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国立文楽劇場

純粋無垢な存在 仮名手本忠臣蔵を観るⅢ

三咲 光郎

 文楽劇場の一階に、資料展示室があります。開場前に立ち寄って展示品を見ると、気持ちが「文楽モード」に切り替わって、わくわく感が増します。
 今回の特別企画は『紋下の家 竹本津太夫家に伝わる名品』展です。
 紋下って何?
 浄瑠璃の一座の代表者のことで、座元(興行責任者)の紋の下に名前が出たのがこの呼び方の由来だそうです。
 展示品の中に、見台がありました。床本を置く見台を間近に見るのは初めてです。なんと、精緻な装飾が施された素晴らしい美術品ではないですか。素人の私は、見台なんて楽屋の隅に積んである道具類のひとつだろうぐらいに思っていましたが、考えてみればそんなはずはない。開演後、太夫さんたちの見台がさまざまな意匠なのを見て、劇場での楽しみが増えた思いです。

 『通し狂言 仮名手本忠臣蔵』。有名な『山科閑居の段』、『天河屋の段』を含む大詰を堪能しました。
 今回公演の冒頭は、戸無瀬、小浪母娘の『道行旅路の嫁入』です。
 塩谷判官刃傷の件でうやむやになっている大星力弥との結婚を成就したい。京都山科の大星邸へ、母娘二人が東海道を旅します。背景が富士山から琵琶湖へパッと変わる趣向もおもしろい。娘のためにはるばる西へ向かう戸無瀬の所作が印象に残ります。山科に着いてからのせりふに、
「殊にそなたは先妻の子。わしとはなさぬ仲ぢやゆゑ、およそにしたかと思はれては、どうも生きてはゐられぬ義理」
 とあって、その時に、はっと道行の場面が思い出されます。戸無瀬は、後妻として入った家、夫、娘に対して、自分はどう振舞わなければならないかを常に意識している。義理の世界に生きる女なのです。

 『山科閑居の段』では、戸無瀬と、大星力弥の母お石とが、激しくやり合います。
 大星由良助の主君塩谷判官は刃傷沙汰に及び無念の切腹を遂げた。それに対して、小浪の父加古川本蔵の主君桃井若狭助は、賄賂によってパワハラを逃れ刃傷沙汰になるのを避けた。
「金銀を以てこびへつらふ追従武士の禄を取る本蔵殿と、二君に仕へぬ由良助が大事の子に釣り合はぬ女房は持たされぬ」
 と言い放つお石。
「力弥様よりほかに余の殿御、わしやいやいや」
 と泣きじゃくる純情一途な小浪。
 間に挟まれ、覚悟を決めた戸無瀬は、本蔵から預かってきた刀で小浪を殺し、自分も死のうとします。しかし足も立たず手も震え、必死で刀を振り上げてもその時聞こえたお石の「ご無用」の声に気後れする。この辺りの戸無瀬の心の動きに引き込まれます。
 お石は厳しいけれど冷静沈着。赤い着物の戸無瀬は、激昂して、
「さては……有徳な町人の婿になつて義理も法も忘れたな」
 と邪推を口にする。義理の世界で精一杯がんばっているけれど、根はそんなに強くなくて、うろたえる自分を何とか支えているのでしょう。

 この後、加古川本蔵が悪役風に現れて、いよいよ大星由良助と対峙します。由良助が本蔵を許せないのは、主君塩谷判官が切腹して果てる際に、本蔵が抱き留めなかったら自分は相手にとどめを刺せたのに、と恨んでいたからでした。
 本蔵は、相手が死ななければ切腹は免れるだろうと考えて抱き留めたのだと言います。そして、由良助の前でいま自分が命を捨てるのは、
「子ゆゑに捨つる親心」
 だからと打ち明ける。本蔵にすれば、そもそもの事の起こりから自分が原因となり、ある意味では由良助より深くこの件に関わってきたのだから、決着も自分が後押ししたい、と考えています。考えの底にあるのは娘への愛情。嫁入りの引き出物として渡すものは、討ち入る先の屋敷の見取り図です。戸無瀬が懸命に振る舞うのも、夫の気持ちを理解してのことでしょう。
 忠臣蔵のドラマを推し進めるのは、由良助の鉄の意志ですが、別に強力な歯車があって、それは純情可憐な娘の存在だったのだとわかります。

 この後に登場する義侠の天河屋義平。また、物語中盤に登場した仇討ちのために身を捨てたおかる勘平。そんな名もなき人々が陰で支えて成し遂げたのが忠臣蔵の物語なのだ、客席で観て応援している自分も武士でなくても義士の苦難に参加しているのだ。そんな気持ちで、塩谷判官の墓前に、義士たちと並ぶ自分がいました。
 そういえば、私の祖父は名もなき昭和の人でしたが、忠臣蔵に心酔し、毎年討ち入りの日には義士祭と称して人を招き宴を催していました。忠臣蔵の物語は脈々と受け継がれていく。義士たちの姿に、祖父の顔が浮かび、重なりました。

■三咲 光郎(みさき みつお)
小説家。大阪府生まれ。関西学院大学文学部日本文学科卒業。
1993年『大正暮色』で第5回堺自由都市文学賞受賞。1998年『大正四年の狙撃手(スナイパー)』で第78回オール讀物新人賞受賞。2001年『群蝶の空』で第8回松本清張賞受賞。大阪府在住。

(2019年11月3日第二部『通し狂言 仮名手本忠臣蔵』(八段目より十一段目まで)観劇)

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