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国立文楽劇場

仮名手本忠臣蔵の恍惚

東 えりか

 2019年11月24日は、4月公演、夏休み公演に続く『通し狂言 仮名手本忠臣蔵』の千穐楽。当たり祝いも出るほど、今年の大阪公演全てが大入りだったそうだ。

 私もすべてに足を運び堪能した。その上、全て見た人に、というプレゼントの手ぬぐいまで頂戴した。ふつうのものより大判で、登場人物が印象的に配置された切り絵が描かれている。もし目の前で鼻緒が切れた人がいても、この手ぬぐいですげ替えたくはないなあ、と思うほど見事なものだ。

 文楽で『仮名手本忠臣蔵』を通しではじめて観たのは2016年12月、東京・国立劇場小劇場でのこと。このときは二部制で、一部は六段目の「早野勘平腹切の段」まで。二部は七段目「祇園一力茶屋の段」から十一段目の「花水橋引揚の段」まで。これを一気にみせてしまおうというのだから凄かった。二日に分けて観る人も多いなか、私は一部と二部を一気に、まさに通しで観たが、これは苦しかった。

 開場もいつもより早い10:00。10:30開演から21:30の終演まで11時間の間に、25分休憩が各回1回ずつ、10分休憩一部は1回、二部は2回、そして入れ替え時間はわずか20分。

 二時間休憩なしで観ると大変なのはトイレだ。着物の女性が多く、10分の休憩ではとても済ませられない。そこで大劇場との仕切りドアが開かれ、そちらに誘導されたときはさすがに驚いた。

 実はその日、私ははじめて自分で着物の着付けをした日でもあり、途中、帯が緩んだり胸元が崩れたりしたのを、見るに見かねたご婦人がトイレで直してくださった。なんとなく「みんなで最後まで頑張りましょう」という雰囲気だったことをよく覚えている。

 見る方がこれだ。演じたみなさんは17日間の長丁場、本当に大変だっただろうと思う。

 今回は気持ちにも余裕があり、内容もきちんと頭に入っているだけに、いろいろな工夫が見て取れて、大変楽しい観劇となった。

 九段目「山科閑居の段」は聞きごたえがあった。前を竹本千歳太夫、後を豊竹藤太夫という、私にとっては夢の競演であった。藤太夫さんの三味線の鶴澤藤蔵さんも、いつもに増して合いの手の声が大きく気合十分という演奏だった。

 十段目「天河屋の段」では102年ぶりに原作通りの口・奥の上演だそうで、義平の妻、おそのの離縁が語られた。その、奥を語ったのは豊竹靖太夫。ここのところ贔屓で、楽しみにしている太夫さんだ。声がのびのびと出ていて心地いい。長い段を語るためか、体つきが一回り大きくなったような気がする。

 それでも長丁場の舞台中、白河夜船のごとく眠気に引き込まれそうになったとき、『仮名手本忠臣蔵』そのものについて考えていた。

 ご存知の通り、赤穂浪士の討ち入り事件を、世の為政者の目を晦ますため、舞台にかけるときは南北朝時代に置き換えたのが『仮名手本忠臣蔵』であり、実際の討ち入りから45年ほど経ってから上演された。本編は脚色され、当然こちらのほうがドラマ性は高い。登場人物のエピソードも印象的だ。

 忠臣蔵を下敷きにした作品は現在でも毎年のように製作され、現在ヒット中の映画『決算!忠臣蔵』は生々しいお金の出入りからみた討ち入りになっている。『東海道四谷怪談』も『盟三五大切』も派生した作品であり、小説ともなれば枚挙に暇のないほどだ。

 だが赤穂浪士や忠臣蔵そのものの知識を持つ者はせいぜい今の50代くらいまでだろう。かつてのようにオールスターを配した長時間ドラマや映画製作は資金面からも難しく、人々も興味が無くなっている。いまは歌舞伎でも文楽でも人気が高く、ふたを開ければ大入りだが、果たして10年後、20年後はどうなるだろう。

 最近のキーワードである「教養」を身に着けたいと思う若者は多い。世界史や日本史の入門書でもベストセラーが軒並み出ている。ならば、文楽の演目を通して歴史を知ってもらう手立てはないものか。

 ふと気づくと休憩時間になっていた。見回せば満席である。だからといって、人気の演目ばかりでは、文楽好きには不満となる。なかなか難しいものだ。

 文楽も世代交代が進む中、なにか革新的なことを考える人が出てきてほしい。かといって伝統的なことも繋いでほしいのだから、観客とは勝手なものだと思う。怪我や病気をせず、毎回大阪公演に通ってこられるようにするのが、せめてものファンの心意気であろう。

■東 えりか(あづま えりか)
書評家。千葉県生まれ。信州大学農学部卒。幼い頃から本が友だちで、片っ端から読み漁っていた。動物用医療器具関連会社の開発部に勤務の後、1985年より小説家・北方謙三氏の秘書を務める。 2008年に書評家として独立。「読売新聞」「週刊新潮」「ミステリーマガジン」などでノンフィクションの、「小説宝石」で小説の書評連載を担当している。2011年、成毛眞氏とともにインターネットでノンフィクション書評サイト「HONZ」(外部サイトにリンク)を始める。好んで読むのは科学もの、歴史、古典芸能、冒険譚など。文楽に嵌って15年。ますます病膏肓に入る昨今である。

(2019年11月16日第一部『心中天網島』、第二部『通し狂言 仮名手本忠臣蔵』
(八段目より十一段目まで)観劇)