文楽かんげき日誌

祐仙押し

髙田 郁

 その作品を観るのは、六年ぶりでした。夏休み文楽特別公演、第二部。演目は「生写朝顔話」です。
 まだご覧になっていないかたに、大まかなあらすじをご紹介……したいのですが、これが何とも難しい。お家騒動を背景にした、すれ違う男女の恋物語、と簡単にまとめてしまって良いものか否か。長いストーリーをさらに複雑にするのは、ヒロインの名が深雪から朝顔へ、ヒーローの名が宮城阿曾次郎から駒沢次郎左衛門へと変わることもあるでしょう。
 乱暴な説明をお許し頂けるならば「深窓の令嬢がイケメンのプリンスと恋に落ち、『あのひとと一緒になれないなんて』と家を飛びだして、奈落の底へ落ちるものの最後に光明を見出す物語」ということになりますでしょうか。
 六年前の観劇時、第二部で描かれたのは「浜松小屋の段」まで。ヒロイン深雪が放浪の果てに乳母と再会、乳母浅香は自らの命と引き換えに深雪を助けるところで、続きは第三部へ持ち越されていました。当時、どうしても第三部の観劇の都合がつかず、心を残して劇場を出たため、物語の顛末を知らぬままでした。
 正直に申し上げます。私はどうにも恋する乙女の深雪の思慮のなさに、腹が立ってならなかったのです。娘に家出されてしまった両親、とくに心労のあまり亡くなってしまう母親や、深雪を探し求めて最後は命を落とす乳母の方に、心が寄ります。深雪の胸ぐらをつかんで、「泣けば済むと思うなよ!」と小一時間、説教したいほどでした。
 今回、演目がその「生写朝顔話」と知って、「これは正直、きついのではないか」と思いつつの観劇になったのです。今、これをお読み頂いているかたの中にも、「そんな話なら観ない」と考えられるひともいらっしゃるやも知れません。
 けれど、心配ご無用! もとより、太夫や人形遣い、それに三味線の皆さんの魂のこもった演目です。加えて、チャリ場(笑いの多い場面)の見事なこと。ええ、私、きっぱりと断言します。観ないと後悔するレベルで、お薦めでございます。わけても「嶋田宿笑い薬の段」の登場人物、医者の萩の祐仙の素晴らしいことと言ったらもう!
 ヒーロー毒殺を企てる医者が、その祐仙です。茶の湯にしびれ薬を入れて、ヒーローに飲ませるはずが、旅籠の主の機転で、毒薬が笑い薬にすり替えられていました。何の因果か、祐仙、それを呑んで笑い転げる、という筋立てです。悪役のはずが、いやもう、この祐仙の愛らしいこと、愛らしいこと。
 私は職業柄、江戸時代に描かれた絵を数多く見ます。いつぞや、勧進相撲に夢中になる観客を描いた絵の中に、柱に抱きつく男を見つけました。「いくら何でも、こんな奴は居ない。いい大人なんだから」と思ったのです。しかし、今回、「毒殺が成功したら、もっとたっぷり褒美をもらえる」と、浮き浮きした祐仙が、ごろにゃん、と猫を思わせる仕草で柱を抱く場面がありました。もう、その瞬間から私は祐仙に釘付けとなったのです。宇治川の蛍狩りで阿曾次郎を見初めた深雪もかくや、と思うほどでした。
 茶の湯の点前はもう神業、そして笑い転げる姿も最高です。笑い過ぎて苦しくなった祐仙、藪医者とはいえ、一応は医者のくせに「医者を呼んでくれ、早う医者を」と大騒ぎ。咲太夫の熱演も必見のこの段、「観て! みんな、観て!」と大声で訴えたいほどなのです。
 今作は、一組の男女の悲恋に巻き込まれて命を落とすひとが複数人いる、という意味で、中々に辛い物語ではあります。けれど、祐仙の存在が観る側の気持ちを引き寄せ、大いに笑わせてくれて、存分に堪能させてもらえます。また、ある場面では、「密です」何てプラカードが登場したりして、観客をホッとさせる演出も本当にチャーミング。
 コロナ禍は終わりが見えず、不安な日々が続いています。こんな時だからこそ、祐仙に会いに是非、国立文楽劇場へいらしてくださいませ。

■髙田 郁(たかだ かおる)
兵庫県宝塚市生まれ、中央大学法学部卒業。 漫画原作者を経て2008年に「出世花」にて時代小説に転身。著者に「みをつくし料理帖」シリーズ、「銀二貫」、「あい 永遠に在り」などがある。新シリーズ「あきない世傳 金と銀」最新刊となる第十一巻「風待ち篇」は近日発売予定。

(2021年7月28日第二部『生写朝顔話』観劇)