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国立文楽劇場

二十一世紀の人身御供

黒澤 はゆま

白亜の階段を、美々しく着飾った、一組の男女がのぼっていく。

階段の頂上には孔雀の羽をつけた神官、その手には黒曜石のナイフ。背中には交差して組み合わされた巨大な青銅の斧。大理石の生贄台は血と脂に黒光りし、悪神を描いた黄金の盆が二つ天秤に載せられている。泥笛の音が高まり、葦のリュートがかき鳴らされる。祭壇を囲む人々からは歓喜と哀切の掛け声があがる。 「神よ。太陽の子供よ」 女達の目は情欲に濡れ、男達の目は戦争や虐殺のときのように血膨れしている。 「はやく、はやく、血を」

心中天網島のラスト、「道行名残りの橋づくし」の幕があがるとき、私は、私を含めた観客の息をつめて舞台を見つめる様子を、この白昼夢の群集のように感じた。 あのとき、私たちは、間違いなく、惨劇を待ち望んでいた。 死一文字に向かってひた走る、治兵衛と小春は、古代人とまったく変わらぬ、原初的な興奮に支配された私たちにささげられる生贄だった。

脇差で小春の喉をえぐる治兵衛。とどめはささない。自分の死を、操を尽くすところを恋人に見せるためだ。血と死の痙攣に濡れそぼつ小春をそのままに、赤い帯を鳥居にかける。一瞬交錯する二人の視線。そして治兵衛は赤い輪に首を通し、地面を蹴る。刹那、それまで人形に命の息吹を吹き込みつづけた人形遣いの手が止まる。常に卓越した表現者の解釈を通して人形を見続けた私たちの網膜に、はじめて自由になった人形の姿が飛び込んでくる。いまや人形は私たちのものだ。

階段を上りきった男女は順々に生贄の台に横たわる。神官のナイフが振り下ろされる。吹き上がる血と交差する太陽。まだぴくぴくと動き、湯気のあがる心臓が黄金の盆にのせられ、青銅の斧で断ち切られた、真っ白な蝋のような四肢と胴、首は、階段の下で待ち構える群集たちへ投げ与えられる。最も壮健で、美しい容姿の、生贄となるために何年にもわたる蕩尽を許された男女の体がいまや私たちのものだ。 降り注ぐ血に古代の群集たちが浮かべる恍惚の表情。 それは、江戸、浄瑠璃小屋のなかの半兵衛どんや、お吉さん、そして平成の私たちに浮かんだ表情と同一のものだったのではないか。

人が人を生贄にささげる理由は常にひとつである。 世界の延命のためだ。

江戸時代は、太兵衛に象徴される金と、兄の孫右衛門に象徴される武士の力、そしておさんや子供達に象徴される家族の義理に、ぎちぎちに縛られた時代だった。世界史でもまれなミラクルピースの裏で、庶民達は、縦横二重に縛られた、味気なくかわりばえのしない生活に辟易していた。だからこそ、 金も力もない治兵衛が、妻子との義理という縁からも断ち切られ、最後に残った情にすがって、文字通り情死する姿に歓喜したのだろう。 天候によってその生を左右される古代人は降り注ぐ血に太陽の復活を見、江戸人は凄惨な死を遂げる治兵衛と小春の姿に、金・力・義理から解放された本物の人間性の発露、硬直化し灰色となった世界の復活を見た。

そして、二十一世紀の今を生きる我々も、地球の巨大な営みの前では結局のところささやかな力しかない点では古代人と同じであり、金と力、家族の義理に縛られている点においては江戸人となんら変わりはない。地球が太陽に飲み込まれるその日まで、人間の本性が変わることはなく、そのため、人が人である限りにおいて、人形浄瑠璃は常に「生きた」「惨劇(エンターテイメント)」なのである。

今日もまた、降り注ぐ血を待つ群衆のために、そして世界の延命のために、一組の男女が死の階段をのぼっていく。

■黒澤はゆま(くろさわはゆま)
作家。1979年生まれ。宮崎県出身。九州大学経済学部経営学科卒業。九州奥地の谷間の村で、神話と民話、怪談を子守歌に育つ。小説教室『玄月の窟』での二年の修行の後、2013年『劉邦の宦官』でデビュー。大阪府在住。

(2013年4月29日『心中天網島』観劇)