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国立文楽劇場

人形のゆめ、ひとのゆめ

谷崎 由依

ひとりの男が夜、山を歩いていて、祭り囃子を耳にする。音のするほうへつられていくと、海に近い洞窟のようなところにおおきな幕が張ってある。男の見ている前で幕が開く。と、そこには幾つもの横穴が並んでいて、さまざまな姿勢をしたちいさな女が何体と座っている。そのうちのひとつが、立って舞台にあがる。すると見る間におおきく、ひとのようになる。

泉鏡花『春昼』のそんなくだりを、国立文楽劇場ではじめて人形浄瑠璃を観たあと、思い出していた。鏡花の小説には、人形、と書かれているわけではない。だが描写からして、そのようなものだと思う。人形が立ちあがり、ひととなる。恋してやまない女の姿となる。そして男じしんの影からも、ひとつのひとがたが歩み出て、女とともに舞台に立つ。うつし世ではかなわぬ恋である。男は、その舞台に魅入られる。そしていま一度その芝居を観ようと、べつの晩にもその場所へ行き、海に溺れていのちを失う。

人形浄瑠璃、すなわち文楽は、世にも不思議な芸術だ。いや、芸能というべきか。四百年の長きにわたり、老いも若きも、貧しきも、浮き世の憂さを忘れるために、通い詰めた芝居がこれなのだ。忘れるため? いやむしろ、じしんの似姿を見るため、だろうか。『春昼』のあの男が、挙げ句いのちを落とすほどに、その芝居に惹かれ、焦がれたように。

鏡花の物語は幻想譚、ありえない話なのだから、それと文楽とを一様に語ることはできないと言われるかもしれない。けれどわたしは文楽劇場で、なんのからくりもないはずの舞台に、魔術のはたらくのを見たのだ。 暗い会場は、真っ暗ではなく、ほの明かりの舞台のうえに、人形と人形遣いがあらわれる。ひとが人形を動かしている、とはじめは思う。それが、人形が動いている、になり、やがて人形が生きている、になる。表情筋のないはずのおもてに豊かな情感が宿り、ほんの数えるほどしかない関節が、はっとするほどしなやかな動きを作る。

わたしは歌舞伎をよく知らないけど、歌舞伎に出てくる役者は、肌を白く塗り、ふつうの人間とはべつのものになる。いわば、ある意味人形になる。では、こう述べることはできないか。人形は、ひとになるゆめを見る。ひとは、人形になるゆめを見る。完全な人形でも足りず、完全ななまみでもいけない。ふたつのゆめの方向が、ほんのわずかに重なるところ。人形とひととのあいだ、人工物と自然とのあいだに、作品とか芸とかいったものの究極があるのではないか。舞台に限らず、造形や、あるいは小説でも、きっと。

お初と徳兵衛の『曾根崎心中』は、二度観劇し、二度とも泣いてしまった。遊女と手代の恋だ。一緒になるには莫大な金が要るが、そんなものははなからない。わかっていたのだろう。徳兵衛が進退窮まったとき、心中、という道を思ったのは、だからごく自然なことだった。そのかれらの、語られない胸のうち。徳兵衛を着物に隠して守り、九平次に言い返した気丈なお初が、最後の最後、心中のときには、目を瞑り、身をゆだねる。義太夫の声は消え、ただ三味線だけの静寂に、徳兵衛の匕首が切り込んでいく――。

忘れられない演目がもうひとつある。『契情倭荘子』だ。お家騒動に巻き込まれ、生きて結ばれることのできなかった若い恋人たち。「蝶の道行」という段で、ふたりはすでに死んでいる。死んでのち蝶となり、花のなかを舞い遊び、馴れ初めを思い出す。景事と呼ばれるらしい、踊りから成る舞台である。華やかさ、人形ならではのめくるめく軽やかさ。しかし蝶の羽模様である袖は、いつか灰色になっている。まるで髑髏模様のような。「修羅の迎ひは忽ちに、狂い乱るる地獄の責め、夢に夢見る草の露、面影ばかりや」――と義太夫の声。蝶のいのちは果敢なく、この先にあるのは死出の山だと。

『曾根崎心中』に較べると、こちらはずっと謎めいている。教訓も報いもない。犠牲になった哀れなふたりを、なぜ責め苦が待ち受けているのか。わからない。この演目に涙した、自分の気持ちもわからない。悲しみか、共感か。どちらとも違うように思う。人形が、あのちいさきものが、ちいささゆえに翻弄される。しかし芝居がはねてしまえば、ひととしての不条理を生きていたものは、また人形となるのである。首(かしら)たちは、楽屋でどんなゆめを見るのだろう。ゆめなど、見ないかもしれない。なぜならかれらは人形だから。そのことのつめたさ。そして慈悲。

運命を、運命として、離れたところから眺める。なまみの身体を持て余し、こころというものを持て余している脆弱なひととしてのわたしは、人形の、静かな表情に、仕草に、どこまでも魅入られる。澄んだ湖面にうつるものの姿を見ようとするような、箱庭のなかにゆめのひみつを探すような、心地で。

■谷崎 由依(たにざき ゆい)
作家、翻訳家。1978年生まれ。京都大学文学部美学美術史学科卒業。2007年『舞い落ちる村』で第104回文學界新人賞受賞。訳書に、キラン・デサイ『喪失の響き』、インドラ・シンハ『アニマルズ・ピープル』、ジェニファー・イーガン『ならずものがやってくる』(ピュリッツァー賞・全米批評家協会賞受賞作)など。京都府在住。

(2012年7月26日『曾根崎心中』、7月31日『摂州合邦辻』『伊勢音頭恋音刃』『蝶の道行』『曾根崎心中』観劇)