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国立文楽劇場

文楽のユニークさ

有栖川 有栖

通し狂言『仮名手本忠臣蔵』は、午前と午後の部を合わせると約九時間。何度かある休憩時間は最長でも三十分だけ。長丁場だから、観るのも大変だ。一日つぶして通しで観るのが本来の楽しみ方とはいえ、「さすがにちょっと……」とひるんでしまい、二度に分けて観劇した。千穐楽の間際に行った時は、補助席が出るほどの入り。一文楽ファンとして、うれしくなった。

もっとも、『仮名手本忠臣蔵』といえば、『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』と並んで上演回数が多い人気演目である。しかも、討ち入りに近い時期の公演だったから、そうでなくては。
 観るのが大変ならば、演る方はもっと大変である。竹本住大夫さん、千歳大夫さんの休演(このお二人の浄瑠璃が聴けなかったのは残念)もあって、舞台裏は大忙しだったのではないだろうか。かなりきつい公演だったと思うのだが、一観客の私は、客席でゆったりと楽しんだ。

『仮名手本忠臣蔵』を通しで鑑賞したのは初めて。さすがに物語のうねりがよく理解できて、新鮮な体験だった。人物の出し入れも絡ませ方も、本当によく考えられている。
 が、このストーリーをそのまま現代風の小説に書き直したものを読んで面白いかというと、そうではあるまい。無理ばかり目立ったり、時間経過の不自然さや諸々の説明不足に不満を感じたりしてしまいそうだ。大夫の語りによる説得力、三味線による強調と補足、人形による視覚的表現の三つが相まって生じるドラマだからこそ、観る者の心を捉えるのだと思う。そこが文楽の文楽たるゆえんだ。

観ていて特に引き込まれたのは、やはり四段目の〈塩谷判官切腹の段〉の悲痛と〈城明渡しの段〉の引き絞られた弓のような緊張感(語りは、「『はつた』と睨んで」の八文字のみ)、舞台の上へ下へ斜め上へまた下へ、と観客の視線を自在に操る七段目の〈祇園一力茶屋の段〉、二時間近くに及ぶ九段目〈雪転しの段・山科閑居の段〉のめくるめくような怒涛の展開。
 いや、大序から三段目に向けて悲劇が進行して行くプロセスも見応え充分だったし、勘平をめぐる数奇な運命を描いた五段目、六段目だけをとっても「今日はしっかり文楽を観たな」と思わせてくれるものだった。大詰のカタルシスも清々しく……と、結局は隅から隅まで楽しんだのだ。

先に「『仮名手本忠臣蔵』を通しで鑑賞したのは初めて」と書いたが、正直にいうとこの狂言にはあまり縁がなくて、有名な七段目や九段目を観たのも初めてだった。七段目で、おかるが二階から鏡を使って一階で由良助が読んでいる手紙を盗み読みするところを生で観て、「ああ、こんな感じなのか」と面白がった。
 二階から遠眼鏡で覗くのなら判るが、わざわざ鏡に映して遠くの手紙を読む(文字が反転してしまう)のはどうにもこうにも不合理なのだが、絵としてはすっきりと美しく、不合理なまま楽しめる。不思議なものだ。吉田簑助さんが操るおかるに見とれてしまった。

幸いだったのは、この公演の直前に橋本治さんの『浄瑠璃を読もう』(新潮社)を読んでいたことだ。そのおかげで『仮名手本忠臣蔵』を新しい目で味わうことができた。なるほど、そうか、と。
 橋本さんは、文楽が町人による町人のためのものであることを確認した上で、「自分たちとは関係のない武士の起こした事件」に町人でしかない観客が参加する余地を指摘する。それは、主君の一大事の最中に恋人のおかるといちゃいちゃしていた早野勘平の痛恨であり、高師直に斬りかかった塩谷判官をとっさに止めてしまった加古川本蔵の胸中と複雑な立場だ。「わかるわ」「こうやったんかな」「どないしょ」は、確かに現在の町人である私にも共感できる。大星由良助については、そういう人(大石内蔵助)がいたのは事実で、彼が武士の物語を自己完結させているから「参加」する余地がまったくないにせよ。

そう考えれば、忠臣蔵という言葉のルーツである『仮名手本忠臣蔵』のクライマックスに映画やドラマでは欠かせない討ち入りのシーンがないことも腑に落ちるではないか。町人は、逆立ちをしても討ち入りには「参加」できず、何があったのかは事実として知っているのだから。

「観るのも大変」な通し狂言だが、それは座っているのも疲れるわい、というぐらいのことだ。語り、音楽、人形劇が同時に進行する文楽は、気合を入れて観ようとしたら、「しっかり浄瑠璃に耳を傾けよう。聞き慣れない言葉がいっぱい出てくるぞ。細かな演出が加わっているかもしれないから、舞台にも集中していなくては。おっと、三味線に注意していなかった」という具合で、結構忙しい。それでも、こちらはあくまでもお客。集中力が切れてきたらしばらく頭を休めて、ぼけーっとしていればよい。とことん受け身になっても楽しめる。

初めて文楽に接した時、「これは和風のオペラかミュージカルやな」と思ったのだが、そんな印象は徐々に変わっていった。文楽を観終えた時に、「なんだか本を読み切ったみたいやな」と感じて、「そうか」と気づいた。文楽を〈聴く〉とか〈観る〉とか言うが、あれは〈読んでもらう〉のだ。

盆が回って床に現れた大夫は、うやうやしく床本を掲げてから語りだし、文楽という時間が始まる。そして、それが終了して退場する際に、大夫は再び床本を掲げるが、あの儀式めいた所作こそ、文楽が一冊の書物であることを端的に示している。
 練り込まれた文章で書かれた物語を、練り込まれた語りの技巧で読んでもらうのが文楽の基本だ。語りを深めるために三味線があり、舞台で人形が演じる芝居は、いわば〈動く挿絵〉だろう。もちろん、挿絵といっても読者を楽にするために添えられたオマケではなく、語りに対抗できる豊かさを持った奥深いものだ。練達の芸で物語を読んでもらい、しかもそのすべての瞬間に対応する〈動く挿絵〉がついている。こんなメディアはほかにない。
 そう考えると、文楽というのはつくづくすごい。本が映画を呑み込んだようなものだ。映画が発明されたのは、文楽が生まれた二百年ほども後だというのに。

それだけに「文楽を守れ」などと言われる現状はさびしいが、もとより人手が多くかかる文楽はコストパフォーマンス(つまらん言葉ですね)がよくないので、これまで何度も危機を経験している。それをくぐり抜けてこられたのは、文楽がほかのものに代えがたい存在だからだ。
 「ちょっと文楽、行こか」と多くの観客がきやすくするため、工夫するべきことも色々あるだろう。それを探るうちに、文楽の新しい可能性が見つかるかもしれない。
 しばらく遠ざかっていた映画を観に行くと、面白そうな予告編をつられてまた映画館に通うようになったりする。久しぶりに生の文楽を鑑賞した方が、「また行こう」というモードになってくれればいいな、と思う。

また、初めて文楽に触れたという方には、ぜひともリピーターになっていただきたい。「ピンとこないところもあったけれど、何か惹かれるな」というぐらいの人も有望だ。初めて文楽を観た時の私自身がそういう感じだった。「気になるから、また行ってみよう」が重なり、「自分はこれが好きや」と確信する瞬間があって、現在に至っている。
 劇場に行ったことがない人に向けて、「いっぺん観てみてください」とアピールし続けることが大切なのは言うまでもない。「いっぺん観てみよか」ときた人の何割を取り込めるかで文楽の力が問われる。

昔からよく言われていることだが、みんなが裸足で暮らしている国で靴のセールスマンが考えることはふた通りある。「ここで靴を売ろうとしても無駄だ。需要がまったくない」か、あるいは「ここで靴を売り込むのに成功したら、莫大な需要が掘り起こせる」か。靴を履いたことがない=ユニークで楽しい文楽というものに観たことがない人が多いのなら、それだけ大きなチャンスがある、と前向きに考えたい。

■有栖川 有栖(ありすがわ ありす)
小説家、推理作家。1959年生まれ。同志社大学法学部卒業。1989年『鮎川哲也と13の謎』の一冊、『月光ゲーム Yの悲劇'88』でデビュー。2003年『マレー鉄道の謎』で日本推理作家協会賞、2008年『女王国の城』で本格ミステリ大賞受賞。主な著書に、『学生アリス』シリーズ、『作家アリス』シリーズなどがある。有栖川有栖創作塾の塾長も務める。大阪府在住。

(2012年11月5日『仮名手本忠臣蔵』(大序~六段目)、11月24日(七段目~大詰)観劇)