国立文楽劇場

「道行」の魅力―「初音旅」と「恋苧環」―

森田 美芽

 まだ戻りきらない春。様々な配慮と、慎みと、不安を抱えながらの新春。それでも舞台には、変わらぬ春が巡りきている。昨年4月、ここで見られるはずだった、文楽の道行の中でも最も華やかで、目を奪う輝きと魅力にあふれた舞台。それも今回は、鶴澤清治師匠の文化功労者顕彰記念の公演。期待に胸の高鳴りを抑えきれない。
 そして、第一部は馥郁たる紅梅と、凛と高雅なる白梅の匂いたつような『菅原伝授手習鑑』の三段目、第二部は華やかで楽しみの多い『碁太平記白石噺』と『義経千本桜』の道行、第三部はそれと対比させるような「道行恋苧環」からの『妹背山婦女庭訓』四段目のお三輪の悲劇。お正月早々にお腹いっぱい、と思ったら、何と見応えある充実した舞台であることか。どの部を選んでもそれぞれに見所が多いが、やはり今回は文楽を代表する2つの「道行」が揃ったことが楽しい。目にも耳にも贅沢な時間を楽しませていただいた。
 『義経千本桜』四段目「道行初音旅」は、道行の中の道行と言ってもいいかもしれない。人形も、太夫と三味線も、文楽を代表する演目である。呂勢太夫、織太夫ら美声の太夫が語る義太夫の言葉のイマジネーションと三味線の豊かな表現力、そして花形の人形遣いが業を駆使する、総合力が魅力である。その中で、三味線の存在感、三味線の魅力、そうしたものを十二分に堪能させていただいた。
 清治師に率いられ、いつにも増して華やかに、高鳴る三味線の一糸乱れぬユニゾン。ことにフシオクリと呼ばれる、「道行」に特有の誘うような旋律に、はるばると旅路をたどる憧れと、不安とが被さる。「慕い行く」の一言で、紅白の幕が切って落とされ、客席は一瞬で花の吉野に連れて行かれる。一目千本と言われる吉野の桜でも、実際にこのような盛りを目にする機会はめったにない。書割と吊り物の桜が、春の光に包まれたのどかな吉野の風景に代わり、その中ですっくと立つ、静御前の美しさに目を奪われる。今回は中堅の吉田一輔氏による、初々しく清らかな静御前が赤姫の姿で舞う。
 一転して怪しげな太鼓の響き、下手より狐の登場。注意深く周囲を見回し、そして植え込みの陰に隠れると、早変わりで吉田玉助氏による忠信が、せり上がりで登場する。スケールの大きな遣い方で、忠信が忠義厚いだけでなく手練れの武将であることを見せる。このお二人のバランスの良さ。二人の連れ舞いの弾むような足取り。恋人ではなく主従、しかも男の正体は狐なのに、この不思議な感覚は何だろう。二人の見ている先は同じだからか。
 「誠にそれよ来し方の」から忠信の物語。八島の合戦(史実では壇ノ浦だが、この物語ではそうなっている)の有様が、桜の山々と重なるように浮かぶ。海に平家の赤旗をなびかせる兵船、陸に源氏の白旗が対峙する。景清と三保谷四郎の錣引きや、忠信の兄継信が能登守教経に矢で射抜かれて亡くなったことが語られる。それ自体は悲劇なのに、静が後ろ向きのまま扇を投げて、それを忠信が受け止める、その見事さについ、これが悲劇であるとも忘れてしまう。
 そして互いに励まし合いながら再び義経のいる吉野へ向かう。その瞬間、忠信が妖しい振る舞いを見せる。翳りというより、妖しさ。この世ならぬものが、最もリアルな恋人を探す女の傍らに付き添う、次元を異にする者同士の生の交錯。
 
 「道行初音旅」が昼の道行であるのに対し、同じく名作と呼ばれても、「道行恋苧環」は七夕の夜の道行である。浅黄幕を切って落とすと、舞台は三輪山のふもと、ご神体である三輪山の黒々とした影に、参道の灯篭と星の光が点々と続く。
 同じ「道行」とついていても、三味線も、「初音旅」が、天から降ってくるような音の泉であるとすれば、「恋苧環」は、舞台奥の三輪山から地響きをもって迫りくるような迫力がある。フシオクリも少しバリエーションが入って、浮き立つ思いよりも謎めいた三人の出会いと恋の鞘当ての駆け引きに目が行く。先ほどは忠信の物語をスケール大きく語った織太夫が、今度はお三輪の情熱を語る。ライバルの橘姫は芳穂太夫、求馬に希太夫と揃い、三味線は鶴澤藤蔵氏がシンで5人の中堅若手を率いる。
 最初に桐竹紋臣氏の橘姫。愛らしく品のある仕草。しかし心は求馬だけを探している。そこへ吉田勘彌氏の求馬が苧環の糸を辿って出てくる。求馬への恋の告白。求馬もまんざらではない。夜ばかりの通ひ路と、三輪山伝説と重なる詞章。無論、伝説は男が夜だけ通ってくるのだが、ここでは姫が通ってきて、求馬はその正体を聞こうとする。しかし橘姫は求馬に他の女がいることを責める。そしてお三輪の登場。生き生きとした動き、田舎娘らしい直情さを遣うのは桐竹勘十郎師。
 一人の男を巡って争う女と女。野暮ったい田舎娘が「女庭訓」を説き、高貴なお姫様が「恋は仕勝ち」と本音で争う。そして3人で舞う。男女の仲を花に擬える詞章の響きが重なる。これは七夕の夜だから、梅と桜ではあるまい。「杜若は女房」「菖蒲は妾」がこの二人になるのだろうか。「恋のしがらみ蔦かづら」から廻る苧環につながり、シンデレラよろしく、鐘の音に屋敷に戻ろうとする姫の着物に、求馬が糸を付け、跡を追う。残されたお三輪もまた、求馬に糸を付け、その跡を追う。
 運命の赤い糸とはこのことか。この後の段で明らかになるように、求馬はお三輪を愛しているのではない。さらには橘姫をも利用しようとする。お三輪はその恋心を利用されたに過ぎない。彼女は嫉妬に狂って「疑着の相」を表し、そのために殺される。にも拘わらず、彼女は「あなたのお為になることなら、死んでも嬉しい忝い」と言う。「あっぱれ高家の北の方」と呼ばれて嬉しがる一方で、「この主様には逢われぬか。どうぞ尋ねて求馬様」と呼ぶ。健気とか哀れというより、お三輪はどこまでも、自分の恋した「求馬」という男にしか目が向かないのだ。求馬自身は、すでに正体を現して藤原淡海になってしまっているのに。その一途な思いが、歴史を動かし、この物語では悪の権化である入鹿を倒す力となる。このあたりのドラマは、ぜひ実際の舞台を見て納得していただくほかはない。
 二つの道行は、昼と夜を代表し、恋い慕う者を目指しながら、正反対の結末に終わる。ただ、願わくは、「道行初音旅」もまた、『義経千本桜』の壮大な物語の中に見たかった、という思いが湧く。「道行」の魅力は、時代物ならば、その壮大な物語世界の全体を象徴するような一編の叙事詩であり、声と三味線の織りなす豊かな音楽性の中に、その本質を感じて、陶然とその魅力に酔いしれることができることだろう。単独で見てももちろん美しい。そして正月ならではの『碁太平記白石噺』の華やかな廓風景のあとに、心ときめくものではあるが、序段の「堀川御所」の卿の君の悲劇から伏見稲荷を経て、二段目の大物浦に展開される知盛の悲劇、三段目は吉野下市の庶民を巻き込む悲劇があって後の、まるでそこだけはほっと一息ついて桜と共に物語を見渡すことができるという安堵感と解放感、そしてまだこの向こうに険しい路が続くことが予想される不安と緊張、その両者の行き当たったところが、この「道行初音旅」なのだ。
 『妹背山婦女庭訓』もまた、奈良を舞台にした壮大な物語であり、いくつもの犠牲の果てに入鹿討伐が成し遂げられるという積み重ねの中に、このお三輪のかなわぬ恋が最も重要なモチーフとなっている。すべてのピースが揃っても、この純な田舎娘のひたむきな恋がなければ、そして男に裏切られたと知って相手の女への嫉妬に狂うことがなければ、巨大な悪を滅ぼすことはできない。一見艶やかな男一人女二人の連れ舞いは、この女が一人異分子として働く、その絶妙なアンバランスを象徴するようだ。理性を超えた狂気の世界を、優しく包むような詞章の中に、確かにその破滅は見え隠れする。
 二つの「道行」に象徴される、文楽の時代物の複雑な人間模様。それがいまも私たちに真っ直ぐに届くのは、ヒロインのひた向きな愛に他ならない。静とお三輪。私たちはそれぞれの運命の行き着く先を見つめながらも、なお、あの三味線が耳に鳴り響いているのを聞いている。永遠の憧れを誘うように。

■森田 美芽(もりた みめ)
大阪キリスト教短期大学前学長・特任教授。専門は哲学・倫理学 大阪大学大学院博士(文学)キリスト教と女性と文楽をテーマに執筆を続ける、自称「大阪のおばちゃん哲学者」。

(2021年1月4日第一部『菅原伝授手習鑑』、第二部『碁太平記白石噺』『義経千本桜』、
1月11日第三部『妹背山婦女庭訓』観劇)