日本芸術文化振興会トップページ  > 国立文楽劇場  > ラジオ的?というヘンな観劇後感

国立文楽劇場

ラジオ的?というヘンな観劇後感

西 靖

こんにちは。毎日放送のアナウンサーの西靖といいます。40を過ぎての文楽の初観劇の感想を読んでいただくというのも、ずいぶんみっともなくて恥ずかしいのですが、申し訳ないことにえらく感動してしまいましたので、よろしければお付き合いください。

伝統的な技芸というのは、格式とか空気感を勝手にこちらの頭で想像してしまい、敬しつつも遠ざけてしまうことが、私の場合よくあります。「歌舞伎って難解なんじゃないだろうか」「能や狂言なんて、勉強もしないで見ても…」。文楽も当然、私にとっては同じカテゴリーです。きっと、劇場は外観からして重厚で歴史を感じさせ、私のような軽薄な人間を寄せ付けない雰囲気なんだろうな、なんて信じている訳です。ところが、ご存知の方はご存知のように、これは半分は正解で、半分は誤り、という感じです。たしかに京都の南座も、道頓堀の松竹座も、そして日本橋の国立文楽劇場も、建物は純和風という訳ではないものの、伝統芸能の深み、厚み、重みを訪れる人に伝えるかのように、しっとりと落ち着いていて、それでいて華やかさをうちに秘めているような、奥行きを感じさせます。ところが、面白いのはその周辺です。足を運んでみるとわかるのですが、ちょっと驚くほどに雑然としています。松竹座の向かいにはたこ焼き屋さんがあって観光客が列を作っていますし、隣にはコンビニがあります。実は国立文楽劇場も、実際に行ってみると、その構えの美しさと対比をなすように周辺はにぎやかで、ラーメン店にドラッグストア、裏に回ればラブホテルが隣接しています。これは、とりもなおさず、歌舞伎や文楽が「街から生まれた」「街で育った」「街に支えられている」芸能である証左であろうと思います。伝統芸能には、清廉で、美しいものしかコンテンツとして存在しない、という勝手な思い込み、誤解は、この、劇場の周辺の様子でゆるゆると解けて行きます。自分勝手であったり、エロティックであったり、無理を通して道理が引っ込んだり、そんなドロドロとした街のエッセンスが様式の型にはめ込まれてエンターテインメント化しているもの。それが伝統芸能の一つの側面なのかも、と、劇場の周囲の色彩鮮やかな街区から感じたりするのです。

そんなふうに、周辺の猥雑さに少し安心して国立文楽劇場に足を踏み入れると、今度は逆に、街のノイズから守ってくれているかのように静かで、広々としています。しかし、張りつめた静謐な空間、というよりも、懐深く迎えてくれている感じ。街の空気を吸い上げながら芸能に昇華していく間のクッションのような空間が心地よいです。

席につき、私が観劇したのは、文楽の代表的な演目、『仮名手本忠臣蔵』です。大阪暮らしが人生の半分を過ぎたというのに、文楽の世界に足を踏み入れるのは初めてですから、見始めたときはやはり戸惑いました。人形遣いの動き、大夫さんの独特の節や入れ替わりの舞台の回転(なんと言うのか不勉強で存じませんが)、舞台上部の字幕、手もとのガイドブックなど、色々なものに気が散ってしまって、最初の数十分はストーリーや表現技法に集中できませんでした。ところが、そういった「非日常」に慣れていくに従って、ジワジワと、しかし確実に眼前の雰囲気が変わっていきます。人形がぐいと存在感を増し、相対的に操っている人形遣いが気にならなくなる。人形が泣き、笑い、悔しさや喜びの表情を浮かべる。義太夫の節が耳になじんできて、情景描写も台詞も(もちろん、字幕の助けを借りながらですけど)スッと入ってくるようになる。この、「空間に馴染んでいく」感じがとても心地よかったというのが私の初めての観劇での大きな印象です。しかも、忠臣蔵といえば仇討ち、くらいにしか考えていなかったのですが、横恋慕やら逢い引きやらと、ずいぶんウェットな要素がたくさんあるのですね。忠義と恋愛と人情が複雑に絡んでいるストーリーにだんだんと引き込まれていきます。

大夫、三味線、人形遣い、という三業がそれぞれの担い手に分業されている文楽というのは、素人が考えれば実に不自由なものです。エンターテインメントという虚構としても相当に複雑で手間の多いもののように思えます。例えば『仮名手本忠臣蔵』のなかで腰元おかるが、奥様から預かった高師直への手紙を、恋人である早野勘平に手渡すシーンがあります。人形遣いが人形に手紙を持たせ、巧みな技によって他方の人形にそれが渡されます。しかし、手紙の用件はさておき、恋人に会えた喜びのほうが両者の中では大きい。その心情が人形の顔の角度、動きの緩急などによって表されます。さらにその状況が大夫の語りによって言語化され、感情表現が補強される、三味線の音色がそれを音で表す、といった具合。文使いという仕事だけれども恋人に会えてうれしい、という城門での一シーンのために、じつに多くの技芸が必要とされていて、その「手数の多さ」に驚き、感嘆します。しかし、その文楽のスタイルに慣れていくと、むしろ、この不自由さこそ文楽の大きな魅力なのでは、と思うようになってきました。

私は毎日放送のアナウンサーとしてテレビとラジオの放送に携わっていますので、文楽の魅力について考えるときに、どうしても自分の仕事と引き比べてしまいます。とりわけラジオというのは映像がありませんから、言うなればテレビと比べれば「不自由」なメディアです。では内容が貧弱か、というと、私は胸を張って否、と言えます。映像のないメディア、という不自由な枠に嵌めこむことによって、その枠内での表現の手数は多くなります。例えば、「声」。個人的な感覚ですが、ラジオの放送に臨むときの方が、テレビよりもはるかに多くの種類の声を駆使しているという自覚があります。ささやいたり、絞り出したり。マイクから離れたり、近づいたり。朗々と、頼りなげに。読むように、語るように、つぶやくように。また、テレビであれば沈黙の意味は映像が語ってくれますが、ラジオの場合は前後のニュアンスで「なぜ、いま黙ったのか」ということが伝わらなければいけません。そんなふうに考えていくと、映像を伴わない音声メディアのほうが、声の表現ひとつ見ても、はるかに豊かなのです、というより豊かでなければ成立しないのです。

文楽は、人形に最終表現を託しているわけですから、人形の操り方や、三味線、義太夫といった技法が、豊かに、奥深いものになっているのは当然なのでしょう。喜びを表す足の運び、怒りを表す手の位置、哀しみを表す義太夫の唸り、楽しさを奏でる三味線の音色…。不自由さが自由を生み、枠にはめることによって枠内の表現技法が豊かになってきた。そしてとうとう、人形でなければ表現できないところにまで到達してしまった。いや、もちろん出発点において、人形にしか表現できないことがあるから文楽が成立したのだ、という面があるのは確かなのでしょうが、もの言わぬ人形であるがゆえに、大夫や三味線や人形遣いの表現技法が進化し続けたという面もあるのではないか、そんなことを観劇後もつらつらと考えているのです。野放図な自由とは違う表現的自由が育まれるために、人形というシンボリックなものが中心に据えられているというのは実はとても合理的なことなのかもしれません。

とはいえ、私には、まだほんの入り口から文楽の世界を覗いた経験しかありません。まだまだわからないこともたくさんあります。これから観劇を重ねることで見え方もどんどん変わってくることでしょう。今後は理屈や仕組みといった頭で考えることはどんどん引っ込んでいって、文楽のウェットで人情味溢れる面がより堪能できるようになってくればいいなと思っています。そういえば、ウェットで人情が濃くて、ちょっとエロティックなあたりも、ラジオの世界に通じるかもしれません。手前みそで恐縮ですが。楽しみは尽きませんね。

■西 靖(にし やすし)
毎日放送(MBS)アナウンサー。1971年生まれ。大阪大学法学部卒業。1994年、毎日放送に入社。現在、テレビ番組「ちちんぷいぷい」メインMC。他にもテレビ・ラジオ番組で活躍中。岡山県出身、兵庫県在住。

(2012年11月10日『仮名手本忠臣蔵』(大序~六段目)観劇)