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国立文楽劇場

文楽におけるどん底

吉村 萬壱

「どん底に落ち込んだ時、初めて人間はその人間性を獲得するんだ。社会の奴等はみな宙ぶらりんでいる。色んな自由や、色んな幸福が許されているから駄目なんだ。そんなものを、そんな幸福や自由を全部、失ってしまった時になって、初めて人間は人間になる。それは我々にまつわりついている下らんものが全部洗い落されるんだ。社会の奴等は苦しんだこともないくせに苦しんだような恰好をする。孤独になったこともないくせに独りぼっちになったような真似をして見る。愚劣だ。みな自己満足だ。だから彼等が癩病院にやって来ると、どんな偉そうな連中でも化けの皮をはがされてしまう。俺はそういう風景を何度も見た」

これは二十四歳で夭折した作家・北條民雄の「道化芝居」の一節で、癩病を病んだ辻という人物が主人公の山田に語る台詞である。北條民雄自身癩病に罹患し、腸と肺の結核で若くして死んだ。当時癩病は不治の病と見なされ、酷い差別を受け、徹底的に隔離された。ここではどん底の癩病患者の視点から、「社会の奴等」の愚劣さが語られている。このようなどん底の人間に対して、ろくに苦しんだこともなく孤独になったこともない人々は、皆何らかの負い目を抱いているものである。この台詞はそれを鋭く指摘している。

今回「日吉丸稚桜」と「冥途の飛脚」を観た。そして観客達は皆、自分の「化けの皮」を剥がされたいがために文楽という「どん底」を観に来ているのかも知れない、と思った。娘の首を斬り、自刃してまでも貫かれる狂気としか言いようのない忠義、破滅に向かって突き進む狂った恋の道行という極端などん底物語に没入することによって、人は自分の身に「まつわりついている下らんもの」を「全部洗い落とされる」のである。このカタルシスが、文楽の魅力であるのは間違いない。

舞台では、現実には有り得ない狂態が展開する。観ようによっては、笑い出してしまうほどの狂いっ振りである。しかしそれらが人形によって演じられているところがミソだ。人形であるから全ては架空であり、架空であるが故にどんな狂態に対しても、観客は却ってどこまでも主体的にのめり込んでいくことが出来る。もし人形でなく生身の人間が腹を斬り、娘の首を斬って血しぶきが飛び交っていれば、観客は我に返って顔を背けてしまうだろう(たとえば失敗作と言われるシェークスピアの「タイタス・アンドロニカス」がこの類であろうか)。その点、文楽は実によく出来ている。そしてのめり込めば込むほど、僅かな指の反り返りや首の震え、眉の上げ下げといった人形の動きの全てが、観る者の投げ掛ける感情を全て吸収し、増幅する役割を果たす。太夫の声や三味線の音も然りである。

舞台には無数の釣り針が仕込まれているかのようだ。観客が物語に深く沈んで行くほどに、その人の人生の断片が釣り針に引っ掛かって次々に意識の表面に上ってくる。忘れていた筈の遠い記憶が、人形の微かな動きや太夫の声音、三味線の一音に釣り上げられて姿を現し、想い出されることによって感情が激しく揺さ振られる。観劇しながら泣いている人達は、自分の人生を泣いているのに違いない。

新町の遊女梅川の身請けのために、屋敷に届ける筈の三百両を使い込んだ「冥途の飛脚」の忠兵衛。死罪は免れず、厳冬の大和路を逃げる二人。もしこのような愚かしさに全く身に覚えがないならば、余りにも馬鹿な二人と笑って済ますことも出来ようが、子供であればともかく、大の大人であれば誰しも自分の中に梅川や忠兵衛がいるのを知っているであろう。殆どの大人は、理性や良識によって破滅を免れることによって今を生きている。それゆえに「色んな自由や、色んな幸福がゆるされている」「宙ぶらりん」の人生を送っているのである。しかしこの安泰な人生は本当に正しいのだろうか、という負い目がいつまでも付き纏っていないだろうか。本当はあの日あの時、家庭も仕事も全て投げ捨てて彼(彼女)と逐電してしまうべきだったのではないかという思い。あるいは、自分の人生に於いて本当に愛していた相手を、もっともっと激しく愛すべきだったのではないかという後悔が、押し殺しても押し殺しても胸の底に疼いているのが、正直な大人の胸の内というものであろう。

霙がちらつく冬の大和路で、肩を寄せ合って震えている梅川と忠兵衛の姿を見て涙するのは、そこに自分の姿を見るからである。その未来のなさ、その惨めさ、その狂態の方が、今の「宙ぶらりん」の自分よりも遥かに真実であったのではないかと思えばこそ、人は泣くのである。確かに二人は「どん底」にある。しかし「どん底」には「どん底」にしかないまじりっけのなさがある。そこには、「まつわりついている下らんもの」など一切ないのだ。一番底辺に至った者だけが身に帯びる聖性というものが、あるに違いない。

「人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのちそのものなんです。僕の言うこと、解ってくれますか、尾田さん。あの人達の『人間』はもう死んで亡びてしまったんです。ただ、生命だけが、ぴくぴくと生きているのです。なんという根強さでしょう。誰でも癩になった刹那に、その人の人間は亡びるのです。死ぬのです。社会的人間として亡びるだけではありません。そんな浅はかな亡び方では決してないのです。廃兵ではなく、廃人なんです。けれど、尾田さん、僕等は不死鳥です。新しい思想、新しい眼を持つ時、全然癩者の生活を獲得する時、再び人間として生き復るのです。復活、そう復活です。ぴくぴくと生きている生命が肉体を獲得するのです。新しい人間生活はそれから始まるのです」(北條民雄「いのちの初夜」)

癩病院に入院して来た尾田に、先輩患者の佐柄木はこう語る。一旦死んで、初めて生き始める命があるのである。癩に罹患した者と同様に、死罪になるのが分かっていて三百両に手を付けた忠兵衛は、誰の心の中にもいる命懸けの復活者でなくて何であろう。絶望と死に裏打ちされた生がそこにある。たとえ捕らえられて死罪になる身であっても、殺されるのは「宙ぶらりん」の自分であって、真の自分は永遠に生き続けるに違いない。何故ならそこには下らない嘘、偽りが微塵もないからだ。その一点に賭けた梅川、忠兵衛のような生き方は、誰もが出来るものではない。だが、いつ自分が梅川や忠兵衛になってもおかしくないことを、誰もが知っている。知っていて出来ないからこそ負い目を感じ、せめて物語の中だけでも生まれ変わりたいと願って人は文楽に足を運ぶのであろう。

人間として生まれてきた限り、忠義に対してであれ恋に対してであれ、自分の人生を完全燃焼させたいという思いは誰もが密かに抱いていよう。にも拘わらず我々の生は、突然の不幸に突き落とされでもしない限り、往々にして不完全燃焼のまま過ぎて行く。現状を失うことへの漠然とした恐怖に怯えているからである。そしてごく一部の人間だけが、世間の常識や体面、守るべき物の全てをうっちゃって、自ら亡びの中へと飛び込んでいく。そして一瞬の眩しい閃光を放つ。文楽とは、この輝きを人形芝居の形に閉じ込めたものであろう。人形の首は、誰の顔でもないと同時に誰の顔でもある。物語の主人公が為すことは、誰も為し得なかったことであると同時に、誰もが為してしまうかも知れないことである。そして我々は、物語によって自分たちの事なかれ主義や愚劣さや自己満足を告発され、或いは後悔して胸を掻き毟り、或いは懐かしみ、或いは安堵しながら涙を流し、一幕の、有り得たかも知れない架空の人生を存分に生き死にし、そして観劇が終わると自分達の日常性の中へと、何か一つ新しくなった心を携えて、即ち僅かに復活して帰って行くのである。

■吉村 萬壱(よしむら まんいち)
作家。1961年生まれ。愛媛県出身。京都教育大学教育学部卒業。1997年「国営巨大浴場の午後」で第1回京都大学新聞社新人文学賞受賞。2001年『クチュクチュバーン』で第92回文學界新人賞受賞。2003年『ハリガネムシ』で第129回芥川賞受賞。

(2015年1月23日第二部「日吉丸稚桜」「冥途の飛脚」観劇)