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国立文楽劇場

泣き笑いで

黒澤 はゆま

四月十四日、通しで観劇した「菅原伝授手習鑑」は六十八年もの長い間大夫をつとめられてきた竹本住大夫師の引退公演だった。

一口に六十八年というが、住大夫師が二代目豊竹古靱太夫に入門し、豊竹古住太夫を名乗られたのは昭和二十一年の四月、終戦から一年もたっていない時のことである。

焼け野原にバラック小屋が立ち並び、スーパーやコンビニの代わりが闇市、皆とても貧乏で、異国のパイプをくわえた大男を元帥と崇めなくてはならない戦争に負けた哀しい国。

そんな国で、伝統芸能を担っていこうと決意されたのは、物心ついたときには既にテレビもファミコンもあった私達の世代では想像もつかないほど勇気のいることだったに違いない。住大夫師は中国の蘇州へ従軍もされている。敗戦後の突きぬけた青空のもと、文楽の門を叩いたとき、胸中に翻ったものはなんだったのだろうか。

さて、今回の「菅原伝授手習鑑」で私があっと思ったのは「丞相名残の段」、立田の前の遺骸が引き上げられるシーンだった。

立田の前はこの前段「東天紅の段」で夫の宿禰太郎と、その父の土師兵衛によって惨殺されている。

夫と舅に裏切られた立田の前の境遇が哀れで、物悲しくかつ凄惨な場面なのだが、その袖で遺骸を引き上げた下部(しもべ)がお尻をフリフリ、コミカルな仕草で体を拭いているのだ。そのため、観客席からはドッと笑いが漏れた。

というか私も笑ったのだが、このシーンの効果を映画やドラマもしくは小説で表現するのは難しいだろうなと思った。近代的な、統一された自我を前提にした表現技法である映画やドラマや小説では、場面の意味は通常一つである。

もし、このシーンを映画で再現しようとしたら、クローズアップされるのは黒く長い髪を海藻のように体に巻きつけて横たわる真っ青な立田の前の遺骸で、下部は背景に後退し、その動きはぼやかされて見えないだろう。小説でも下のようにしか表現できない。

『下部が池に飛び込み、しばらくしてから立田の前の死骸はあがった。唇まで真っ青で、長い髪が海藻のように体に巻きついている。その横で無粋な下部は尻を振りながら体を拭き、二、三度くしゃみをした』

うん、ちっとも笑えないし面白くない。悲惨と笑いを同時に同じ重みで提供し、どちらを楽しむかは観客次第というのは、伝統芸能にのみ出来ることのように思う。

そもそも、このシーンに限らず、文楽では笑いと悲惨が、悪趣味に堕しかねないほど、きわきわに続けざまで表現されることが多い。前回の「伊賀越道中双六」では豪傑の政右衛門が師匠のために割烹着用のものを着て、甲斐甲斐しくタバコ葉を刻み笑いを取っていた。しかしその直後に自分の子供を惨殺するのである。

これは一体何だろうか?

笑いとは心をリラックスさせること、言ってみれば無防備になることだから、練達のボクサーのように、一度油断させてガードを下げたところに、悲惨のストレートをお見舞いするという効果を狙ってのことなのかもしれない。

しかし、それ以上に昔の人は、近代人のように泣くべきとか、笑うべきといったことをはっきりと分けて考えなかったのではないだろうか。小泉八雲の「日本人の微笑」にあるように、私たちは悲惨にあったとき、ミステリアスな笑いでそれを乗り越えようとする民族だった。

笑いにも色々定義はあると思うが、私は「勝利の歌」というマルセル・パニョルの言葉が好きだ。文楽は悲惨を涙で受け止め、笑いで乗り越えようとする芸術なのかもしれない。

ラスト「寺子屋の段」。松王丸は菅丞相の子供の身代わりに死んだ息子の首を前に、「ナニにっこりと笑ひましたか」といって笑い、「倅が事を思ふにつけ、思ひ出さるる思ひ出さるる」といって泣く。泣くことと笑うことで、息子の死を松王丸は受け入れる。

それは昔の日本人には当たり前の悲しみに対する身の処し方だったのだろう。

最後になるが、住大夫師の「桜丸切腹の段」本当に素晴らしかった。広い文楽劇場が、住大夫師という大きな鐘にすっぽりと納められているようで、私たち観客は、その複雑で美しい響きを持った巨大な音圧に全身を揉みほぐされた。至福のひとときだったと思う。

衰えたなどと一体どこが、まだまだ舞台に立って欲しいと思うが、練達の表現者の引退もまた「泣き笑い」でお見送りしたいと思う。本当にお疲れ様でした。

■黒澤はゆま(くろさわはゆま)
作家。1979年生まれ。宮崎県出身。九州大学経済学部経営学科卒業。九州奥地の谷間の村で、神話と民話、怪談を子守歌に育つ。小説教室『玄月の窟』での二年の修行の後、2013年『劉邦の宦官』でデビュー。大阪府在住。

(2014年4月14日『通し狂言 菅原伝授手習鑑』観劇)