文楽かんげき日誌

夏休み文楽特別公演、ぜんぶ見ながら考えた

仲野 徹 (大学教授、生命科学)

大学教授という仕事柄、いろいろなところでセミナーや講演をさせてもらうことがある。専門家ばかりのところから、ごく一般の方たち、時には中学生を相手にお話をしたこともある。相手によって内容やレベルを工夫しているつもりだが、来ていただいた方すべてに楽しんでもらうのは、なかなかに難しい。
 文楽の演目選定にも同じような難しさがあるような気がする。いや、おそらくもっと難易度は高いだろう。演目が限られている上に、内容を変える訳にはいかないのだから。それに、どんなお客さんが来られるかがわからないのだから。

『夏休み文楽特別公演』三部構成すべて見たのであるが、演目のバラエティーが抜群。どれも違った味わいで楽しめた。夏休みで特別、というだけあって、第一部は、子供が見ても楽しめる演目が二題。ひとつは、『かみなり太鼓』。お母さんの怒鳴り声に驚いたかみなり様が落っこちてきてしまうという、わかりやすく面白い内容だった。
 百年後に、「この作品は、小佐田定雄という昭和から平成にかけて大活躍した上方の落語作家が作った名品で、初演は平成26年。作曲は鶴澤清介、演出は三世桐竹勘十郎による。」とかいうて紹介されてるかも、などと空想するのも楽しい。
 もうひとつの『西遊記』は、なじみのお話とはいえ、語りは昔の言葉。子供たちには難しくて、ざわついたり寝たりするのではないかと思っていたけれど、なんのなんの。文楽を見に来ようというようなお子達は賢い子が多いのか、はたまた伝統芸能の迫力に押されてか、『かみなり太鼓』に劣らぬ盛り上がり。孫悟空の分身がたくさん宙を舞うシーンなどは、子供だけじゃなく大人もうきうきわくわく。
 豊竹英大夫師匠は子供向けの工夫で大サービス。『妖怪ウォッチ』や、大ヒット映画『アナと雪の女王』からとった「ありのままでいいのだ」のくだりのところは、とりわけ大うけ。妖怪ウォッチは、あまりに意外だったせいか、なにこれ?というワンテンポあってから、どっかぁんとうけていた。ちなみに、私は妖怪ウォッチなるものを知らなかったために、なんのこっちゃと思うだけで、驚きも笑いもできずでありました。
 考えてみれば、義太夫には、たわいないシャレ言葉や、ちょっとエッチなことを匂わせるようなところもけっこうある。昔はこういう感じで、小ネタがつけくわえられていって、次第に完成していったんかもしれんなぁなどと勝手に思ったりする。

それに対して、第二部、第三部は、『平家女護島』、『鑓の権三重帷子』、『女殺油地獄』と有名作品が三つ並んだ。『鑓の権三』は、筋書きによると、実話をもとに近松門左衛門が作ったらしいが、今の時代感覚でいうと、そのリアリティーのなさは、『かみなり太鼓』や『西遊記』とたいしてかわらない。
 いろいろな事情があるとはいえ、不義姦通を疑われただけで、二人が潔く討たれるのである。はぁ?意味わかりません。それでも、日本人なら、そんな時代もあったんかなぁ、とぼんやり思うことはできる。しかし、イヤホンガイドで聞いていた外人さんたち、はたして理解できたんやろうか。ひょっとすると、理解ができずに、「説明、わけわからへんがな」と、英語でつぶやいていたかもしれん。
 話が進むにつれて、あまりの腑に落ちなさから、脳が「?」で飽和していく。ううむ、どうもこれは後味がよろしくないのではないかと不安がよぎる。しかし、そのような不埒な気持ちは、悲しげで美しい祭り囃子と踊りのさなかに二人が斬られるラストで一掃された。完成された様式美によって、もやもやした不条理感はふっとんだ。そして見終わった時、意味もなく、そうだ、これでよかったのだ、とつぶやいていた。

『平家女護島』は、その歌舞伎バージョンである『俊寛』を何度も見たことはあったけれど、文楽では初めて。『仮名手本忠臣蔵』などなど、文楽から歌舞伎に移された演目は多い。文楽と歌舞伎、どちらが面白いとか、どちらがよいとかいうのは好みの問題になるだろう。しかし、泣く場面、特に、号泣の場面は文楽に軍配があがるのではないかとかねてから思っている。
 人間が演じるから人形よりもリアリティーを高く感じる。かというと、そう単純ではないだろう。だいたい、鬼界が島に取り残された俊寛のように、壮絶な悲嘆にくれて泣き叫ぶような人間など、実生活において見たことがない。もし目の前で長々と慟哭されたりすると、きっと、どん引きしてしまって、むしろリアルに思えないのではあるまいか。
 文楽でも、もちろん義太夫語りは嘆き悲しむ。しかし、人形だから、当然、俊寛の表情はかわらない。そのシュールさがかえって悲しみを深く感じさせる。人形というリアルさに欠ける存在が、悲しみのリアリティーを増幅しとるなぁ、などと思うのは天の邪鬼な私だけだろうか。

『女殺油地獄』も、文楽、歌舞伎ともによくかかる人気演目だ。これも諸般の前置きがあるとはいうものの、いってみれば、理由なき殺人、衝動殺人、あるいは、逆ギレ殺人、みたいなもんである。クライマックスは、与兵衛が油まみれになりながらお吉を刺し殺すシーン。これも、文楽と歌舞伎を比べてみると面白い。
 歌舞伎では、実際に油まみれになりながら芝居が進む。それに対して、文楽では、油がこぼれていることを人形が滑る動きによって表現する。今回、与兵衛の人形遣いは桐竹勘十郎さん。『文楽へようこそ(小学館)』によると、油地獄は好きな演目の一つで、油で滑ってこけつまろびつするところでは、「勢いよく行けるとこまで行く」とおっしゃるだけあって、見事な「滑りっぷり」であった。
 いくら油まみれになったって、人形みたいに、土間の端から端まで人が滑るようなことはないだろう。しかし、つる~っと滑ってくれると、油に対する脳内イメージが極限までかき立ててられ、現実よりもリアルな印象がもたらされる。
 はやりのバーチャルリアリティーは、現実との類似性を高めることによって、現実を想起させようとする。それに対して、文楽はそれとは逆で、むしろ現実から遠ざけ、思いっきり大げさにすることにより、リアルさを際立たせることに成功している。えらいやないか、文楽。

などと、えらそうに書いているけれど、文楽に足繁く通い出したのは、たかだかこの3~4年のこと。そのきっかけになったのは、偉大なる評論家、加藤周一の名著『羊の歌』である。東大医学部に学んだ加藤が若き日のことを綴ったこの作品、ぜひ読みなさいと毎年の講義で医学生たちに薦めている。数年前、加藤周一が亡くなったのを機会に再読してみた。
 若いころに読んだきりで、まったく覚えてはいなかった文楽についてのエピソードが目をひいた。太平洋戦争開戦の日、加藤は、新橋演舞場に文楽を観に行ったという。4~5人しかいない観客席から、蝋燭にゆらぐ舞台を見て、「何ものを以てしても揺り動かし難い強固な一つの世界、女の恋の歎きを、そのあらゆる微妙な陰影を映しながら、一つの様式にまで昇華させた世界」が、外の世界に対して「少しもゆずらず、鮮やかに堂々と、悲劇的に立っていた」非日常へとひきこまれていく。
 確立された様式美から成り立つ非現実な世界と、戦争という「軍国日本の観念と実際のすべて」である凄惨な現実の世界との対比。リアリティーのない世界と、ありすぎる世界が、劇場の内と外とに共存する。もしかすると、前者を通して後者をより深く冷静に見つめることができるのではないか。そんな思いが私を文楽に引き寄せた。

文楽は、人形を遣うが故にリアリティーに欠くように思われるが、ここに書いたように、いくつかの意味でリアルさにあふれている。しかし、そのリアルさを感じつつも、タイムスリップしたかのように、リアリティーに逆らった非日常の世界に浸ることができる。そんな境地にいたるには、何度か足を運ばないといけないかもしれないが、こんなにも高度に倒錯した知的なエンターテインメント、ちょっと他にはないだろう。

■仲野 徹(なかのとおる)
大阪大学大学院、医学系研究科・生命機能研究科、教授。1957年、大阪市生まれ。大阪大学医学部卒。内科医として勤務の後、「いろいろな細胞がどのようにしてできてくるのか」についての研究に従事。エピジェネティクスという研究分野を専門としており、岩波新書から『エピジェネティクス-新しい生命像をえがく』を上梓している。豊竹英大夫に義太夫を習う、HONZのメンバーとしてノンフィクションのレビューを書く、など、さまざまなことに首をつっこみ、おもろい研究者をめざしている。

(2014年8月2日『平家女護島』『鑓の権三重帷子』『女殺油地獄』、
8月3日『かみなり太鼓』『西遊記』観劇)