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国立文楽劇場

大阪人なればこそ

有栖川 有栖

二十年ほど前、生まれて初めて観た文楽が『心中天網島』だった。人形の可憐な芝居、情感と威厳に満ちた大夫の語り、そこに絡む太棹三味線の多彩な表現。どれをとっても新鮮で、床の盆がくるりと回るのさえ珍しく面白かった。

といって、ただちに文楽ファンになったわけでもない。言葉が難しいから床本を手にしたまま観劇するのはいいとして(当時は舞台上に字幕が出なかった)、ふだん馴染んでいる演劇や映画・ドラマとは作劇法が色々と違っているため、理解しかねるところも多々あった。
 「治兵衛という男、あかんやっちゃな。主役のくせに、何も自分で決断せんと流されるだけやないか」
 「おさんは気がよすぎる。見てられん」
 「小春は治兵衛のどこに惚れたんや? ええとこなしやろ。作者が全然描いてない」
 「すべてをなくしたんやから、死んだつもりで二人してゼロから出直せんものか」
などと突っ込んだものだ。
 とはいえ魅力的だったのは確かで、「本当の面白さが知りたい。何度か観てみよう」と思って劇場に足を運ぶうちに、文楽が心にしみ渡っていった。だから、『心中天網島』は私にとって記念すべき演目で、思い出の狂言だ。

私の文楽ファンへの第一歩はこういう様子だったのだが、それだけならよくあるパターンだろう。オペラだろうがアメリカンフットボールだろうが、最初から面白さをまるまる理解できることは稀で、いきなり心を鷲掴みにされるのではなく、何度か観ているうちに「心にしみ渡って」いく場合が多いのではないか。ある程度以上の深みのあるお楽しみは、そういうものだ。

とはいえ、「理解しかねるところも多々あった」と言いながら、文楽には他のものと違う何かがあり、心を撫でられるような感触があった。それは何か? 考えると、すぐに思い当たった。大阪弁で語られていたことだ。
 「言葉が難しい」と先に書いたが、現在は使われていない古い言葉や言い回しにもっと戸惑うかと思いきや、ほとんど直感的に理解できた。それは、とりも直さず浄瑠璃が大阪弁だったからである。抑揚や語感でニュアンスが掴めるのだ。「心を撫でられるような感触」とは、取りも直さず大阪弁での語りに対する親しみだった。

文楽はそもそも大衆娯楽であるが、時代を経て古典作品となったため、現代劇に比べるとどうしても取っつきにくい。ハードルがある、と感じる人もいるだろう。しかし、実はそのハードルは大阪人あるいは関西人にとってはさほど高くない。正確に現代語訳はできずとも、肌で聴けるわれらの言葉なのだから。
 おさんの「泣かしやんせ泣かしやんせ」
 小春の「治兵衛様早う出たい」
 そんな切ないセリフだけでなく、敵役・太兵衛の「一聞かしてんか一を」や、幼い勘太郎の「とゝ様の寝てござる炬燵へあたつて暖まりや。この阿呆めどうせう」といった小さなセリフまで、するりと胸の内に滑り込んでくる。
 歌舞伎の雄々しい名セリフ「こいつぁ春から縁起がいいわぇ」(三人吉三廓初買)や「知らざあ言って聞かせやしよう」(青砥稿花紅彩画)と比べれば、文楽がどれほど大阪・関西に近しいものか明らかだ。

もちろん、文楽が真に味わえるのは関西人だけ、というわけでもない。東京での文楽の人気は昔から高いし、地方公演はもとより海外公演でも拍手と喝采を浴びている。われらの言葉が遠く離れた土地の人たちに伝わっているわけで、そう考えるとこれがまたうれしい。
 私のファースト文楽が『心中天網島』だったのは幸いだと言える。大阪が舞台の世話物だから、情感あふれる大阪弁が強く意識されたのだ。

言葉だけではない。『心中天網島』を観るにあたって、大阪人には特に大きなアドバンテージがある。土地勘だ。
 紙屋治兵衛の店があるのは、天満の天神さんのすぐ近く。小春を抱えた紀の国屋や物語の舞台となる河庄・大和屋があるのは北新地。現代の観客にも「あのあたりだな」と判りやすい。三百年以上もの時を隔てているのに、「他のどこでもない大阪の物語」なのが感じられる。
 それしきは些細なことだとして、土地勘が特権となるのは「道行名残りの橋づくし」だ。死に場所を求めて、小春と治兵衛は大川(当時の淀川)に沿って東へ東へと歩き、どこまで行ってもキリがないし夜が明けてしまうから、と京橋からほど近い大長寺で足を止める。そのルートを、大阪人ならほぼ正確にイメージできる。

大長寺や今はなき蜆川について知らなくても問題なし。北新地から大江橋のかかる川沿いに出て、天満橋を過ぎて京橋あたりまで歩いたのだな、ということは判るはずだ。
 歩きだすのは丑三つ時で、「最期所」にたどり着いたのは寺の鐘が鳴って「はや明け渡る晨朝」。季節は十月だから、夜が明けるのは午前六時ぐらいだ。地下鉄や京阪電車なら五駅ほどの距離を、四時間近くかけて歩いたことになる。どんな足の運びだったか、土地勘があれば想像しやすい。

天満の手前(天神橋のあたり)で「北へ歩めば、我が宿をひと目に見るも見返らず」。わが家の方角がまともに見られない治兵衛の罪悪感や後悔が、ひりひりと伝わってくる。現在の天満橋駅がある八軒家あたりで語られる、「数も限らぬ家々を、如何に名付けて八軒屋」という洒落の味も苦い。その次にくるのが、「この世を捨てゝ行く身には聞くも恐ろし天満橋」。私は、この一文の凄さ、哀れさに小さく震えてしまうほどだ。
 「橋づくし」という名のとおり、この段には橋の名前を絡めた洒落言葉が次々に出てくる。最も鮮烈なのは、天魔にかけた前記の天満橋だが、その名と場所をよく知っていればこそ、「この災難に大江橋」も大阪人の耳に残るだろう。

これは後日に知ったことだが――現在、文楽ではこの段はかなり縮めて上演されていて、近松門左衛門の原作ではもっと多くの橋が出てくる。天神橋‐菅原道真の連想から「たった一飛び梅田橋」「あと追ひ松の緑橋」「別れを嘆き悲しみて後にこがるる桜橋」と並べるなど。最後に渡る橋、「妙法蓮華京橋」もインパクトがある。原作のままでは上演時間が長くなりすぎるということらしい。原文どおりにした方が「橋づくし」の感じがよく出るのだが。

ともあれ、このように『心中天網島』は土地勘がある者にはより迫ってくるものがあり、大阪人は儲けものなのだ。その雰囲気が私を文楽に導いてくれたのかもしれない。
 四月公演で久しぶりにこの狂言を観劇した。さすがに初めての時よりはずっと深く味わったつもりだ。
 言葉が頭に入っているので、桐竹勘十郎さんの小春と吉田玉女さんの治兵衛の道行では、人形に集中できた。とぼとぼと堀川の橋を行く二人。そこで治兵衛が洩らすひと言。
 「もうこの道が冥途か」

生々しくも夢のような台詞で、舞台が幻想の空間に一変した。よくこんな台詞が浮かぶものだ。まるで自分が死への道を歩いているような気持ちになり、川の流れに逆らって身も心も東へ東へと運ばれていくのを感じた。幕切れは、哀れの極み。文楽を好きになってよかった、と思わずにいられなかった。

その観劇の一カ月ほど後。造幣局に行く機会があった(目的はもちろん両替ではなく、見学です)。行ったことがなかったので場所を地図で確認しているうちに、「大長寺って、このへんだったのでは?」と思って調べてみると、国道1号線の東野田交差点のすぐ北にあった。もともと網島の大長寺は少し南の藤田美術館の場所にあったが、百年ほど前に移転したのだ。

造幣局への道すがら立ち寄り、小春治兵衛の比翼塚を拝んだ。こんなふうに名作ゆかりの地にふらりと行けるのも、大阪人なればこその特権だろう。

■有栖川 有栖(ありすがわ ありす)
小説家、推理作家。1959年生まれ。同志社大学法学部卒業。1989年『鮎川哲也と13の謎』の一冊、『月光ゲーム Yの悲劇'88』でデビュー。2003年『マレー鉄道の謎』で日本推理作家協会賞、2008年『女王国の城』で本格ミステリ大賞受賞。主な著書に、『学生アリス』シリーズ、『作家アリス』シリーズなどがある。2013年4月、大阪を舞台にした『幻坂』を刊行。有栖川有栖創作塾の塾長も務める。大阪府在住。

(2013年4月22日『伽羅先代萩』『新版歌祭文』『釣女』、26日『心中天網島』観劇)