国立文楽劇場

近松の根っこ「心中宵庚申」

三咲 光郎

今年の秋の台風は各地に大きな被害を与えました。私の住む大阪南部でも鉄橋が陥没して未だに電車の便が完全に回復していなかったりします。
 文楽11月公演の初日。からりとした秋晴れ。久し振りに天気の良い週末に、『心中宵庚申』を楽しみました。

庚申塚とか庚申塔とか呼ばれる古い石塔が残っています。 庚申って何やねん、と子供の頃に疑問だったのですが、これは古代中国の道教に発する信仰だそうです。 庚申(かのえさる)の日の夜に、私たちの体の中にいるサンシチュウという虫が、天帝にその人の悪事を告げにいくと考えられていました。それを防ぐために、夜通し起きて勤行したりお喋りして過ごしたり。宵庚申は江戸時代の人々の娯楽を兼ねた信仰行事だったのかもしれません。 その宵庚申の夜に、谷町大仏勧進所の門前で心中沙汰がありました。享保年間の4月5日から6日にかけての夜間のことです。 これを題材に、豊竹座では紀海音の『心中二つ腹帯』、竹本座では近松門左衛門の『心中宵庚申』が競演されました。

夫婦が心中するという、心中物の中では珍しいお話ですが、私は『宵庚申』を観ると、
「そういえば近松門左衛門って武家の出身だったよなあ」
 と、作者の門左衛門が思い描く家族の有りようについて考えるのです。
夫婦心中に、家族の問題があるのはわかりますが、そうした家庭の内に、義理に縛られる「武家」的な息苦しさが潜んでいるのでは、と感じるわけです。

山城国、上田村。大百姓の平右衛門の家に、大坂へ嫁に行った娘のお千代が帰ってきます。嫁いだ先から追い出されたのです。嫁ぎ先の、新靭町の八百屋は、姑がキツイ人で、お千代の夫が留守をしている間に暇を出したのでした。 憤慨する姉と父平右衛門。そこへ夫の半兵衛が、大坂へ戻る途中に挨拶に立ち寄り、お千代を見て、事情を知らず驚きます。 半兵衛は、元は遠州浜松の武家の息子。大坂の八百屋に養子に入り、店を立派に盛り立てています。お千代の離縁に立腹する平右衛門に、
 「親父様に番ひし詞、違へぬ武士の性根を見せる。」
 と脇差を抜いて切腹しようとします。
平右衛門に逆に意見されて思いとどまり、千代を連れて大坂に帰るのですが、義父の平右衛門も、百姓とはいうものの『平家物語』を愛読する武士的な気風の持ち主で、半兵衛と水杯を交わし、門火を焚いて、
 「灰になつても、帰るな」
 と送り出します。
「上田村の段」は、しんみりとしていますが、厳格な義理に登場人物たちが縛られていく。半兵衛お千代の陥っていく先が予感されて舞台に引き込まれます。

近松門左衛門も武家の出身です。祖父は豊臣家に仕え、父は越前で仕官した後、浪人して京に住みました。門左衛門は青年の時、公卿に仕えていたといいます。教育、教養、倫理観、人生観、門左衛門の言動の根っこは武家的な世界にあったのではないでしょうか。門左衛門が生まれたのは、関ケ原の戦いからおよそ半世紀経った頃です。「戦さ」は過去に遠ざかり、「秩序」が世の中を覆うと、大量の武士が余剰人員となってリストラされざるを得ません。半兵衛のように商人の養子になることで生き延びた者もいたでしょう。歌舞伎や浄瑠璃の作者として市井に生きる門左衛門は、元武家の半兵衛が妻と心中した事件の底に、武家からドロップアウトしてもなお武家である矜持を捨てられない自分と同じ根っこを見たのだと思います。

「八百屋の段」では、善人だが鷹揚に過ぎる八百屋の伊右衛門、ヒステリックで狭量な女房、邪気のない一途なお千代、そして半兵衛らが、ドラマを織りなして道行へと進んでいきます。様々なキャラクターが出てぐいぐいと物語を引っ張りますが、ここでも半兵衛は、養母への義理を立て、世間が養母を非難しないように心を配ります。 道行の最期、
 「古へを捨てばや義理と思ふまじ、朽ちても消えぬ名こそ惜しけれ」
 と辞世の歌を詠み、立派に切腹する。
 家族間の愛憎を律するのは、武家的な義理、倫理観でした。門左衛門は、武家を出て市井に生きる人々の内にも、自分と同じ根っこがあるのを、こう描くことで確かめたのです。

門左衛門の心中物はこの『宵庚申』が最後となります。 この年、幕府が心中を「相対死」と呼び改めて禁じ、芝居や浄瑠璃で取り上げることを禁じたのでした。七十歳、最後の心中物で、自らの根っこに触れたのも何かの縁でしょうか。しかし武家の義理を自賛して幕を引いたのではありません。劇中で、半兵衛がお千代に言います。
 「人には合ひ縁奇縁、血を分けた親子でも仲の悪いがあるもの。乗り合ひ舟の見ず知らずにも可愛らしいと思ふ人もある。人界の習はし、かうしたもの。」
義理だけでは解決しないもの。人の世に暮らす門左衛門の、これが実感だったのではないでしょうか。

■三咲 光郎(みさき みつお)
小説家。大阪府生まれ。関西学院大学文学部日本文学科卒業。
1993年『大正暮色』で第5回堺自由都市文学賞受賞。1998年『大正四年の狙撃手(スナイパー)』で第78回オール讀物新人賞受賞。2001年『群蝶の空』で第8回松本清張賞受賞。大阪府在住。

(2017年11月3日第二部『心中宵庚申』、『紅葉狩』観劇)