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国立文楽劇場

失われた物語―DV男と性悪女の不幸な出会い―

森田 美芽

 これはスプラッターか、ホラーか、サイコスリラーか。要は、田舎侍が北新地の遊女に入れ揚げ、その女と愛人に馬鹿にされていたことを恨み、殺人事件を起こすという筋立てだが、とにかく描写がすごい。夏限定の背筋が寒くなるような場面が待っている。それも人形だからかろうじて見ていられる、というレベル。気の弱い人はご用心。

 しかし、なぜこの物語は、怖さだけがクローズアップされるのだろう。それは登場人物に感情移入がしにくいから、なぜ殺すのか、殺されるかの理由が、見る者の胸に染み通らないからではないか。

 これは「悲劇」とは呼ばれない。「悲劇」は見る者の共感がある。でもこの場合、殺した初右衛門にも殺された菊野にもあまり共感はできない。初右衛門は、それほど菊野に惚れていたのだろうか。たとえば「曾根崎心中」の徳兵衛は、お初を一人の人間として愛し、彼女のために自分の身の出世も捨てるほどの情熱を持っていた。それに比べて初右衛門は、どうも違う気がする。恋のライバルのはずの仁三郎に対して、対等に競り合う感じもないし、何が何でも菊野を奪おうとする感じでもない。

 初右衛門を動かしたのは、恨みだろうか、怒りだろうか、嫉妬だろうか。愛着というよりは、執着。自分の惚れた遊女に対する執着ではないか。もっと言えば、支配欲に近いものかもしれない。

 遊女に馬鹿にされる。菊野自身は、それほど悪意はなかったにせよ、初右衛門はプライドをつぶされた。第一に、恥をかかされたこと、自分が裏で笑われていたことに対しての怒り。そして騙されていたという恨み。自分の思いが届かないのが、粋な恋人のせいであるという、自分にない洗練された都会人への嫉妬。そして何よりも、自分の自由になるはずの女が、自分を嘲笑しているということが許せない。現代でも通じる、DV男の心性である。自分に従うべき者が思い通りにならないのは、自分に対する侮辱であり、武士であり男である自分への最大の侮辱と感じるのだ。怒りは転じて暴力になる。

 だから、殺すだけでは満足しない。遺骸を取り上げ、一瞬、菊野への執着を見せるが、またその身体を無残に破壊することで支配欲を満たそうとするような、その凄惨さ。それでも飽き足らぬように殺人を重ねる。自分の優位さを誇示するように。

 だが彼には本当の菊野は見えていない。「粕売女」と罵る、男にとってその不幸な女はもはや名前すら呼ばれない。不幸な出会いと言うより、本当に愛したことのない悲劇というべきか。そんな男には、逆らわない遺骸こそがお似合いなのではないかとさえ思う。

 菊野の方は、もう一つ性根が見えない。廓の女らしい、客あしらいで本音は見せない。しかし間夫(まぶ=女郎の恋人)には手紙とはいえ本音を出してしまう脇の甘さがある。また、恋人の仁三郎の許嫁が出てくると、仁三郎を彼女に譲ってふと恨めしそうな顔を見せる。何か一途さとか情熱というものがあまり感じられない。それとも、廓でそんなものは不可能だと悟って、諦めることに慣れたせいか、どこか投げやりな様子が見える。その頼りなさ、掴み所のなさに、男は自分になびかせようと夢中になるのかもしれない。だがそこには、失われたもう一つの彼女の物語がある。

 彼女は、もとはおふさという名で奉公していたが、主のおみすの許婚である仁三郎と恋に陥り、自ら身を引き、遊女になったという。そしていまも元の主に義理を立て、おみすを御寮人様と呼び、仁三郎のもとに送る。もとの主従関係がどんなものであったかは想像するしかないが、おそらく二つとない恋ではなかったか。それがこの世の義理で許されなかった。そして今は、恋人同士と言っても所詮遊女と間夫にすぎず、どんなに恋しくとも、他人に翻弄され、自分の意志ではどうにもならない境涯。哀れというよりも、流れる水のような、はかなさと運命への従順さ。それが、初右衛門を引き寄せたのかもしれない。その結果が、男の一方的な暴力と思い込みによる非業の死とは。

 ラスト、本水が勢いよく降り注ぐ中、悠々と「三井寺」の一節を口ずさみながら、不敵な笑みを浮かべる。闇の中に、白い顔が浮かび上がり、そこでまた、ぞくっとさせられる。初右衛門自身は、それで満足だったのか?それも謎のまま、彼は闇に消えていく。この物語の本当の怖さは、この段切れの向こうにある人の闇なのかもしれない。

■森田 美芽(もりた みめ)
大阪キリスト教短期大学前学長・特任教授。専門は哲学・倫理学 大阪大学大学院博士(文学)キリスト教と女性と文楽をテーマに執筆を続ける、自称「大阪のおばちゃん哲学者」。

(2019年7月20日第三部『国言詢音頭』観劇)

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