国立文楽劇場

かしら「男子役」の兄弟たち

黒澤はゆま

最近、岸田國士の「東京朝日新聞の劇評」というテキストを読んだ。

 

劇評の意義について記した箇所があり、なかなかの名文だったので引用する。

 

『先づその芝居を観に行く前に読めるやうにすることが第一である。次に、その芝居を観てなくても、面白く読めるやうにすることが第二である。更に、その芝居を観に行きたく、或は観に行きたくなく(?)するやうに書くことが第三である。最後に、その芝居を観た時、その舞台から「何を感ずべきか」を教へ示すことが第四だ』

 

かんげき日誌のお仕事は劇評といえば劇評になるかと思うが、「この条件を果たせているか?」と顧みると赤面する他ない。

 

一番簡単そうな第一ですら観劇の都合がつかず、おまけに遅筆でなかなか(というか本稿すら間に合いそうにない)。第二は……判断は読者の皆様にお任せする。第三は観る気を失わせるわけにはいかないので、観に行きたくなるように全力を尽くしてきたつもりです。

 

とにかく、全部は無理でも一つか二つは拾えるような文章を心して書いていきたいものだが、第四の「何を感ずべきか」は岸田國士のような大芸術家だから言えることで、私のような三文文士が担うには荷が重いようである。

 

そもそも、何か感じたのならそれはもうその人にとっての真実で、他人がとやかく言えることではない、見た人の勝手だろう。

 

なので、ここは「何を感ずべきか」から、一歩か二歩後退し、「自分が何を感じたかを語ることで、読者なりの感じ方に至るための一助になる」くらいにしておこう。

 

さて、今回観劇した『恋女房染分手綱』で、私が何を感じたか?

 

まず、馬方三吉のかしら「男子役」を見た時、「あっこれは」と身構えてしまった。

 

何故なら、文楽でこのかしらが割り振られる名有りの役は、大抵、悲惨なことになるからだ。

 

私が八年間、観劇してきたなかで、男子役が出た演目とその最後をまとめると、次のようになる。

 

『伽羅先代萩』千松:鶴喜代君の身代わりに毒入りの菓子を食べさせられたうえ懐剣でなぶり殺しになって死亡

『大塔宮曦鎧』力若丸:若宮の身代わりとして祖父に切られて死亡

『菅原伝授手習鑑』一子小太郎:菅秀才の身代わりに首を討たれて死亡

『源平布引滝』倅太郎吉:平家の侍である祖父を討ち取り、駒王丸(のちの義仲)の家臣となる

 

皆、忠義のためという同じ理由で死んでおり、生還したのは『源平布引滝』に出てくる倅太郎吉だけ。生還率25%。進撃の巨人の調査兵団ほどではないが、104期訓練兵上位10名よりは過酷だ。

 

私事だが、自分に子供が出来て、幼い子供が死ぬシーンが苦手になった。映画やドラマで、そんな場面が出てくると、見るのを止めてしまうこともある。「子殺しの話に込められたもの」で書いた通り、物語上の意義は理解しつつ、今回も子供が犠牲になる話だったら嫌だなぁと思ったわけだ。

 

だが、『恋女房染分手綱』の馬方三吉は、同じかしらを持つ兄弟たちとは一味違うようだった。

 

一体、男子役が割り振られる子供というのは、健気だが従順過ぎる。劇中、内面が深堀りされることもないので、どういう子だったのかさっぱり分からず、話の都合だけで出てくる舞台装置のように見えることすらある。

 

だが、三吉は、吉田玉彦さんの若々しい力いっぱいの操演もあり、舞台の上で確かに生きていた。

 

背伸びして大人ぶる「道中双六の段」では新進の豊竹咲寿太夫さんが、切々と母を慕う「重の井子別れの段」では老練な豊竹咲太夫師匠が語るという配役の妙もよく、大人の部分と子供の部分がアンバランスな三吉のキャラがよく表現されていたように思う。

 

三吉は数えで十一という幼さながら、馬方という荒っぽい職につき、いっぱしに月代を剃って、たばこも賭け事もする、生活力に満ちた子供だ。ただ、その伝法なふるまいの幾らかは、年上の同輩と伍すためのポーズで、やっと会えた実の母、重の井に、矢も楯もたまらずすがりつくいじらしいところもある。

 

また、三吉は、苦労してきただけに世知に長けて、ちょっとずるがしこい。

 

重の井を介して調姫と自分は乳兄弟になるから、その縁で父親を出世させてくれと訴える場面には吹き出しそうになった。重の井が母だと言い出せないのはまさにその点で、調姫が馬方の三吉と乳兄弟であることが知れると、目前にせまった縁談に障りが出るのを恐れているのだ。

 

簡単にあらすじに触れると、かつて、重の井は奥方に奉公していた時、奥家老の息子与作と密通の罪を犯していた。だが、与作が冤罪を着せられたことで露見。与作は追放され、重の井は死罪になるところを、父の切腹によって赦免され、与作の願いもあって調姫の乳母となった。

 

そのため、他の演目の親たちと同じく、重の井も義理や忠義にがんじがらめにとらわれている。

 

だが、重の井と与作の醜聞の上で出来た三吉は、兄弟たちの轍は踏まず、彼自身の原則に従う。お父さんと、お母さんと暮らしたいという、当たり前の子供としての衝動を優先するのである。

 

結局、三吉は重の井に抱きしめられることはなく、ラスト、姫の慰みにと馬子唄を唄わされる。その姿は哀れだったが、泣きじゃくりながら声を張り上げる三吉は、健やかな強さを確かに備えているようだった。

 

また、馬子唄は、舞台上で己をほとんど語ることなく死んでいった兄弟たちに捧げる弔歌のようにも聞こえた。不幸な役ばかり担わされる男子役のかしらも、三吉によって少し報われ救われたのではなかろうか。

 

「あぁ、よい劇だった」

 

満ち足りた気持ちで劇場を後にし、帰る途中、ふと不安になって『恋女房染分手綱』の結末をスマホで調べた。調姫への忠義立てのために、三吉が殺されるというラストもおおいに有りうるからだ。

 

だが、結論だけ言うと、ちゃんと三吉は幸せになる。

 

よかったよかったというところで、さて、いかがだったでしょうか? 今回の私のテキスト、冒頭の岸田國士の条件を如何ほどクリアしていますかね?

■黒澤はゆま(くろさわはゆま)
作家。1979年生まれ。宮崎県出身。九州大学経済学部経営学科卒業。九州奥地の谷間の村で、神話と民話、怪談を子守歌に育つ。小説教室『玄月の窟』での二年の修行の後、2013年『劉邦の宦官』でデビュー。大阪府在住。

(2021年4月10日第一部『花競四季寿』『恋女房染分手綱』観劇)