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国立文楽劇場

忠臣蔵

石田 千

朝いちばんの新幹線で大阪に入り、劇場にむかう。御堂筋も千日前通りも、ひとだかりができている。そのうち、大群が駆けてきて、歓声がわいた。集団は、ざっと五十人。アスファルトを踏む音はずいぶん響き、あの日の雪の加勢に気づく。平成と元禄が、全速力ですれちがった。『仮名手本忠臣蔵』の千穐楽、大阪ではマラソン大会が開催されていた。
 42・195キロメートルもなかなかしんどいけれど、全段通しで見る通し狂言も、朝の十時半開演、終演予定は夜の九時となっていた。なんでも速さを競ういまの世にさからうような優雅さだけれども、江戸泉岳寺に眠る四十七人の義士のみなさまにしてみれば、一年半以上に及ぶ苦難の道をわずか一日ですまされてしまう。まだまだのご心境と思う。

幕が開けると、舞台は元禄ではなく、室町時代になっていた。幕府の目をかわす配慮だったという。それでも、内蔵助は由良助だし、力は力弥だし、はばかっているのかいないのか。そして、こんなにたっぷり時差があるのだから、目くじらをたてるほうがおかしいと力をほどいた。腕に巻いた時計はさらにあてにならなくなっていく。勉強ぎらいも手つだい、郷に入っては郷にしたがう。すっかりおまかせして、見せていただくことにした。

忠臣蔵は、子どものころから、テレビの時代劇で見ている。歌舞伎も、場面を取り出したものは見た。なんとなく知っている話を、通して見る。そんなつもりで来てみると、まるで違った。
 追いつかぬままに聞いていた大夫の語りが、しだいに会話になって聞こえてくる。三味線は、鳴っているということじたいがあたりまえになって、音楽とは見えなくなる。それは、言葉の通じない国に旅をすることとおなじだった。行けばなんとかなる。なんとかなりはじめると、わからないことを忘れる。

ちいさいお顔のお人形を、三人のひとが動かす。ひとは、見えたり見えなくなったりする。そのうちお人形は、ほんとうは自分で動けるのに、ひとを参加させてやろうと、おまかせのふりをしているように見えてくる。人形につられて、ひとがのびのび踊らせてもらっているようにもみえる。
 思えばひとだって、さいしょはお父さん、お母さん、そうして見えないなにものかに支え添われて立つのだった。あちこち動けるようになって、すっかり忘れていたけれど。
 お人形たちは、ほんとうのことをうまく伝えられないひとのかわりに、正直まっとうを貫いて行く。信仰の枝わかれもすくなく、化学も未明のころ。あの世への道は、あどけない。わからぬことはそのままに、ひたすら一途が、うらやましい。ことに、おかるや力弥のいいなずけ小浪は、いのち短し恋せよ乙女そのもので、それぞれのお相手に突進する。四十路半ばの単身者は、あんなふうにできなかったのは長寿社会のせいだろうか、けれどもいきなり婚礼衣装でおとずれるのは、さすがにどうかしら。ふと正気にもどされる。

塩谷判官と早野勘平の切腹は、いままで見たどの忠臣蔵よりも痛そうだったし、因業ものの高師直は、客席から助太刀してやりたいほどにくらしい。そうして、城を封じ提灯の灯を消す由良助は、どの役者よりもつらそうだった。人間には、人間が見えない。そのくせひと目を気にするから、よけいなことをする。お人形が、しろい歯を見せる。
 切腹にしても、仇討にしても、いまもむかしも、日常でそうそう起きることではない。そのめったにないことに、見るうち我が身をかさねている。みんなが知っている物語のうなずきどころは、観客の人数ぶんある。

たくさんの人物を登場させ、そのうちのだれかに感情をかさねる。カステラものり巻きもはしっこが好きで、主役よりもせりふの少ない役が気になる。忠臣蔵の書き手たちは、あのひとはあれからどうしたんだろう、その疑問にきっちりすみずみまで答えようとしていた。
 塩谷判官を抱きとめた加古川本蔵は、第三の主役というあつかいで、冒頭より終盤まで物語にかかわっていく。物語の筆は、現実に起こった事件から、蜘蛛の巣を編むように、ひろがっていく。きっと書き手は、生きているあいだずっと、さらなる物語を張りめぐらしていた。
 みじかい休憩をはさみながら、満員御礼の千穐楽が幕となる。無事に平成の大阪にもどって、おもてに出ると、マラソンはとっくに終わっている。

こちらから出かけたのか、お人形が来てくれたのだったか。帰り道は、四百年の時差ぼけがなかなかさめず、おもしろい。横断歩道でならんだ恋人たちの会話は、早口すぎて、まるで聞きとれない。
 ……きつねうどん、わかめのせてください。
 これで通じるだろうか。あたまのなかで、なんどか確かめ声にした。

■石田 千(いしだ せん)
作家、エッセイスト。1968年生まれ。國學院大學文学部卒業。2001年『大踏切書店のこと』で第1回古本小説大賞を受賞。初めての小説集2011年『あめりかむら』で第145回芥川賞候補。2012年『きなりの雲』で第146回芥川賞候補、第34回野間文芸新人賞候補。エッセイ集に、『店じまい』『きんぴらふねふね』『平日』『並木印象』『みなも』などがある。福島県生まれ、東京育ち。

(2012年11月25日『仮名手本忠臣蔵』通し観劇)