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国立文楽劇場

ありがとう、簑助師匠

森田 美芽

  「吉田簑助引退」のニュースが突然舞い込んできた。その挨拶を見て、涙が出た。「人形遣いとして、持てる力を出し尽くした」。6歳で入門してから、なんと81年に及ぶ芸歴を、この公演で納めるという。文楽ファンならずとも、大きなショックを受け、これを見逃すわけにはいかない、と思ったのではないだろうか。
 最後の役は『国性爺合戦』「楼門の段」の錦祥女。緊急事態宣言のため、1日千穐楽が繰り上がり、座席は全てソールドアウト。拍手の量が違う、そして期待の空気が違う。その中で、「平戸浜伝いより唐土船の段」では息の合った掛け合いが爽やかで、「千里が竹虎狩りの段」では虎が愛嬌ある仕草で場内を沸かせたりと順調に進み、「楼門の段」で観客の目は一点に注がれる。
 楼門の幕がさっと左右に引かれ、錦祥女の登場。大きな拍手。誰もが待ち望んでいた、この時。将軍の妻としての威厳、辺りを払う風情、品格と、それでいて嫋やかな美しさ。両親を失ったという困難にも負けず、大家の嫁となった芯の強さがうかがわれる。最初、老一官が父と名乗った時も、心動かされながらも証拠を求める冷静さ。そして父の絵姿と鏡に映る顔を見比べ、まぎれもなく父とわかったとき、「三千余里のあなたとやこの世の対面思ひ断へ、もしや冥途で逢ふこともと死なぬ先から来世を待ち、嘆き暮らし泣き明かし二十年の夜昼は、我が身さへ辛かりし」という述懐の痛ましさ。ただ一人世を渡る、家族と離れた孤独のうちに、彼女がこの国でどのような思いで生きてきたかが伝わる。楼門の下から父は見上げ、娘は上から見下ろす。一別よりの初めての対面が胸を震わす。
 自身はほとんど動かず、しかし袖を払う、わずかに肩を下げる、鏡を取り上げる、絵と見比べる、そうした仕草の一つ一つで、生きた人間として伝わってくる。言葉を失う至芸。時間が進むにつれ、会場の雰囲気も「これが見納め」という思いと、「最後まで無事に」という思いに変わる。そして母が自ら縄にかかって城内に入ることを申し出、錦祥女も「堪へかぬる嘆きの色を押し包み」、夫を説得することを約束する。そこにはもう、命を懸ける覚悟が見える。この後の、義を立てるための悲劇の予兆が見える。
 再び幕が閉じられ、大きな拍手で劇場全体が包まれる。そして定式幕が引かれた後、特例の引退挨拶が行われた。鶴澤清治師匠から花束を受け取り、それを、観客に向けて、2度、3度とかざす。どんな思いで、と思った時、涙が溢れて見えなくなった。

 私の25年に亘る文楽観劇歴の中も、簑助師の舞台姿は忘れがたい。『曾根崎』のお初、『天網島』の小春、『冥途の飛脚』の梅川、『夏祭』のお辰、『新版歌祭文』のお染・おみつ、「帯屋」のお半、『廿四孝』の八重垣姫、『千本桜』の静御前とお里、『忠臣蔵』のおかる、『妹背山』のお三輪・・・圧倒的に女方が多いが、「桜丸切腹」の桜丸や『新薄雪物語』の奴妻平、『冥途の飛脚』の忠兵衛など、印象的な立役もあげられる。だた、簑助師の女方には、他の人とは決定的に違う何かがある。
 人形の場合、生身の人間が演じるのと違い、生々しさがないことが魅力である。あくまで浄瑠璃の詞章に生かされる。しかし簑助師の場合、人形自体が生きているかのように、それとは異なる、人形でなければ表現できないエロチシズムがあることを感じる人は多い。そう、人形なのに、いや、人形だからこそ、身体に直接感じるような生々しい感覚ではなく、それでいて、確かに私たちの中に感覚として共鳴するもの。たとえば、十四歳で妊娠したお半の、子どもでありながら、女として身体は成熟しているという危うさ。本人は自覚しているのかいないのかわからない、にも拘らず長右衛門を巻き込んでしまう、危うい色気。あるいは、遊女としての情け以上の結びつきを感じさせる梅川の色気。崩した着物の衿が、それだけで人形にはない乳房の存在を感じさせ、忠兵衛の執着と狂気を納得させる。あるいは、お初の徳兵衛に対する必死さの中にある生と死のないまぜの情念。足を徳兵衛の喉笛に当てながら、この人と共に死ぬしかない、と決意する、半ば陶酔したような表情。あるいは、八重垣姫の、恋する人と瓜二つの男を目前にした途端の変化。「後とは言わず、今ここで」という恥じらいの内に秘めた、女としての情念。
 それらに共通するのは、捉えがたい「女」という存在の不思議さだ。もっと言えば、女という共通の性的存在であるとともに、一人ひとりが個性のある存在であり、理性では捉えきれない余剰を持つ、つまり理解を超えた存在であること。その不思議さを、逆に人形という自分の意志を持たないものを通して、徹底的に「女性」を再構成した。その首の角度、肩を落とす風情、手の位置、その一つ一つが、技術的に計算され、洗練され、磨き抜かれた表現として提示されるとき、私たちの内に、無意識に眠っていた感覚、単なるエロチシズムというよりは、身体そのものの持つ捉えがたさ、それと共存している自分の不確かさの中に、新たにその「何か」を見出すからではないだろうか。
 簑助師の「女」は、生身の女性を超えた「女」そのものの理念が結晶している。だから、強い意志や理性的な判断を持ちつつ、なお愛する情熱も、他者に求めない献身も、すべてを押し流すような激しい情念も、忠義を頭では理解していながら子の死に涙する悲しみも、そうした多面性を生きる人として、生きた感覚として感じられたのではないだろうか。
 それでいくと、今回の『国性爺合戦』の錦祥女という役割は、2つの祖国、夫と父に引き裂かれた女性の悲劇であり、夫と義弟のクーデターの計画の故に犠牲にさせられ、しかもそれを自発的な死とされる二重の悲劇でもある。単なるエキゾチズムや、日本の優越性を喜ぶというほど単純ではない我々にとって、これほど感情移入しにくい物語はない。にも拘らず、品格ある女性の中にある一人の人間としての孤独、悲しみをこれほどリアルに感じさせ、むしろ権力闘争と自分の名誉にこだわる男たちとは異なる、凛とした高雅な透明ささえ感じさせる。あらゆる汚れを寄せ付けない女性の高貴さと精神性。これもまた、先に述べた簑助師の女性性の表現の、もう一つの極致ではなかったかと思う。
 
 簑助師の人形を見られたことは、私たちの幸福である。人形浄瑠璃がこれほどまでに人間の深淵を表現しうるということを、この目で見、感じることができたのだから。そしてそれが、文楽という三業一体の芸能でなければ成立しなかったことも。太夫の語りが命を吹き込み、三味線がその思いを伝える。人形はそれを受けて、初めて命を得る。この三者の息もつかせぬ張り合いでこそ、このようなぎりぎりの、人形による表現が可能となる。
 そして何より、簑助師が16名の門弟を育て、自身の芸を生きた模範として見せただけでなく、亡き先達の名を再興させ、文楽の枝葉をさらに広げる働きをしてきたことを特筆すべきだろう。歌舞伎と異なり、親子の血のつながりに頼らない文楽では、芸は一代、一人ひとりが師匠の芸を受け止めつつ、独自の芸境を開いていく。当代の桐竹勘十郎師、豊松清十郎師を初め、その芸を伝えるのみならず、さらなる新しい時代に向けての芸を作り出していく。生きた手から手への継承を成し遂げてこられた。 
 芸に生き抜き、命をかけて表現し、弟子を育てた簑助師匠。あなたには、ありがとうございました、との言葉しかありません。そしてあなたが命がけで守られた文楽の火をともし続けることができるよう、そしてこれからの文楽を支える名人となる方々の芸のいまとこれからを見守り、共に喜んでいくことができるように、私たちはずっと文楽を見ていきます。
 簑助師匠、本当にありがとうございました。

■森田 美芽(もりた みめ)
大阪キリスト教短期大学前学長・特任教授。専門は哲学・倫理学 大阪大学大学院博士(文学)キリスト教と女性と文楽をテーマに執筆を続ける、自称「大阪のおばちゃん哲学者」。

(2021年4月5日第三部『傾城阿波の鳴門』『小鍛冶』、
10日第一部『花競四季寿』『恋女房染分手綱』、
24日第二部『国性爺合戦』観劇)

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