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国立文楽劇場

子殺しの話に込められたもの

黒澤はゆま

文楽観劇の際、劇本体はもちろんだが、もう一つ楽しみにしていることがある。

パンフレットだ。

文楽の話は大体、人間関係がややこしいので、まず「鑑賞ガイド」を読んで大まかに把握していないと、劇の筋についていけなくなるということもあるが、それ以上に博学の執筆陣による解説が楽しいのだ。

今回はなかでも、文楽マニアの古書店主人、竹田さんと、近所の大学生瑠璃ちゃんとの軽妙なやり取りも魅力の「ある古書店主と大学生の会話」(大阪市立大学大学院教授 久堀裕朗氏執筆)が面白かった。

文楽の話でよく出るモチーフの一つに、主君や天皇といった高貴な人の子供の身替りに、自分の子供を殺す「身替りの子殺し」がある。

私はこれを封建時代における、忠義と愛情の相克を描いたものと考えていたが、どうもそれだけではないようなのだ。

古書店主人、竹田さんは語る。

「我々が見失いがちなのは、当時は現代よりもはるかに子供の死亡率が高かったということだ。……そういう時代の多くの大人たちは、自分が子供のときには兄弟姉妹を亡くし、親になると我が子を亡くした経験のある人々だったわけだ。そこから推測するに、きっとそんな彼らの心の中には、自分たちの周囲で亡くなっていた多くの子供たちの犠牲の上に、自らの生が成り立っているというような意識があったんじゃないかな」

この部分を読んだとき、私ははたと膝を打った。

確かにそうで、前近代、子供というのは本当に死にやすいものだった。

『大塔宮曦鎧』が書かれた18世紀の同時代人から例を挙げると、モーツァルトは七人兄弟の末っ子だが、伝記でもよく取り上げられる五歳上の姉マリーナ以外の五人は、全員幼児期に死んでしまっている。また、彼自身、妻・コンスタンツェとの間に、六人の子供をもうけたが、そのうち成人することが出来たのは、たった二人だった。

また、子だくさんで有名な十一代将軍、徳川家斉は、十六人以上の妻妾を抱え、その間に五十三人の子供をもうけたが、成年まで生き延びれたのはたったの二十八人……彼らは栄養にしろ衛生面にしろ、日本で最高の待遇を受けていたはずだ。それでこの有様なのだから、一般庶民の間で子供の死はもっと当たり前の光景だっただろう。

こうした環境は、子供の命に対して、次のような独特な感性をはぐくむことになる。

「短命な社会は、多くの幼い者たちの犠牲の上に成り立つ社会である。子供の命はいともはかなく、危うい存在であった。そこに、子どもに対する矛盾する感情と価値観が生まれる苗床があった。子は宝として大切にされる反面、意志のないものとして命さえもがおとなの側の都合にしたがい、与えられもし、奪われもした」
『人口から読む日本の歴史』(鬼頭宏著、講談社)

確かに、歴史を紐解いていくと、当時の人々の小さな命に対するぞんざいさにはっとすることがある。二千年前のローマ兵の手紙を見てみよう。

「ヒラリオンからアリスへ、僕の可愛い人、心からの愛情を込めて。僕たちは今でもアレクサンドリアに滞在している。他の人が皆、帰国し僕だけ残っても心配しないでね。小さな子供の世話をどうかお願い、給料を受け取ったらすぐに仕送りします。もし--どうぞ幸運がありますように!--子供が生まれて、男の子だったら手元で育てて、女の子だったら捨てといてください。君はアフロディシアスに「忘れないで」と言づけて来たけど、どうして君のことを忘れるなんて出来ると思う? 心配しないでね」
『Light from the Ancient Past 2nd Edition』(Jack Finegan著、Princeton Univ Pr; 2 edition)より該当部分を筆者意訳

身重の妻を案じる愛情あふれた文面のなかに、しれっと子捨ての話題が紛れ込んでいるのに、まず驚かされる。また、すでに生まれた子供については「世話をどうかお願い」と気にかけておきながら、これから生まれる子供については性別如何によって捨てろと言っているのは、「おとなの側の都合にしたがい、与えられもし、奪われもした」子供の命の在り方の端的な例といっていいだろう。

また、16世紀フランスの王宮では、乳母がおくるみに包まれた王子を窓越しにキャッチボールして、手を滑らせ転落死させてしまっている。王子はアンリ四世の弟だったが、別に政治的背景はなく、本当に単なる悪ふざけだったらしい。

海外だけでなく、もちろん、日本でも「間引き」という言葉で嬰児殺しは頻繁に行われていた。

先に引用した『人口から読む日本の歴史』では、寺社の出生記録を丹念に紐解き、その出産間隔や子供の性別の不自然な偏りから、「間引き」が飢饉などがなくても一般的だったことを突き止めている。

ここまで踏まえて、『大塔宮曦鎧』のラストシーンを振り返ってみると、夏の青い宵闇のなか、おかっぱ頭の子供たちが輪になって踊りに興じる光景は、より切実さと悲しみを伴って迫ってくる。

「冥途の旅に行く鳥と、娑婆に残れる親鳥の、涙に絞る袖の露、消えし昔の物語」

正直、私はあのシーンはこれまで文楽を観劇させてもらったもののなかで一、二を争うくらい美しいと思った。これから起きることの恐ろしさを予感させながら幻想的で、子供たちはこの世とあの世のあわいで漂う妖精の群れのようだった。彼らはいまだ人間世界の存在ではない、半分神様のものなのだ。

(切られるのはあの子か、それともこの子か)

舞台の上の永井右馬頭、花園夫妻とともに、当時の観客はハラハラしながら見守っただろう。同時に自分が子供のころに先立たれた兄弟姉妹、友人たちの顔を思い出したに違いない。

(どうしてあの子だったのだろう。なぜ自分ではなかったのだろう)

彼らが体験した別れも、ついさっきまで輪になって笑いあいながら踊っていた兄弟や姉妹、友人が、振り返ったらもうふっといなくなっている、そんな儚さだったのだ。

また、子供たちの間を縫って、若宮を探す斎藤太郎左衛門の心情もまた、観客には他人事ではなかった。

先に述べたように、当時の大人たちのほとんどが、直接にせよ、間接にせよ、子捨てや嬰児殺しにかかわっていたからだ。

彼らには太郎左衛門が持つ刀の重さも実感できたかもしれない。

つまりこのシーンは、観客たちの子供に対する思いが二重に投影される構造になっていたのだ。

だからこそ、太郎左衛門は主君から殺すよう命じられた王子若宮でも、右馬頭、花園夫妻が身替りに差し出した彼らの子供、鶴千代でもなく、亡き息子夫婦の忘れ形見、おのれの孫にあたる力若丸を切らなくてはならなかった。

幼い時、大切なものを次々に失い、大人になるとその掛けがえのない命を選別する宿命にあった人々の涙を誘うには、物語はそこまでやらなくてはならなかったのだ。

「未来は九品蓮台、今の音頭を引導にて、魂冥途の鳥となり、父よ母よと呼ぶついでコリヤ、祖父をも呼んでくれよ」

太郎左衛門の号泣が呼び水に、私も涙が止まらなくなった。

竹田さんは言う。

「こうした物語には、はかなくこの世を去っていく子供たちに対する、現代人にははない特別な思いがこめられているんじゃないかな」

伝統芸能を見るということは、本来、当時の観客と同じ涙を流すということなのかもしれない。

だとしたら、私は今回の観劇でやっとはじめて本当に浄瑠璃を見ることが出来たのだろう。

参考文献:『愛と支配の博物誌―ペットの王宮・奇型の庭園』(イーフー・トゥアン=著、片岡しのぶ・金 利光=訳、工作舎)、『人口から読む日本の歴史』(鬼頭宏著、講談社)、『Light from the Ancient Past 2nd Edition』(Jack Finegan著、Princeton Univ Press)

■黒澤はゆま(くろさわはゆま)
作家。1979年生まれ。宮崎県出身。九州大学経済学部経営学科卒業。九州奥地の谷間の村で、神話と民話、怪談を子守歌に育つ。小説教室『玄月の窟』での二年の修行の後、2013年『劉邦の宦官』でデビュー。大阪府在住。

(2018年7月28日第一部『瓜子姫とあまんじゃく』解説「文楽ってなあに?」『増補大江山』、
第二部『卅三間堂棟由来』『大塔宮㬢鎧』観劇)