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国立文楽劇場

文楽に“見えない世界の真実”を見る―『心中天網島』と『花上野誉碑』

金水 敏

 

 令和4年夏休み文楽特別公演の第2部と第3部では、ある意味性格が正反対の演目を鑑賞し、文楽の豊かな振れ幅を実感しました。それは第2部『心中天網島』と第3部『花上野誉碑』(「志渡寺の段」)です。

 『心中天網島』は、言わずと知れた近松門左衛門の世話浄瑠璃のなかでも、傑作中の傑作と呼び声高い作品ですが、今回もその精緻な構成と手練の詞章、そして繊細で情感豊かな人形の表現をじっくり味わうことができました。抜き差しならない恋に落ちて今日、明日にも心中するかというところまで追い詰められた紙屋治兵衛と遊女小春、二人を助けようと手を尽くす女房おさんとその兄孫右衛門、夫の手前、とにかく治兵衛に新地通いをやめて欲しいおさんの母(治兵衛の叔母でもある)、もはや治兵衛を見限り、嫁入りの資産とともにおさんを引き離すことしか頭にないおさんの父五左衛門、小春を手に入れることで治兵衛を見下したい江戸屋太兵衛と、それぞれの立場と思いが時計仕掛けのように精妙にかみ合い、どうしようもない悲しい結末へとなだれ込む様が豊竹咲太夫、鶴澤燕三、桐竹勘十郎、吉田玉男ら三業の働きによって見事に描き出され、見る者の心を締め付けます。もし太兵衛というライバルがいなかったら、もしあのタイミングで五左衛門が紙屋に来なかったら、もし大和屋で孫右衛門が治兵衛を見つけて引き留めていたら、といくつもの「もし」が頭をよぎりますが、それは思っても詮無いこと、近松門左衛門が組み上げた運命の歯車は寸分違わずぎりぎりと二人の死に向かって廻り続けるしかないのです。

 第3部『花上野誉碑』「志渡寺の段」でも一人の死が描かれますが、それは病気によって口がきけない民谷坊太郎のためにする、乳母お辻の必死の祈りの末の死です。お辻は坊太郎の病気平癒を金比羅大権現に願って穀断ちをし、果物で命をつないでいる状況です。坊太郎の父、民谷源八は出世を妬む森口源太左衛門によって闇討ちにされていて、坊太郎は密かに源太左衛門を仇と狙い、源八の妹婿である槌谷内記、志渡寺の方丈らも陰に日向に坊太郎に救いの手を差し伸べているのですが、源太左衛門の暴虐は坊太郎にも及び、献上の桃を盗んだ廉であわやお手討ちかという危機に陥ります。そこは方丈の機転によって辛くもしのぎますが、坊太郎と二人残されたお辻は盗みを働いた坊太郎をなじって泣き崩れます。坊太郎は砂文字で、桃を盗んだのは果物しか口にしないお辻のためを思ってのことと伝え、お辻はそれを見て感激し、もはや我が身を犠牲にして金毘羅大権現に願を届けるしかないと、自らの体に刀を突き立て、一心不乱に祈りをささげます。その形相のものすごさに、坊太郎はおろおろするばかりです。これでも願は叶わないのかとお辻が嘆いていると、そこに現れた内記が坊太郎を促し,坊太郎はお辻の後生のために経文を唱えます。実は病と見えたのは内記が源太左衛門を欺くために坊太郎に話すことを禁じていたためと明かされ、お辻は自分の必死の祈りは無駄だったかと嘆くと、内記は、坊太郎の武芸や勉学の格段の上達はお辻の祈りが通じたからであり、その成果をとくと見よと、お辻の前で坊太郎と内記の門弟二人による剣術の手合わせをさせます。坊太郎が二人を易々と打ち負かしたのを見ると、お辻は安堵して命果てます。

 今私たちがこの「志渡寺の段」を見ると、展開や説明が唐突で無理があるように感じられる点、および演出が誇張されすぎていてで滑稽と紙一重、と感じさせられる点が数多くあります。唐突・無理という点では、内記の門弟、数馬・十蔵が寝返り、内記に毒を盛ると見せかけて実は内記の策略であったと種明かしする展開、お辻の死まで引き起こす坊太郎の病気もまた内記の仕組んだことであったとする点、お辻の祈りが納受されたとする証拠として内記・方丈の霊夢の一致を持ち出す点、瀕死のお辻を介抱することもなく、その眼前で坊太郎と門弟の剣術試合を見せる点、雲形に乗った金比羅大権現の金の御幣が唐突に出現するなどの点です。誇張・やり過ぎという点では、源太左衛門の「むむ、はは、むむ、はは」という大笑い、お辻の逆髪立ち、眼血走る有様で「南無象頭山金毘羅大権現、南無象頭山金毘羅大権現」と祈る場面などがそれに該当するでしょう。これに対して『心中天網島』では、不自然と感じさせるような展開・説明は一切無く、的確な台詞と最小限の語りによる心理描写によって、治兵衛と小春が死なねばならなかった理由が自然と胸に入ってきます。それでは、『心中天網島』こそが間違いのない名作であり、「志渡寺の段」は今日ではもはや見る価値のない前近代的な遺物なのでしょうか。そんなことはない、と二つの舞台を見て、むしろわたしは確信しました。

 まず、誇張ややり過ぎと一見して感じられる点は、文楽を鑑賞し慣れた方々ならよくお分かりの通り、実は「文楽あるある」とでもいうべき、お馴染みの演出の数々です。それは芸としての人形浄瑠璃の見せ場を観客に存分に楽しんでもらうために積み重ねられてきた工夫の数々であり、三業一体となって繰り広げる最大の見せ場なのです。今回拝見した公演で言えば、源太左衛門の悪辣な人物像の表現は藤太夫、藤蔵、玉志の、そしてお辻の必死の祈りの表現が呂太夫、清介、清十郎の強力なタッグによって見事に舞台に花開いていました。だからこそ、観客の心からの拍手が自然にわき上がるわけです。

 また、無理な理屈や唐突な展開と見えてしまうのは、「真実は見えない世界にこそある」という人々の願いが素直に表現されているから、と言えるのではないでしょうか。人は誰でも必ず死にますが、その死が無駄ではなく、見えない世界の倫理と論理によって意味づけられ、評価されるのだと信じることができれば、理不尽な運命をも呑み込んで、未来へと希望を繋ぐことができます。お辻は自らの命を犠牲にして金毘羅大権現に祈りを捧げましたが、その祈りが確かに聞き届けられた事実は、夢という見えない世界からのメッセージによって明らかになります。空から舞い降りる金の御幣は、ひょっとしたらお辻にだけ見える金比羅大権現のメッセージを、観客にも分かりやすく表現したものなのでしょう。現実世界で現代の私たちが「見えない世界からのメッセージ」をたやすく信じてしまうと、それは“カルト”でしかないのですが、文楽劇場のなかではこの豊かな精神世界にどっぷり身を任せて、技芸員の名人芸に浸っていればいいわけです。これこそは、古典芸能鑑賞の最大の醍醐味の一つと言えるでしょう。

 一方で『心中天網島』は、“心中”という見えない世界での幸せを願う二人によって引き起こされる事件ではありますが、舞台の上で展開するのは、この現実の世の倫理と論理がきしみ合うさまであり、だからこそ近代人である我々には素直に受け入れて感動することができます。これもまた古典芸能の到達点の一つではありますが、むしろ今日、傑作として疑問の余地のない近松門左衛門の世話物の数々も、近世の人形浄瑠璃の歴史の中では決して不動の人気を誇ったわけではなく、むしろいったん忘れられ、近代の再演で知られることとなったものもあると聞きます。近松門左衛門の冷徹な視線は、あまりにも時代を突き抜けて現代的であったのでしょう。作者は「見えない世界」の幸せなど、本当は信じていなかったのではないか、とすら私には感じられます(外題に「天網恢々疎にして漏らさず」を忍ばせるのも、晩年の作者の心境の変化、とプログラムには記されています)。しかし、死にゆく二人に寄せる作者の哀切の思いはあくまで優しく、それは例えば「道行名残の橋づくし」に纏綿と表現されているようです。今回の公演で言えば、太夫、三味線らによる美しい詠唱に乗せて演じられる勘十郎の小春、玉男の治兵衛の所作の数々、そして静かに移り変わっていく大坂の夜景がしみじみと美しいものであったことを付け加えておきます。

 第三部『紅葉狩』は、上記二作とはまた違った文楽の楽しさが詰まった、華やかで楽しい舞台でした。ぜひとも歌舞伎版と見比べて楽しみたいものです。

 

■金水 敏(きんすい さとし)
放送大学大阪学習センター所長、大阪大学・大学院文学研究科名誉教授、日本学士院会員。1956年、大阪生まれ、兵庫県在住。専門は日本語史および「役割語」研究。著者に『日本語存在表現の歴史』(ひつじ書房、2004。新村出賞受賞)、『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』(岩波書店、2003)、『〈役割語〉小辞典』他。

(2022年7月18日第二部『心中天網島』第三部『花上野誉碑』『紅葉狩』観劇)