文楽かんげき日誌

「笑い」の文楽

小佐田 定雄(かみなり太鼓作者)

小佐田 定雄

「夏休み文楽特別公演」が無事千穐楽を迎えました。私の書かせていただいた『かみなり太鼓』と題する小品が第一部の「親子劇場」で上演されましたが、ご覧いただけましたやろか?
 国立文楽劇場の制作の方からお話があったのは二年前のことでした。ご注文は「親子で楽しめる笑える文楽」。
 文楽には数多い名作がありますが、ほとんどが悲劇と言ってもいいでしょう。中には「チャリ場」と呼ばれる笑いのシーンもありますが、長い長い通し狂言の途中でお客様にほっと一息ついていただく緩和のコーナーとして挟まれています。お客さまにちょっと笑っていただいた後にはメインとなる悲劇が待っているわけで、いわば文楽にとっての「笑い」は気分転換であり、目的とはなっていなかったわけです。
 最初から最後まで笑いを目的としている数少ない例としては弥次喜多コンビが活躍する『東海道中膝栗毛』があるくらいで、「笑い」と「文楽」は縁が薄かったのです。
 笑いのない、ちゃんとした古典の名作は山ほどあります。そこで、落語作家の私に与えられたミッションは「笑える」という一点でした。
 今回の台本を書くにあたって決めたことは上方落語で使っているわかりやすい大阪弁を使うこと。「親子劇場」ですから、子どもさんにもわかりやすい言葉を使わねば…というのは表向きの理由で、子どもに限らず一人前の大人でも古典芸能に興味のない人に、いきなり「ここに刈り取る真柴垣」とか「この世の名残、夜も名残」なんてフレーズを聞かせても、すぐには理解してはもらえないのではありますまいか。つまり、「古典になじみがない」という点では子供さんも大人もそんなに違いはないのです。
 そこで、このたびの『かみなり太鼓』では、江戸時代なら「ととさん」と「かかさん」と呼ぶところ、あえて「おとうちゃん」と「おかあちゃん」という今でも通じる言葉にしてみました。あとは、蚊帳、行水、天神祭という夏の風物を採り入れて短い台本を提出したのです。

そして数か月後、私の前に出現したのは作曲の鶴澤清介さんと演出の桐竹勘十郎さんが「文楽」の型に仕立ててくれた『かみなり太鼓』でした。お稽古が始まると、太夫、三味線、人形のみなさんが、それぞれの登場人物に強烈なキャラクターを付け加えてくれました。皆さんが舞台でご覧になった四人は、私の書いた台本から飛び出して自由自在に楽しそうに動き回っていて、作者の私自身も彼らの言動におおいに笑わしてもらいました。
 初日の幕が開いたあとも、芝居の中身はどんどん変わっていきました。
 千穐楽が近づいたある日、楽屋にうかがったところ、太夫さんの部屋から
「あそこの台詞はもっと早く言うたほうがええと思うで」
などという熱い討論の声が聞こえてきていましたし、人形遣いさんも私の顔を見るなり
「あの場面で、こんな動きをしてみよと思うんですけど、いいでしょうか?」
などと聞いてくれました。あと数回しか演じることがないのに工夫に工夫を重ねてくれていたのです。
 文楽では使用しない回り舞台を動かしてくれたり、この作品専用の仕掛け付きの引幕まで作ってくれました。この幕は百鬼夜行絵巻風の絵に勘十郎さんが「よそでいうたらあきまへん」というこの作品のテーマ(?)を墨痕鮮やかに添えてくれました。

技芸員、スタッフ総がかりでアイデアを出してくれる様子を見るにつけ
「ひょっとしたら、みんなも楽しんでくれているのかな?」
とうぬぼれることができて、ちょっと嬉しくなりました。
 いつもは私が書いたものを落語家さんがしゃべるという、作者と演者の二人だけの作業しか知らない私にとって、このたびの共同作業はとても魅力的でありました。
 そして、文楽という形式の自由さを教わるにつけ、文楽にまだまだすばらしい可能性があることを確認させてもらいました。人形しかできないこと、浄瑠璃でしか表現できない「笑い」がまだまだ埋蔵されていると思うのです。
 今年の後半には、劇作家の三谷幸喜さんの『其礼成心中』の再演と、シェイクスピア原作の『不破留寿之太夫』と笑いの文楽が続けて上演されます。三谷さんが現代演劇の笑いで、シェイクスピアが古典喜劇の笑いとするならば、さしずめ私は演芸の笑いになるのでしょうか。
 いずれにしても、文楽の「笑い」の発掘のお手伝いができればいいな…と思っている次第です。

『かみなり太鼓』のラストシーン ▲『かみなり太鼓』のラストシーン

■小佐田 定雄(おさだ さだお)
落語作家。1952年、大阪市生まれ。77年に桂枝雀に新作落語『幽霊の辻』を書いたのを手始めに、落語の新作や改作などを手がける。90年に第7回咲くやこの花賞、95年に第1回大阪舞台芸術賞奨励賞を受賞。近年は狂言の台本も手がけている。近著に「枝雀らくごの舞台裏」(ちくま文庫)があるほか、「文楽へようこそ」(小学館)で勘十郎&玉女の対談の聞き手、「文楽へのいざない」(淡交社)の構成を勤めた。