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国立文楽劇場

蛇女の怪

鈴木 創士

文楽の心中物でも、そこでほんとうに繰り広げられているのは、男と女の道行きの物語ではなく、じつは女と女の戦いであることに気づくことが多々あります。時代物でも、お話の隠れた主人公は、勇敢な武将ではなく、じつは一見脇役のようにも見えた女性であったことが最後にわかって、はっとすることがあります。
 生物学的なことは言わずもがなの話であるし、太初の昔から古今東西、世界の臍や、この世のいくつもの中心には厳然として女性がいることを理解するには、歴史や人類学や民俗学の本を繙くまでもないのかもしれませんが、文楽でもどこか事情は変わらないように思います。男は話の駒にすぎず、種にすぎず、太鼓持ち、ただの狂言回しであり、それとも丘の上の阿呆さながらの裸の王様であるかです。
 私はかねがねそれが文楽という民衆芸能の隠れた批評精神であり、とても面白い特徴ではないかと勝手に考えてきました。ということは、文楽においても、女性には、登場人物たる女性には、いつも戦いが現に秘められていることがわかるのです。これが事の真相であるとでも言うようにしてです。

日本神話を換骨奪胎した近松門左衛門作『日本振袖始』の「大蛇(おろち)退治の段」を観劇して、最初に印象深く思ったのもその点です。さすが大作家近松門左衛門です。
 悪の化身である大蛇は何と岩長姫に身を借りています。石長姫は、『古事記』や『日本書紀』などによりますと、妹の木花開耶姫(このはなのさくやひめ)と一緒に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の元へ嫁ぐのですが、醜かった岩長姫だけが追い返され離縁されてしまいます。そして神話を信じるならば、身ごもった木花開耶姫を岩長姫は呪ったのだとされています。人間の寿命が短くなったのはそのせいであるのだ、と……。
 たしかにあちこちの神社に数多く祀られているとはとても言えないとはいえ、日本の創生神話の重要人物のひとりとして登場するこの岩長姫を、近松はまったき悪の化身である蛇女とするのです。それともわれわれが接することのできる祭祀の面では、つまり日本の宗教の長い歴史において、あまり人気があるとは言えない岩長姫の神話的秘密を近松はすでに知っていたのでしょうか。宗教的神話には必ず悪役が必要とされるのですし、それは日本に限らず宗教の秘密のひとつであると言っていいかもしれません。しかし蛇道は少なくとも日本において邪道ではありません。有名な神社の祭神の裏の顔が実際には蛇であるというのはよく耳にするところです。
 まだ大蛇の正体を現していない岩長姫に近松はこう語らせます。
 「われ宝剣に心をかけ、岩長姫とは生まれしが、蛇道の縁は切れやらず、胸に燃え立つ瞋恚(しんに)のほむら、媚(みめ)良き女を取らざれば、劫火(ごうか)の苦患(くげん)休む間もなし、されば年ごろの生贄の、美女を取ること多年なり、今宵も名にし稲田姫、鬼一口に服せん」

奥出雲の村では大蛇の災いから村を守るために人身御供が行われています。大蛇に美女を生贄として差し出すのです。今回は、素盞嗚尊(すさのおのみこと)の妻である稲田姫が生贄として簸(ひ)の川へやって来ました。八岐大蛇(やまたのおろち)のために八つの壺が用意され、そこに毒酒が仕込まれ、酔っ払った大蛇から十握(とつか)の剣を取り戻そうというのです。稲田姫はひそかに蠅斬(はばきり)の名剣を袂に忍ばせて岩の上に伏しています。
 そこへ、まだ岩長姫の姿をしている大蛇が現れます。二人の姫が対峙します。対峙というと言いすぎかもしれません。今にも食べられようとしている稲田姫のほうは、生贄になる悲しみに打ちひしがれ、息も絶え絶えのようにして巌の上に伏している振りをしているのですから。しかしひそかに短剣を握りしめて。
 この短い場面(実際には長く感じました)はとても美しいものでした。寂寞を極める深い山奥にいる二人の女。他には誰ひとりいない。そばには身を切るように冷たい清水が流れています。これから稲田姫を喰らってしまおうという蛇女岩長姫は目にした五月蝿(うるさ)い注連縄を断ち切ります。そしてこのシーンには文楽としては珍しいような新たな演出も施されていました。三味線に混じって胡弓の後ろ髪を引かれるような音色が奏でられるのです。対峙する二人の女の底にある悲しみを考えれば、この効果は絶大でした。すぐ後には笛と鼓の二人の囃子方も舞台に登場し、いつもの世話物などとは一味違う神秘的な神楽風の雰囲気が加味されていました。

稲田姫を喰らってしまう前に、岩長姫はあたりに芳醇な酒の香りが漂っていることに気づきます。岩長姫は酒の入った甕に首を突っ込んで毒酒をあおります。毒酒の酔いがまわってきた大蛇の化身は髪を振り乱しながら次々に甕に首を突っ込んでゆきます。お姫様としては品がないとも言えるこの仕草ともども、酔っ払った岩長姫の暴力的な舞いはまことに妖艶であり、美しかった。桐竹勘十郎さんによって操られた人形、人形であるからこそのなせる業であり技だったのでしょう。人間の役者が演じればこうはいかなかったはずです。
 岩長姫は怒りにかられているように見えました。太古から続く瞋恚。怒りは消せないのです。大蛇は呪詛の化身です。われわれは恨まれる定めにあるのでしょうか。これは日本の歴史の深層に関わることなのかもしれません。観客のみなさんもそうでしょうが、私はこの妖しい場面が好きです。酔っ払った毒婦。男がとやかく言う美醜など手玉にとってしまうファム・ファタル。
 ずっと後方の神話のなかにはニニギノミコトと、まだ姿を現さないスサノオノミコトが何も言えずにひっそりと控えているはずです。神々もまたちょこざいであることに変わりはありません。しかもニニギとスサノオならば、神々の系譜からして二つの神話的場所の歴史的対立すら含まれてしまうことになります。これは近松の記紀神話に対するユーモア、悪ふざけ、あるいは歴史に対する近松の見解なのでしょうか。一方、いまにも生贄にならんとする稲田姫はここで大蛇の餌食になるまで、そして夫であるスサノオノミコトが華々しくここに到着するまで、ひとり神に加護を祈り続けているのです。
 それにしても最初に登場していたあの従者たちはいったいどこに行ってしまったのでしょうか。ここでも、たとえ従者といえども、男たちに出る幕はありません。スサノオノミコトもいまだ、ニニギノミコトはもちろん最初から登場しません。いるのは、寂寥たる日本の山奥で戦う敵同士である二人の女性。そして歴史への呪詛があるばかりなのです。善と悪の戦いなどというのはうわべのことにすぎません。なぜなら神話というものにはどうも歴史自体への呪詛、歴史的観念への仕返しがはじめから含まれているように思われるからです。

もちろんこの後に、蛇退治のスサノオノミコトが、まるで「デウス・エクス・マキナ」(機械仕掛けの神)のように現れ出でることは言うまでもありません。スサノオノミコトは稲田姫をすでに飲み込んでしまった大蛇に勇壮に挑みかかります。ヤマタノオロチの八つの首は切り落とされることになり、ついに宝剣は取り戻されます。これはもちろんこの人形浄瑠璃の見所であることはわかっています。観客のみなさんの反応もまさにそのとおりです。
 しかし私にとって、今回は、まだ蛇に姿を変えていない、毒酒に酔っ払った岩長姫の舞いのシーンがあまりに強烈だったので、大団円である、この歴史に生まれた男スサノオノミコトの武勲の場面は残念ながらぼんやりとしか思い出せないのです。私にとってこの「大蛇(おろち)退治の段」もまた、女性たちの戦いの芝居だったというわけです。

■鈴木 創士(すずき そうし)
フランス文学者、批評家、作家。音楽ユニットEP-4のメンバーでもある。1954年生まれ。主な著訳書に『アントナン・アルトーの帰還』、『魔法使いの弟子』、『中島らも烈伝』、『ひとりっきりの戦争機械』、『サブ・ローザ』、『ザ・中島らも』、『分身入門』、エドモン・ジャベス『問いの書』『ユーケルの書』『書物への回帰』『歓待の書』、フィリップ・ソレルス『女たち』、アントナン・アルトー『アルトー後期集成』(共同監修)、『ヘリオガバスルあるいは戴冠せるアナーキスト』、ジャン・ジュネ『花のノートルダム』、アルチュール・ランボー『ランボー全詩集』など。兵庫県在住。

(2018年8月6日第三部『新版歌祭文』『日本振袖始』観劇)