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国立文楽劇場

文楽の昼と夜

森田 美芽

 10か月ぶりに、大阪に文楽が帰ってきた。それだけで、心が浮き立ち、じっとしていられなくなる。本当に長かった。先に東京公演が復活して、次に地方公演があって、満を持しての大阪・国立文楽劇場での公演である。まだまだ様子見のそろそろとしたスタートだったが、それでも、文楽が我が町に帰ってきたという感慨は一入である。
 劇場内の座席は、まだ半分以下しか使えない。しかし、交互の座席は大変見やすく、隣の人に迷惑をかける心配も少ない分、ぐっと楽しめる空間である。床前の私の特等席は当分お預けだが。
 懐かしい、幕開き三番叟の触れ。二人遣いの人形が神を迎える櫓に向いて拝礼し、「おおさえおおさえ、喜びありや喜びありや」の詞はフェイスガードのせいか、ややくぐもって聞こえる。しかし、三味線の音が、足遣いの踏む足拍子が、心地よいリズムに乗せてくれる。この三番叟は上演中必ず行われる、舞台を清める儀式である。舞台の成功をもたらす超自然的な力への祈念。それは私たちの祈りでもある。これから始まる、分秒まで厳密な、洗練された動きと語り、にも拘らず一瞬先に何が起こるかわからない舞台という危うい現実を前に、数時間の先に陶酔と喝采が生まれる奇跡を、この向こうに見ようとする。
 そして今回見えてきたものの一つが、文楽における昼と夜である。これは別に、文楽に昼公演と夜公演があり、昼公演の方が、客席が賑やか、という意味ではない。文楽は基本的に近代劇で、一つの場所、一つの時間に限定された場面での、具体的な個別の名を持つ特定の人物による演劇である。その物語の設定される時間が、鮮やかにそのドラマの骨格を支えるのが強く感じられた。

 文楽には夜の物語が多い。犯罪や密事は夜陰に乗じて行われる。
 今回の演目、第一部の『源平布引滝』「矢橋の段」から「九郎助住家」までの発端は夜の琵琶湖が舞台である。矢橋の浜で追い詰められ、女の身で健気に男どもと戦う小まん。それ自体いわくありげだが、追い詰められた彼女は琵琶湖に飛び込む。それを見下ろすように、月の光に浮かび上がる琵琶湖とその背後の比叡の山。
彼女は必死の思いで泳ぎ続け、見事な御座船に救われるが、それはなんと平家方の船であった。希望、絶望を行き来する彼女の必死の抵抗を、いとも簡単に、彼女の握りしめた白旗を、腕ごと切り落とす実盛。白く光る腕と、白旗の運命が、月の光よりもはかなく湖を漂う。
 御座船にすっくと立つ実盛の際立つ男振り。
 「九郎助住家の段」では、老母の綿繰歌の似合う貧しい家に、片腕を携えた少年と老爺。彼らが匿っているのは、木曽義賢の妻、産み月の葵御前。そこへ斎藤実盛と瀬尾十郎が、葵御前を詮議にやってくる。それを切り抜ける九郎助の機転に、実盛の本心が明かされる。実盛は日の光が似つかわしい美丈夫として描かれるが、後に白髪を墨で染めて合戦に挑み、小まんの息子、そして瀬尾の孫に討たれる未来をほのめかす。
 物語は太夫によって、過去と未来が重なる、不思議な時間として白日の下に明かされる。それを見おろす琵琶湖と比叡は、悠久の時を静かに佇む、人の営みの小ささとの対比を示すように。歴史が人の隠されたものを明らかにすることを象徴するように。

 第二部の『新版歌祭文』は、冬の午後の少し弱い光を感じさせる。田舎娘のおみつは、咲き初めたばかりの梅の花のように、かぐわしい香りと初々しさ。対するお染は華やかで洗練された美しさと気位。永遠に交わることのない2つの光が、久松という若者を巡って交錯し、艶やかに、だが不安げに、その影を落としている。おみつに課せられたのは、自分の最愛の人を心中から護るために、恋敵にその人を譲ること。しかし義理に迫られれば、二人は死ぬだろう。彼女は恋を断念するために自ら髪をおろし、浮世を離れた尼になる。
 この痛ましいまでの自己犠牲、前半が人間味溢れる娘の嫉妬だけに、そこに違和感を覚える人もいるかもしれない。だが、「愛する人を失うか、生かすか」という究極の二択を前にした時の、自らを犠牲にしても相手を救おうとする強さは、文楽の世界の伝える大阪の女性像の典型である。ただそれを、暗く悲しいもので終わらせないのも文楽の魅力である。
 段切れの、三味線の連れ弾きの楽しさ。落語が好きな方なら、春団治の出囃子といえばわかるだろう。つい手でリズムを刻んでしまう。気が付くと、周りの人もそれぞれにこの音楽に合わせて拍子を取っている。これに馴染んだ人たちがこんなにいて、共に一つの舞台を楽しんでいることがわかるのは本当に嬉しい。
 軽快な、明るい音色に合わせ、船頭の滑稽な仕草に笑いが起こる。だが、どこか哀しい。そんな夕刻に近い、日の陰りを思わせる一場面で終わる。これからの二人の運命を暗示するように。
 続く『釣女』は理屈抜きに楽しい。醜女というが、本当に可愛く魅力的である。愛嬌たっぷりで、これをフグというなんて、許せない!と思わずツッコミを入れたくなる。金水先生の文章にあるように、これは狂言に由来する演目だが、狂言の道行という手法で距離も時間も一気に飛び越えてしまう。時を超える、大名も醜女も個人名はない。いつでも、だれでも起こり得るという、現在が未来への反復を含む関係の中でのドタバタ劇。太郎冠者を醜女が追いかけていくオチを楽しみながら、なるほど男も女も見かけで動いたらあかん、と言われているように思う。ルッキズムとストーキングというのは時代を超えてあるものだが、それがまるで現在の、たとえば吉本新喜劇などにもつながってくるように思える。

 第三部は『本朝廿四孝』。極めつけ、「奥庭狐火」は夜半、狐火が妖しく舞う仕掛けで始まる。それだけで客席は異空間にいざなわれる。
 この物語は元々の仕掛けがややこしすぎてどうもわからない人も多い。ただし、そこに至る物語も、聴きごたえがありぜひ味わっていただきたい。でもこの四段目、「十種香」と「奥庭狐火」は理屈抜きに楽しめる。深窓のお姫様が、婚約者に先立たれたと言って悲しんでいる。なのに、目の前に死んだはずの婚約者とそっくりな美青年(!)がいるのを見ると、すぐに惚れたと言い、腰元に仲立ちをと言い出すのだ。一途な、というか、空気読めよといいたくなるような身勝手さというか、恋する乙女はいずこも同じ、と、微笑ましく感じるが、同時にそばにいる濡衣は、目の前の人とそっくりの自分の夫を亡くし嘆いているところなのだ。両家を巻き込む陰謀と、それに立ち向かうのは、ただ自分の愛する人を助けたいという、単純極まりないお姫様の思いだけ。そこにすべての情熱が注がれ、この物語を私たちに引き付ける。その中で、奇跡が起こる。
 お姫様が、恋する相手を救うために、今度は狐に憑依される。諏訪法性の兜のもたらす奇瑞。狐に憑かれた姫は、ここかしこと跳び、回旋し、のたうち回る。ここは、勘十郎師の至芸に酔いしれるところだが、それだけではない。私たちの先祖が昔、暗闇に感じていた畏怖、異類と魑魅魍魎の跋扈する闇の中に、姫の一筋なる思いが光をもたらし、狐たちをも従えて、闇を切り裂く。差し初める東雲の光に、彼女が諏訪の湖を渉る姿が重なる。男たちの陰謀を超えた、清々しい朝の光。私たちもまた、この光を待っていたのだと気付く。

 文楽そのものが、幾度も闇を通って、そのたびに奇跡のように甦ってきた。この舞台の闇と光、夜と昼は、そのことを象徴しているように思える。困難に襲われるたびに、忍耐し、ひたすら芸を磨きつつ時を待つ。本公演もまたそのように、力を充実させて、この困難の時を乗り越えてこられた技芸員の方々の覚悟と強い使命感を感じた。願わくは、この充実をもって来春の公演を迎えられますように。

■森田 美芽(もりた みめ)
大阪キリスト教短期大学前学長・特任教授。専門は哲学・倫理学 大阪大学大学院博士(文学)キリスト教と女性と文楽をテーマに執筆を続ける、自称「大阪のおばちゃん哲学者」。

(2020年11月1日第一部『源平布引滝』、
5日第二部『新版歌祭文』『釣女』、第三部『本朝廿四孝』観劇)