとう:飲んで、謡を謡ってね。
織太夫:江戸時代でも「けんびる」という言葉があって、剣菱を飲むことや、それから討ち入りに行く時みたいになることを言うみたいです。
いとう:威勢よくなることを「けんびる」って言うんだ。
織太夫:赤穂の塩味饅頭がポカリスエットの味のヒントになったとかね。
いとう:あっ、そうなの?
織太夫:そうそうそう。
いとう:え、そうなんだ?
織太夫:諸説ありって書かなきゃいけないんだけど。あのちょっと塩分のあるポカリスエットの味が、塩味饅頭に通じると。
いとう:いいバランスじゃないかと。
織太夫:今までそういうのがあまり表に出てない。他にも知る人ぞ知るって言ったら、原了郭の黒七味は、「忠臣蔵」の原郷右衛門、史実の原惣右衛門の息子が元祖とか。
いとう:へえー、そうなんだ。
織太夫:僕、好きじゃないですか、そういう話。
いとう:ほんと好きだよね。
織太夫:そんな話も好きだし、みんな知らないからまとめようとか。めちゃ真面目な部分と、真面目にふざけてる部分と両方ありで。
いとう:それで1冊作るということが面白い。企画として。
織太夫:きっと売れるだろうからそういうのをやろうとしてて、4年間ぐらいかけて「忠臣蔵」「菅原」「千本」「妹背山」までどう楽しむかという。
いとう:最後に聞くけど、今の織太夫の状態は、場面的には切場を語ることもあって、あと、「これはこれからやらなきゃいけない」ということは何があるんですか?「これはまだやれてない」ってこと。
織太夫:西風。今の文楽をはじめた初代竹本義太夫の竹本座とその弟子の竹本采女が初代豊竹若太夫を名乗って始めた豊竹座。道頓堀の西側に竹本座が、東側に豊竹座があったので、それぞれ西風・東風と言われているんですけども、残念ながら「これが初代義太夫の語り口です」と確固たるものは残ってなくて、その弟子の初代政太夫、後に二代目義太夫となる方ですが、この人からは語り口がきちんと残っているんですね。「政太夫場」と呼ばれているものですよね。で、その初代政太夫の養子である二代目政太夫の弟子が初代綱太夫。なので「直系」な訳です。その初代さんが、江戸時代の明和という時期に、竹本座が道頓堀から撤退して、ごちゃごちゃしていた時代に初代竹本綱太夫が竹本座再興座本を名乗って、堀江の阿弥陀池で竹本綱太夫座を興したりと、繰り返しになりますが、西風の竹本座を大事にしてきたのが綱太夫家なんです。
いとう:その綱太夫場、つまり西風というものの特徴というのは何なんですか?
織太夫:それは質実剛健ですよね。
いとう:質実剛健。常に強めにいくということ?
織太夫:「綱太夫」の芸は、初代綱太夫が「わざ知り」と呼ばれたように「業師」の芸だから、ものすごいテクニシャン、技巧派だったそうです。この間、取材があった時に何てまとめたかな……。そうそう、八代目綱太夫師匠は自身の芸談(『でんでん虫』、昭和39年)で綱太夫家の芸というのはどういうものか、ということを書いていて、そこには、「真剣に人生を見つめ、ひたむきに人間の生き方を追求しているとも申せます。このような理念こそ綱大夫家代々の目標であった」とあるんです。
いとう:代々そうだったと。
織太夫:代々。
いとう:いわゆる新劇があったから、そういう人間的なものを描くものがあって、それにもお互い影響を受けながらじゃないんだ。
織太夫:そうなんです。
いとう:それより前にあるんだ、シリアスなやつが。
織太夫:名前にみんな拠ってるんでしょうね。別に一子相伝で父から子へ、じゃないから。「綱太夫の生き方ってこういう生き方だ」というのがあるんですね、きっと。それは多分私がやっていかないと気づかないこともあるんじゃないかなと思っていますよ。
いとう:実際に?
織太夫:実際にその演目をどんどんやっていって、歴代がやっていっているものをやらないと、気づかないことがあるんじゃないか。
いとう:織太夫的にやらないと。ここはこうやるんだという発見とかね。その辺は頭の中に結構あるんですか。
織太夫:実際にかなりやっています。今、それは自分の中でどんどんやっていっているので。この間、<文楽素浄瑠璃の会>で「菊畑」(『鬼一法眼三略巻』)を演奏した際にまとめたメモが見つかりました。ここに書いてあることを言いますよ。
いとう:うん。
織太夫:「文楽の芸風には、渋い西風と派手な東風がある」
いとう:うん。
織太夫:「なかでも、純西風と言われているのが、私がやる「菊畑」であって、これが初代政太夫、のちの二代目義太夫で播磨少掾」、今の義太夫節を確立させた人ですね、元祖義太夫じゃなくて。
いとう:うん。
織太夫:これの特徴って言われているのが、「激しい息遣い」、語り口ですね。本当はカタカナで「激しいイキ」と言うべきなんでしょうけども。今日も何回か出てきている「音(オン)」も「ヲン」と表現してもらいたいくらい、日常の息や音とはニュアンスが違うんですよね。話を戻して、そして一番大切なのが、「一刀彫のような力強さがある」。ザクッ、ザクッとして、息でズバッと落としていくっていう。だから、どんな芸かって言ったら、「激しい息と低音が特徴で、一刀彫のような力強さのある語り」、技巧じゃなくてメッセージを直接に伝える、これが西風、って言うと分かりがいいですか?
いとう:ロックっぽいんだね、じゃあ。
織太夫:そうかもしれませんね。ザクッ、ザクッ、ザーッっていったりとかですよね。
いとう:そうか、それが西風なのか。
織太夫:八代目綱太夫の遺した音のライブラリーで「菊畑」について語ったものを聴いたりしても出てこなかったんですけど、ある時、「一刀彫」っていう言葉が出て、「これだ」と。
いとう:なるほど。それはわかる。それで、12月の鑑賞教室では何をやるんですか?
織太夫:『国性爺合戦』の「楼門」なんですよ。
いとう:となると?
織太夫:先ほどの「一刀彫り」の西風に対して、この「楼門」は大和風といって、非常に優美な音遣いで聴かせる曲なんです。「楼門」は大和風という根本のやり方はあるんですけども、約300年の伝承の中で、やり方が色々と生まれてきています。うちは近松系と言われる大和風の優美な音遣いを重視するやり方だけど、ほかにも彦六系とか文楽系っていうのがあって、じゃあその違いってどうなんだって話になってきた時に、
いとう:うん。
織太夫:まあ、見事に解説してる、ある意味マニアックな資料なんかもあります。
いとう:へえ。そうなんだ。だけど僕に見せてくれてもわかりませんよ。もうそれは奥の奥にある秘伝であって。
織太夫:それと、僕はまだ三十代になった頃で、鶴澤寛太郎くんが文楽に入ったばかりの時に、七代目鶴澤寛治師匠から「英雄君、悪いけど寛太郎が弾けるようになるまでは時間かかるから、うちの彦六の方の「楼門」も覚えといてぇな。あんたが覚えておいて、いずれ寛太郎に教えてもういっぺんやったっててぇな……」っていうことで、彦六系の方も教えてもらっているんですよ。基本的に近松系っていうのは大和風を重視していて、この彦六系は初代豊澤團平師匠の系統で、六代目の寛治師匠、寛太郎くんのひいおじいちゃんですね、その流れでもあります。この2つ、彦六系と近松系っていうのは系統が同じなんで似てるんですよ。
いとう:うん。
織太夫:で、文楽系っていうのは近松系とは全然違うんですよ。演奏時間も五分くらい短いし、本の読み方からして違う。今回は、文楽系の人である勝平さんに弾いていただきもますが私が経験者ということで近松系の「楼門」にお付き合いいただきます。
いとう:両方あるんだ。
織太夫:僕、両方やれるんですよ。だけど勝平さんは、僕のところは古いやり方だからって、近松系でやってくれることになって、今回、東京公演では初めて近松系のやり方で語るんですよ。ぜひとも聴いてもらいたい。
いとう:それが次の聴きどころだね。
織太夫:聴きどころとしては、明らかにマクラ(語り出しの部分)が違うから、そこを解説したら面白いと思いますよ。
いとう:いやいや、それはとても俺では解説できないよ(笑)。
織太夫:もういい時間?盛り上がりすぎたね(笑)。
いとう:あははは。予想どおり(笑)。
織太夫:変わってなかった?
いとう:前とまったく変わってない(笑)。
(了)
12月文楽鑑賞教室は12月18日(木)まで!
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国立劇場チケットセンターはこちら※残席がある場合のみ、会場(東京芸術劇場プレイハウス)にて当日券の販売も行っています。
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