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国立文楽劇場

本当は恐ろしい文楽

有栖川 有栖

もう十年以上も前のことになるが、『本当は恐ろしいグリム童話』(桐生操・著)という本がベストセラーになった。続刊が何冊か出て、今もその文庫版がロングセラーになっているようだ。

本に限らずテレビ番組のタイトルなどでも本当は恐ろしい××、本当は怖い〇〇というフレーズをちょくちょく目にする。昔からあった気もするが、あの『グリム童話』が火付け役なのかもしれない。

それをもじって〈本当は恐ろしい文楽〉について書いてみる。ときたら、十一月公演をご覧になった方は「ははあ」と思われるだろう。

「さては『奥州安達原』について書くんだな。国立文楽劇場が〈文楽最凶の女 24年ぶりに現る〉なんて煽るから何事かと思っていたら、あの四段目「一つ家の段」は本当に恐ろしかった」

はい、身の毛がよだつような怖い段でしたね。何も知らずに観に行ったら、「(こんなホラー映画みたいな展開があるなんて)聞いてないよ!」と言いたくなったかもしれない。

安達原ときたら、夜更けに包丁を砥いで旅人を襲う鬼婆の伝説。それなりに恐ろしいお婆さんが出てくるのは承知していたものの、現れた〈文楽最凶の女〉は想像を大きく超えていた。

四段目の幕開きは「道行千里の岩田帯」。込み入ったドラマの中で、文楽お約束のほっとできる明るい道中シーンだ。ここでは、生駒之助と恋絹(懐妊中)の夫婦が薬売りに化けて恋絹の郷里へと旅している。変装しているのは敵から逃れるためなのだけれど、二人はそれすら楽しむように息の合った口上を述べながら歩を進める。

そのシーンがほほえましいだけに、この後で生駒之助を待っている悲運を思うと非常につらい。作者(近松半二ほか)は、なんと残酷な話を書くのだろうか。その容赦のなさが素晴らしい。

そして迎える四段目。舞台は青空の街道から一転して、世にも陰鬱なものになる。

荒れた野にぽつんと建ったあばら屋には、ごつごつした蔓性の植物がびっしりと張りつき(「隣る家なき一つ家の軒の柱はすね木の松、己が気まゝにまとはるゝ蔦は逆立つ鱗のごとく」「さも物凄き埴生(あばらや)」)、照明はすとんと落ちてたそがれの風景は暗い。

その陋屋で、白髪の老婆がくるくると篗(糸巻き器)を回している。どこかで観たことがあるぞ、と思ったら、黒澤明監督がシェイクスピアの『マクベス』を翻案して撮った『蜘蛛巣城』に出てくる魔女だ。糸を巻く鬼婆=岩手は、人間の運命をもとあそんでいるかのようにも見える。

そこに立ち寄ったのが旅人の男。煙草の火を借りようとしただけなのに、追剥に用心と脅かされ、一夜の宿を求めたのが運のつき。岩手はじきに本性を現し、財布を掴んだ旅人の腕を引き抜く。そして、喉笛に噛みついて殺してしまうのだ。

その後、「アゝ、嬉しや」と遺体を畳の下に蹴り落とし、財布を放さない腕に「エゝしぶとい」と毒づくのだから、あっけに取れられてしまう。〈文楽最凶の女〉の異名にたがわぬ非道ぶりである。

さらに、そこへ生駒之助と恋絹が……とくるのだから、憐れで観てはいられない。恐ろしい段があったものだ。

しかし、私はこの「一つ家の段」だけを指して〈本当は恐ろしい文楽〉と言いたいのではない。ここまでのホラータッチは珍しいにせよ、だいたいにおいて文楽には戦慄すべき設定や場面が出てくる。少し遠慮をして「恐ろしい」としたが、もっと刺激的に〈本当は血なまぐさい文楽〉とする方が適当かもしれない。

生きるか死ぬか、殺すか殺されるか。時代物であれ世話物であれ、文楽はそんな物語ばかりだ(しみじみと夫婦愛を描いた『壺坂観音霊現記』などを含む)。わが妻や子を忠義のために殺す。不忠の詫びに切腹する。現代の話ではないし、当時の作劇法ならではの誇張があるとはいえ、悲惨極まりない。

『妹背山婦女庭訓』の三段目「山の段」では、腹を切って瀕死の久我之助(文楽のロミオ)のもとへ、川の対岸で先に自害した雛鳥(同ジュリエット)の首を舟にのせて渡す。ひたすら美しく感動的なのだが、どうしたらこんな血なまぐさいシーンを思いつくのだろう。

誇張のなさが恐ろしいのが、この夏に国立文楽劇場で上演された『女殺油地獄』。よく指摘されるとおり、ここに登場する与兵衛のワルぶりは、現代のある種の犯罪者と変わるところがない。おのれの欲望のために平然と罪を犯す不道徳さ。世話になった人物でもためらいなく殺す冷血ぶり。ビターな暗黒小説(ロマン・ノワール)の新作を文楽化したかのようだ。

犯人・被害者とも油まみれで滑りながらの殺害シーンは有名だが、現場から逃走しかけた与兵衛が奪った金を落とし、うまく拾えないシーンも恐ろしい。夏の公演では、与兵衛の手も落ちた金も、ともにぶるぶると震える演出がなされていて、見事なアイディアだと感心した。

例を挙げていけばキリがないほど、文楽は血なまぐさい。とりも直さず私たちの中に残酷なもの、猟奇的なものもフィクションとして楽しみたい、という欲求があるためだろう。だから、かつて先端のエンターテインメントだった文楽はそれを取り込み、時として強引に物語に組み入れた。いたって自然なことである。

ただショッキングなものを混ぜれば、観客が喜んでくれるわけでもない。いくら人形が演じるとはいえ、無残なだけの話は嫌悪感を誘うはずで、語り・三味線・人形遣いの三業が一体となった高度な抽象化・様式化ができてこそ、作品になる。

作者らは、「ここらで血なまぐさい場面を入れとこか」「よし、えげつのういったれ」と筆先をなめながら書いたのかもしれない。それが磨きに磨かれて、かくも洗練されたものになった。偉大な芸能と言うしかない。

■有栖川 有栖(ありすがわ ありす)
小説家、推理作家。1959年生まれ。同志社大学法学部卒業。1989年『鮎川哲也と13の謎』の一冊、『月光ゲーム Yの悲劇'88』でデビュー。2003年『マレー鉄道の謎』で日本推理作家協会賞、2008年『女王国の城』で本格ミステリ大賞受賞。主な著書に、『学生アリス』シリーズ、『作家アリス』シリーズなどがある。2013年4月、大阪を舞台にした『幻坂』を刊行。有栖川有栖創作塾の塾長も務める。大阪府在住。

(2014年11月6日 第二部『奥州安達原』観劇)