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国立文楽劇場

破れ目

鈴木 創士

『菅原伝授手習鑑』では、歴史もそう伝えるとおり、というか、うつつなのか、権力者たちを筆頭に人々の心に巣食う恐怖の夢に見入られているからなのか、菅原道真が自分を陥れた敵に対する怒りのあまり雷になって昇天する場面が演じられています。そう、京都の北野天満宮に祀られるあの天神さんです。 早良親王や、縁切りで有名な安井金比羅の崇徳天皇など、宮廷を呪詛し、空から、また地の底から京の都に災いをもたらし、この世の無責任で変わらぬ徒然を呪った、平安京にまつわる祟り神は珍しくありません。そもそも神社仏閣の役割や配置など、平安京の、いや、今も厳として存続する今日の京という町自体の風水的都市計画に思いを馳せるならば、これらの「御霊」、つまり怨霊の激しい憤怒の、さまざまな結末を抜きには考えられないくらいです。少なくとも当時の為政者たちはそう考えたはずです。 菅原道真もまた歴史に登場したそんな「御霊」のひとりなのです。だが結界はつねに破られるものとしてあり、実際、破られています。その破れ目から今でも鬼や鬼神や幽霊たちがぞろぞろ出てくるのでしょう。 それにしても、藤原時平の讒言によって平安京より九州の大宰府に追放され、その地で憤死した道真公がいまでは私たちにとっては受験の神様なのですから、なんと言えばいいのか、このことのほうが私の理解を越えています。いくら道真が「文道の祖」であり「詩境の主」であったとしても、受験と何か関係があるのでしょうか。 このことには、柄にもないことを言わせてもらえば、どこか現代という人の世の哀れさえ感じてしまいます。怨霊はどこへ行ったのか。利用できるものだけ利用して、何もかも忘れてしまえというわけです。やれやれ、というほかはありません。われわれはみんな健忘症にかかっているらしい。 ラカンという高名なフランスの精神分析家は、心のなかで抑圧されたものは必ずや回帰して復讐すると言っていましたが、この健忘症、愚行の元であるに違いないこの忘却自体が歴史を織りなしているのではないかと思ってしまうほどです。この人形浄瑠璃の舞台を眺めながら、今回もまたそんな余計なことを考えていました。

東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅の花主(あるじ)なしとて春な忘れそ
菅原道真

この梅の木は、道真を慕ってか、呪いのためか、一夜にして京の都より大宰府まで飛んできたのでした。 では、この人形浄瑠璃は、菅原道真がリアルな主人公なのでしょうか。そうであると言っても間違いではないですが、そうでないとも言えます。近松の『天神記』などを元本にして、竹田出雲、並木千柳、三好松洛、竹田小出雲によって書かれたこの作品、さすが三大名作のひとつと言われるだけあって、一筋縄ではいかないものです。 主人公は梅王・桜丸・松王丸という三つ子の兄弟とも考えることができるからです。道真という丞相の失脚をめぐって敵味方に分かたれた兄弟の生き方、身の処し方、その行く末の物語でもあるのです。

梅は飛び桜は枯るゝ世の中に何とて松のつれなかるらん

梅・桜・松。長男である「梅」は、失職中である今風に言うと原理主義者の浪人であるが故に、ある意味で右往左往し、「桜」は丞相道真に対する藤原時平の讒言のきっかけを与えた責任を取って切腹しました。そして道真の敵である時平に仕える「松」は、「つれない奴だ」と悪口を言われながらも、道真公への義を立てるためにそれでも最後には自分の子の首を、手の込んだ仕方で、数人を除いて誰にも知られることなく、差し出してしまうのです。狂言回しには狂言回しの人生があるように、彼らにもそれぞれの悲劇があったのです。 それもこれも結局はお上のいざこざに端を発しているのですから、どこかで聞いたような話です。少しばかり馬鹿ばかしくも哀しい、あるいは見方を変えれば、時の権力に翻弄される、いささか複雑で小難しい人情話のようですが、江戸の民衆は自分たちの見聞きしていることとして、実体験として、このことを即座に理解したのでしょう。 この三兄弟の話には、体制や権力の裏側のようなものが透けて見えています。一方には夢幻的な道真がいて、もう一方には三兄弟とその親父たちのリアルな人情話がある。道真公の物語なのだから舞台は平安時代なのですが、それでもこの芝居がやはり江戸風であるのは、ひとつには物語の骨組みにこういう結節点みたいなものがあるからかもしれません。 私はそれほど江戸文化に親しんでいるわけではありませんし、詳しくは知らないのですが、つねに人形浄瑠璃には「批判的」な機微というか、時にはあからさまな批判的観点が盛り込まれているように思えるのは、このような江戸時代独特の「民衆的」視点が書き込まれているからかもしれません。 戦乱もなく長く続いた江戸の「平和」は、学問などとは縁のない民衆を含めた誰の目にも、物事の一面をはっきりと見せしめたところがあったのかもしれないとも思います。自分たちの享受している平和が何か悪いことででもあるかのように戦争の準備をやりたがったり、思慮もなくごちゃごちゃ言っている人たちが現在も大勢いますが、長く続く平和にも、当たり前ですが、平和なりに良いところがあったのだと言っておきましょう。

では、この物語は三兄弟の話に尽きるのでしょうか。それでもやはり、それだけでもないように思えるのです。文楽には珍しいことではないとはいえ、子供がかなり理不尽な仕方で首を刎ねられて殺されるからです。父の計らいによって、そして敵ではない寺子屋の先生の手によって。父と先生の思惑は、そうとも知らずに奇しくも一致してしまうのです。いやはや、なんとも言えません。しかも殺される子供は、父親である松王丸の思いと立場を理解するかのように、殺される前に「につこりと笑ふて」首を差し出たというのです。 この段は勿論ひとつの山場ではあるのですが、その証拠に、ハンカチで涙を拭う女性が会場にもちらほら見受けられました。だがこれは文楽の独特の視点というよりも、たぶんわれわれの視点なのです。人形は残酷です。われわれのヒューマニズムを何が何でも拒絶しているように思えるときがあるからです。何もかもわれわれの流儀で考えることはできないのだと思います。人形浄瑠璃に関しても、このことを安易に受け流すべきではないと私は思っています。

この『菅原伝授手習鑑』という作品、名作の誉れが高いのはうなずけます。これは私の考えですが、名作には出口や入口がいくつかあるからです。主人公という点ひとつを取っても、いま述べてきたように、この浄瑠璃には出口や入口が幾つかあることがわかります。 これは破れ目です。物語の破れ目です。物語の結界が破れているのです。破れた物語は必ずや手袋を裏返すように裏返されます。全体的に見れば、奇妙なトポロジーです。そこから何が、誰が出たり入ったりするのでしょう。それは選り取り見取りです。 怨霊であったり、忠義であったり、裏切りであったり、役人批判であったり、梅や桜の咲く季節であったり、殺される子供、あるいは寺子屋のかわいらしくも出来の悪い悪ガキであったり、武士の妻たちの覚悟と悲しみであったり、権力というものの馬鹿ばかしさであったり、超自然的な幻想であったり、荒唐無稽であったり、身も蓋もないリアリズムであったり、虚であったり、実であったり、虚実、同時に両方一緒であったり、いろいろです。これは芸なのでしょうか。そうは言っても、このことは芸術以前の事柄のようにも思えるではないですか。

これが芸であるのは、まず第一にまさしくこれが浄瑠璃であるからだと私は思っています。今回の公演は竹本住大夫師の引退公演でもあったので、名人の語りを聞くことができて、余計にそれがはっきりとわかりました。 住大夫さんの、何と言うか、繊細な声、小さくかすれるような、消え入るような、物語の向こうにはもう何も無いかのような声、そして突然、堰を切ったように絞り出される最後のダミ声(失礼なことを言ってしまいました)に聞き入りました。浄瑠璃だからというだけではなく、何か独特の、たぶん名人にしかできない(どう言えばいいのだろう)節回し、ふと、そこから外れるように、はぐらかすように、不意にどこか別の所を向くかのような、揺れるような、震えるような、もはや音程(私は物書きだけではなく音楽もやっているので、音程などという無粋な言葉を使う悪癖をお許し願いたい)をつかむことができない言葉の語尾の破れのようなもの……。 住大夫さんの声自体が破れていたのです。とはいえ、あえて言うなら、この声はさきほどの物語の破れ目から出て来たのではないように思えました。そうではなくて、実際、この声の破れから、なんと物語自体がぞろぞろと出て来ていたのです。

■鈴木 創士(すずき そうし)
フランス文学者、批評家、作家。音楽ユニットEP-4のメンバーでもある。1954年生まれ。主な著訳書に『アントナン・アルトーの帰還』、『魔法使いの弟子』、『中島らも烈伝』、『ひとりっきりの戦争機械』、『サブ・ローザ』、『ザ・中島らも』、エドモン・ジャベス『問いの書』『ユーケルの書』『書物への回帰』『歓待の書』、フィリップ・ソレルス『女たち』、アントナン・アルトー『アルトー後期集成』(共同監修)、ジャン・ジュネ『花のノートルダム』、アルチュール・ランボー『ランボー全詩集』など。兵庫県在住。

(2014年4月14日『通し狂言 菅原伝授手習鑑』(第二部)観劇)