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国立文楽劇場

妖異と政治

鈴木 創士

一大スペクタクル『玉藻前曦袂』はずいぶん人気があるらしく、私が観劇した日も文楽劇場は大入り満員に近く、とりわけ最後の段で、妖怪である金毛九尾の狐が石と化した後に「七変化」(八変化?)するところでは、やんやの大喝采でした。妖狐をあんまさんや女郎などさまざまな人物や雷神にへんげさせる人形遣いのスピーディな技芸を次から次へと見ることができるのですから、当然といえば当然なのでしょう。

ギリシア神話に出てくる蛇の髪をしたメドゥーサは人を睨みつけて石に変えてしまいましたが、一方、この妖狐は撃退されて「殺生石」に変えられてしまった後に、どうやら夜な夜な再びへんげして、私の想像では、またぞろ巷に生き延びるらしいのです。この劇自体も「化粧殺生石」の段、妖狐の舞いのまま幕を閉じます。 おまけに前の段では、最後に陰陽師安倍泰成(安倍晴明とたぶん同一人物なのでしょう)と対決した悪人中の悪人である薄雲皇子(うすぐものおうじ)(人間としての悪を体現する皇子はなかなか迫力があります)の謀反は失敗におわるとはいえ、芝居のなかで彼は打ち殺されて息の根を止められることもありません。したがってこの芝居はある意味で完結することなく、悪は悪の姿のまま、えにしはえにしを断ち切ることなく、楽しいスペクタクルが終わると観客は劇場をそのままあとにするというわけです。

この人気にもかかわらず、『たまものまえあさひのたもと』は、それでもしょっちゅう上演されていた演目ではなかったようです。淡路人形芝居の人気の演目(こちらは短くつづめてある)のひとつでもありますが、文楽ではこのような通しの形での上演はほぼ百年ぶりだそうで、最後の「七変化」も四十一年ぶりだそうです。今日見たかぎりこれほど人気があるのにどうしてなのだろう、と劇場からの帰るさ、ふと考えてしまいました。 それは、美しく艶かしい玉藻前から妖怪である狐への変化、あるいは他の変化が技術的にも趣向を要する難しいものであることもさることながら、この「七変化」へといたる話の結構がかなり複雑であるからなのかもしれません。 しかしこんな風に話が成立していなければ、見せ所であるには違いないヘンゲは説得力に欠けたものになるやもしれません。舞台の上の展開と転換が物理的な意匠を纏えば纏うほど、事は、つまり全体の道行きは単純なものに化けてしまう危険があるのは、人形浄瑠璃に限ったことではないかもしれません。

では、どのようにして玉藻前は妖狐になるのでしょう。ちょっと長くなりそうですが、事の顛末を書いてみます。 日蝕の日に生まれたために帝位につくことができず、謀反を企む薄雲皇子は藤原道春の娘桂姫に一目惚れだったのですが、何度召し出そうとも桂姫には応じる気配がありません。皇子は金藤次を遣わし、今度言うことを聞かなければ首をとってしまえと命じます。日蝕の日が不吉な日であるのは、ここが天照の国だからでしょうか。いきなり政治と欲望の登場です。政治と占星術と謀反。 桂姫は陰陽師安倍泰成の弟である安倍采女之助(うねめのすけ)にぞっこんなのですが(やはり!)、その采女之助は彼女の恋慕に応えることなく、道春の家から盗まれた獅子王の剣の行方を探しています。その剣はかつて天竺で金毛九尾の妖狐を撃退した名剣で、じつはすでに皇子の命で金藤次によってあらかじめ盗み取られてしまっていたのです。政治にはつねに陰謀がつきものというわけです。 その金藤次が最後通牒を突きつけに来ます。自分が盗んでもうここには無いことがわかっているのに、獅子王の剣か、それとも桂姫の首を差し出せと言うのです。剣と首! 剣か首か? 桂姫には妹がいて初花姫といいます。姉妹がそっと立ち聞きしていると、母である萩の方が姉の桂姫の出自の秘密を語っているではありませんか。桂姫は、道春が清水寺近くで拾った子、子宝に恵まれなかった夫婦が神から授かった子だと言うのです。そんな桂姫を殺すことはできないので、実子である妹の初花姫を身代わりにしてはくれないかと母は申し出るのです。このような話はいにしえの日本の政治にはつきものですが、これ自体それはそれで恐ろしい話です。 金藤次は拒否しますが、母は引き下がりません。結局、姉妹に双六をさせて、なんと負けたほうの首を討てばいいということになるのです。ここまでの話も現代的観点からすればすでに尋常ではありませんが、芝居はたんたんと進んでゆきます。 すぐに双六の勝負はつきました。妹が負けてしまったのです。ところが金藤次はすぐさま姉の桂姫の首を討ち落としてしまいます。怒った母は金藤次に薙刀で切りかかり、それまで隠れていた采女之助が助っ人となって金藤次の腹を刺します。すると止めを刺される前に金藤次が自ら語り始めます。真実が明かされるのです。話はぐっと内側にめり込み、「戻り」ます。今しがた首を切り落としたばかりの桂姫こそはかつて自分が捨てた子であり、獅子王の剣は皇子の命で自分が盗んだのだということをばらしてしまうのです。ここでもまたえにしは断ち切られることなく、奇縁が奇縁をつなぐものとしてかろうじて残されたことになります。 物語はさらに続きます。そこに勅使がやって来ます。歌合わせで詠んだ初花姫の歌を帝がいたく気に入ったので、すぐさま玉藻前と名を改めて宮中に仕えよとの勅令が下ったと言うのです。帝とその出来の悪い兄が姉妹をくどいたことになります。 采女之助は采女之助で、獅子王の剣を奪い返すために、桂姫の首をたずさえて宮廷に向かいます。その頃、平安京の庭では妖異なことが起きています。一陣の風が立ち上がり黒雲が空を覆うと、金毛九尾の狐が姿をあらわし、神泉苑のほうへ消えてしまいます。 そして神泉苑の御殿で玉藻前が姉であった桂姫の死を嘆き悲しんでいると、すぐに狐が現れ玉藻前に襲いかかり、かくして妖狐は玉藻前に取り憑き、彼女をまるごと乗っ取ってしまうのです。憑依とは所有することですし、政治も権力の奪取なのですから、またそうではないでしょうか。 玉藻前に化けた狐が御殿の奥へ向かってしずしず歩いていると、帝である鳥羽天皇の兄の薄雲皇子が現れ、またしても玉藻前に横恋慕し、口説き、舌の根も乾かぬうちに、謀反成功の暁にはおまえを妃にしてやるなどと企みを打ち明けます。とんでもない兄です。ここには性をめぐる禁忌を破る雰囲気がありますが、まあ、その話はいいでしょう。 それを聞いた玉藻前は、待っていたとばかりに妖怪としての本性をあらわします。狐はかつて天竺では斑足王の后である花陽夫人(かようぶにん)に化け、唐土(もろこし)では紂王(ちゅうおう)の后である妲妃(だつき)に姿を変え、世を乱し、人心を惑わし、今度は神道と仏道を亡ぼして、日本を魔道の世界に変えてしまうのだと抱負を語るのです。皇子の謀反に加担するから、ともに世を滅ぼそう、と。大陸を渡り、歳月を経た憑依は何のために行われたのでしょう。もちろん、権力の奪取、いずれにせよ世を支配するためだったのです。 その後、またもや薄雲皇子のお気に入りである(気の多い皇子です)、じつは出自を隠した高級娼婦、なかなか気骨のある傾城亀菊が登場して、怠け者の薄雲皇子に代わってなかなか愉快な裁きを行ったりしますが(高級娼婦が裁判をやるのです)、薄雲皇子から取り戻した八咫の鏡を采女之助に渡して皇子を裏切り、逆に殺されてしまいます。このあたりの顛末はすこし割愛しておきましょう。 そして最後に、すでに獅子王の剣を取り戻していた陰陽師安倍泰成の祈祷によって、玉藻前に化けた妖狐は撃退され調伏されてしまうのです。

人形浄瑠璃を観劇していると、浄瑠璃のせいなのか人形のせいなのか、時間の流れがゆるやかなので、いろいろなことを考えてしまいます。 カルデアの昔からまつりごとは何やら「不可知なもの」に結びついていたようです。人形や浄瑠璃が「不可知なもの」に結びついていると言えばたしかにそうではあるのですが、この場合は別の事柄です。カルデアの場合は、占星術や魔術ですが、それにわれわれには卑弥呼の時代のまつりごとということもあったわけですが、この浄瑠璃の話の設定がまず面白いのは、狐が天竺、唐土、日本という三つの場所、三つの時代を股にかけていることです。たとえこれが後に追加されたお話であったとしても、多くの伝承がそうであるかのように、しかるべくそれはついに最後に日本にやって来たみたいなのです。悪は外部からやって来たとでも言わんばかりに、妖怪の狐は土着のものではなさそうなのです。魔道も宗教も当然のことながら簡単に国境を越えてしまいますが、妖異は文字どおり場所と時間を選ばず変幻自在なのです。われわれの想像以上に、当時すでにこの国は政治も文化もインターナショナルなものになっていたと思われますが、ここでの妖異は悪の象徴とはいえ、そもそも金毛九尾の狐は日本の稲荷信仰などとも無関係ではないのではないかと私は思っています。しかも金毛九尾の狐の化身は当然のことのようになぜかつねに絶世の美女でなければならないのです。

ところで政治は、いまも昔も、欲望の坩堝であり、政治には表もあれば裏もあることは誰もが知っていることです。政治の欲望は一種の悪魔主義にまで行き着くことがあるようですし、魔道はいたるところにあります。何も暴君以上の暴君であったというローマ帝国の少年皇帝ヘリオガバルスやヒトラーを引き合いに出す必要もないかもしれません。小ぶりなモデルにもいろいろ事欠きません。なるほどヒトラーとナチスは実践的意味においてオカルトに大変興味を抱いていた節があるようですが、わが陰陽師はかつて宮廷の役人だったくらいですし、いつかのアメリカの大統領夫人だって、どこかの国の首相のご母堂だって、占いや怪しげな宗教に首っ引きだという噂もあるくらいなのですから、その手の面白い歴史上の、あるいはアクチュアルな逸話がふんだんにあることくらいはわれわれも承知しています。だけどこれが現実の政治をほんとうに動かしているとなると、話はぜんぜん別のものになってしまいそうです。政治は恐らく妄想や怨念とむすびついていますが、妄想が現実化されるなら、それはたいていの場合、人々に不幸をもたらすことは必定でしょう。

そうであれば、全部妖狐が悪い、と決めつけてしまうのはどうなのでしょうか。狐がかわいそうにも思えます。現実の「魔道」じみたものは、日々、いたるところに見受けられますが、妖異な「悪」はほんとうに存在しているのでしょうか。そんな悪がしかと存在しているのかどうか私にはわかりませんが、存在しているように感じるときもありますし(何しろ世界は広いし、大自然のことは人間にはなかなかわかりません)、また妖狐よりもミカドの兄である薄雲皇子のほうが性悪で、性根が腐っていて、ほんとうに「悪魔」のような輩、それとも悪魔そのものなのかもしれませんし、そうではないのかもしれません。いい加減なことを言っているのではありません。正直、わからないのです。 ともあれ、ここでシーザーの言葉をわけもなく思い出してしまいました。「われわれの過ちは」、とシーザーはブルータスに言ったようです、「星々のなかにではなく、われわれのなかにあるのだ」、と。政治と権力は天を仰いだのでしょうか。星々は石でできています。殺生石でできているやもしれません。勿論、シーザーはここで自らの運命について述べているのでしょうが、これをまったく明後日の方向に勝手に誤読することだってできそうな気がするのです。

昔は雲の上臈(うえわらわ)、今魂は天下(あまさ)がる鄙に残りて悪念の、その妄執の晴れやらぬ、恨みは石に留まりて…

■鈴木 創士(すずき そうし)
フランス文学者、批評家、作家。音楽ユニットEP-4のメンバーでもある。1954年生まれ。主な著訳書に『アントナン・アルトーの帰還』、『魔法使いの弟子』、『中島らも烈伝』、『ひとりっきりの戦争機械』、『サブ・ローザ』、『ザ・中島らも』、エドモン・ジャベス『問いの書』『ユーケルの書』『書物への回帰』『歓待の書』、フィリップ・ソレルス『女たち』、アントナン・アルトー『アルトー後期集成』(共同監修)、ジャン・ジュネ『花のノートルダム』、アルチュール・ランボー『ランボー全詩集』など。兵庫県在住。

(2015年11月9日第二部『玉藻前曦袂』観劇)