国立文楽劇場

父の息子、母と息子

森田 美芽

 文楽では様々な親子関係が出てくるが、基本的に、親は子を愛おしむ。それだけ温かい人情の許される機会が少なかったのだろう。しかし大抵、悲劇に終わってしまう。封建時代の秩序として、子は親に従わざるを得ない。だから、様々な意味で子どもが犠牲になる物語は多い。
 文楽の初春公演を見て、時代物と世話物での親子関係、それも父と子、母と息子の関係が目を引く。どれも痛ましい「子別れ」である。

 第一部の『菅原伝授手習鑑』の四段目、「寺入りの段」「寺子屋の段」に出てくる小太郎は、7歳ばかりの幼さで、父の命で主君の身代わりの死を遂げる。
 「母様、わしも行きたい」と、出ていこうとする母親に縋りつく、それを「嗜めよ」と振り払う母。
 「寺入り」ではよだれくりや子どもたちの騒動でつい忘れてしまう。そしてここでは太夫もあまり思い入れたっぷりにはしない。ほんの少し、母である千代の詞に陰りが残り、また人形遣いもわずかに視線を逸らす。この一瞬が、親子の別れである。たった一人、殺されるために残る。
 そして誰かを身代わりに、と思案しつつ戻ってきた源蔵に「御師匠様、今から頼み上げます」と健気に挨拶し、顔を上げた時、源蔵はこの子を身代わりにと、つまりこの子に手をかけることを決意するのである。考えてみれば残酷な話だ。今日出会ったばかりの子どもを、自分たちの都合で身代わりに殺そうというのだから。
 そして松王丸と源蔵の心理戦。身代わりを使うなど見抜いているぞ、という松王丸の目。逆上する源蔵、必死の戸浪。そこで持ち出される子どもの首というのは、どう考えても気分のいいものではない。だが松王丸にとって、直面しているのは自分の息子なのだ。
 この苦しみを、苦渋に満ちた内面を描くのに、むしろ派手に泣いてみせたりはしない。でも、首を実検する「ためつすがめつ」の微妙な間、源蔵夫婦と玄蕃の両方を窺いながら、「菅秀才の首討つたは」で置く一呼吸の重さ。観客もここで源蔵・戸浪と心を一つに、この場を逃れられるようにと息を呑む。そして「紛ひなし、相違なし」で観客は安堵する。ここは源蔵夫婦があっけにとられているのが、むしろ突っ込み所満載の気がする。
 松王丸視点で見るなら、あまりにも無残な子との別れである。後に明らかになるように、それは彼が望んだことであり、7歳ばかりの子に強いた犠牲なのだ。それを自分で確認し、その通りであれば親としての最悪の状況である。だがもし、菅秀才の首がそこにあったら、彼は永遠に菅丞相の下には戻れない。どちらにしても、彼には地獄なのだ。そしてその引き裂かれる心を救うのが、小太郎が従容として身代わりになったという事実である。「なに、笑いましたか」の後の泣き笑いは、息子によくやったという思い、だがそれによって、最愛の息子を死なせた嘆き、息子を死なせ生き残った自分へのやるせなさ、悔いがないまぜになっての思いである。こうした究極の児童虐待劇(?)なのに、また殺された者の痛ましさは比べるものもないのに、父の方に感情移入してしまうのは、この真情が溢れるからだ。だが、小太郎は沈黙している。自分の思いを言うすべもなかった。いっそ、小太郎が松王丸を「おまえなんぞ父ではない」とでも言ってくれれば、とさえ思う。死ぬことで息子として再認識されるという、もう一つの悲劇。 

 第二部の『絵本太功記』に出てくる、光秀の息子の十次郎は、父の謀反に対し、父の息子としてそれに従い、結果として壮烈な討ち死にを遂げる。父は祖母からも母からも逆賊扱いされている。そのことは百も承知だが、実際に父の受けた恥辱、武門として耐え難い屈辱を目の当たりにした彼は、一言も父を非難することなく、ただ父のために戦い、若い命を散らせる。その痛ましさは「十八年の春秋を」という母の嘆きに集約される。美しく見目好く、父の自慢の子であるはずが、逆賊の汚名を着たまま死ぬという現実に、母の嘆きは、おそらく息子を戦争で亡くした母全ての嘆きにつながるだろう。
 だが、この物語には、もう一つの母と息子の物語がある。母さつきと光秀である。母は息子の所業が許せない。主君を害することは、主君がどれほどひどいことをしても、人間としての尊厳に関わることであっても、それを理解することができないのだ。妻も「御諫め申したその時に思い留まつて給はらば」と、同じ論理で責めてくる。十次郎の許嫁の初菊は自分の運命を嘆くことで、間接的に自分を責めている。女たちの誰一人、自分が人として受けた辱めを、そうした主君の横暴を理解してくれる者はいない。唯一の味方である十次郎は、その両者の間に引き裂かれるように死のうとしている。だからこそ「さすが勇気の光秀も、親の慈悲心子ゆゑの闇、輪廻の絆に締め付けられ、はらはらはらと・・・雨か涙の汐境、波立ち騒ぐ如くなり」が、この段のクライマックスとして、太夫も三味線も人形も、それぞれが最高の見せ場、聞かせ所になっているのがわかる。
 女の論理対男、の構図。女は命を、恋を、道を第一にする。だが男は、自らの名誉と現実に生きねばならない。十次郎は許嫁の嘆きを思いやっても、彼は父の側に立つことを選んだ。そこでの父と息子の同志としてのつながりは、やはり女たちの理解の外にあるのではないか。

 第三部の『染模様妹背門松』の久松と父の久作は、もっと世話の世界である。
 息子は奉公先の主人の娘との若い恋に酔っている。いや、本当に幼い恋である。ただ相手が可愛い、愛しいと、今で言えば中学生くらいの年頃なのだから仕方ないと言えばそうだが。でも、娘を妊娠させた責任を感じている辺りはまだましか。
 大晦日、父は息子の奉公先への見舞にやってくる。そこで義理ゆえに、息子に恋を諦めるよう説得し、大枚はたいて息子のために買った革足袋で息子を折檻する。息子可愛さと、それゆえに義理との鬩ぎ合い。
 しかし、若い情熱は義理を説く父に従うことでは止められない。二人が戦わなければならないのは、「世間」という大きな壁だ。「可哀そうに久松が思いつめて死んだのを・・・」というお染の嘆きは、たとえ父の言葉に従って山家屋に嫁入りしても、世間は赦してくれないという絶望以外の何ものでもない。父は義理を説く。だが現実はもっと残酷で、どこまでも二人を追い詰めていく。この物語で二人の死を描くのはあまり見たことがない。むしろ近松のリアリズムに近い演出のように思った。息子は父の約束を守れなかった。久作は嘆くだろう。どうしても救ってやれなかった自分の無力に、また恋を貫いた息子の一途さに、慚愧の涙を流しただろう。ここでも父に追い詰められなかったら、という「もしも」を感じてしまった。

 親の意志に従っても死に、親に逆らっても死以外にない。だが人の命がいまよりずっと軽く思われていた時代だからこそ、こうした親子の絆は深く迫る。「親の慈悲心子ゆゑの闇」は明けることなく続くのだろうか。正月の文楽にしてはいささかシリアスになってしまった。珍しい『戻駕色相肩』と、新年を寿ぐ『寿式三番叟』でほっとさせられた。この1年が明るいものであるように祈る。

■森田 美芽(もりた みめ)
大阪キリスト教短期大学前学長・特任教授。専門は哲学・倫理学 大阪大学大学院博士(文学)キリスト教と女性と文楽をテーマに執筆を続ける、自称「大阪のおばちゃん哲学者」。

(2022年1月4日第一部『寿式三番叟』『菅原伝授手習鑑』第二部『絵本太功記』、
7日第三部『染模様妹背門松』『戻駕色相肩』観劇)