文楽かんげき日誌

待望の文楽再開によせて

東 えりか

朝の光りの中、桜の木から紅葉がはらはらと降りかかる。この前見上げたのは芽吹きもしていない真冬の日だった。今年は花も葉桜も見ることがないまま国立文楽劇場に来るのは10か月ぶり。初春公演以来である。大阪に足を踏み入れるのも10か月ぶりで、以前はたくさん歩いていた中国人観光客の姿はない。

新型コロナの流行以降、文楽公演も自粛のためクローズが続いていたがいよいよ公演再開だ。感染防止のための厳戒態勢が敷かれていた。

文楽劇場に入場する際は、指先の消毒と赤外線による体温測定が行われる。エスカレーターは前に係の人が立ち、ソーシャルディスタンスを呼び掛けている。

場内の係員は全員フェイスシールドを付け、チケットのチェックの後、自分で半券を切って箱に入れる。物販コーナーやイヤホンガイドの貸し出し窓口も透明シートで覆われており、マスクをした観客とくぐもった声でやり取りしている。

お弁当の販売はなく、場内での食事は禁止で休憩所だけが許されている。座席は、両脇は一席ごと、中央は二席ごとにあけて、座れない場所は美しい色紙で封じられている。遠目で見るととてもきれいだ。 

どこもかしこもビニールで覆われている様子はSF映画のようだが、これが現実。今は公演が再開されただけで嬉しい。幕開き三番叟の鼓の音が聞こえただけで泣きそうになってしまった。

今回は欲張って三部まで通しで観劇した。やはりまだ観劇には慎重になっている方が多いのか、減らした座席にも空席が目立つ。

消毒のためか幕間時間もが長い。普段なら、暑いやら寒いやら理由をつけてロビーでうだうだとしていたが、久しぶりに文楽劇場まわりを散歩してみた。黒門市場は地元の買い物客がほとんどで、昔の姿に戻りなんだかちょっと寂しい。とはいえ、相変わらず威勢のいい声が聞こえてくる。小腹が空いたのでタコ焼きをたべ、次の公演に備える。これはこれでなかなかいい。

第三部の『本朝廿四孝』は今まで何度か鑑賞しているが、今回はとりわけ素晴らしい迫力で堪能した。

クライマックスとなる「十種香の段」では、千歳太夫の声がトーンと会場に響き渡る。勘十郎さんの遣う八重垣姫の懊悩に一緒に身もだえ、「奥庭狐火の段」での勘十郎さんの早変わりに会場が息を飲む。そして壮観な狐たちを遣う若手の人形遣いの躍動。このなかから嘱望される遣い手が出てくるのだろう。

おりしも令和3年国立文楽劇場、研修生募集説明会の締め切り間近(締切11月13日)だったが、近年応募者が減少傾向にあると、関係者が危惧していた。こんな非常事態の世の中だから、人生の選択肢に、全く違う世界があることを若者に知って欲しいと切望する。

■東 えりか(あづま えりか)
書評家。千葉県生まれ。信州大学農学部卒。幼い頃から本が友だちで、片っ端から読み漁っていた。動物用医療器具関連会社の開発部に勤務の後、1985年より小説家・北方謙三氏の秘書を務める。 2008年に書評家として独立。「読売新聞」「週刊新潮」「ミステリーマガジン」などでノンフィクションの、「小説宝石」で小説の書評連載を担当している。2011年、成毛眞氏とともにインターネットでノンフィクション書評サイト「HONZ」(外部サイトにリンク)を始める。好んで読むのは科学もの、歴史、古典芸能、冒険譚など。文楽に嵌って15年。ますます病膏肓に入る昨今である。

(2020年11月8日第一部『源平布引滝』、第二部『新版歌祭文』『釣女』、
第三部『本朝廿四孝』観劇)