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国立文楽劇場

やぶにらみ・七段目サスペンス劇場

金水 敏

 『仮名手本忠臣蔵』五段目〜七段目は、文楽の演目の中でもとびきりの人気を誇っており、今回の夏休み文楽特別公演でも、平日の日中にもかかわらず、連日大入りの賑わいだったようだ。
 特に、七段目「祇園一力茶屋の段」はドラマとしてよく仕組まれており、良質のサスペンス劇となっている。心底を隠しつつ着々と敵討ちの準備を進める大星由良助。リーダーとしての由良助に期待し、またあまりの放埒ぶりに失望する塩谷家の元家臣たち。逆に、由良助の放埒を偽と見て、背後の動きを必死で探りだそうとする斧九太夫と鷺坂伴内。その渦中に巻き込まれ、翻弄される遊女おかると兄の寺岡平右衛門。これらの人々の、行き詰まる腹の探り合いがこのドラマの核心である。以下、いささかやぶにらみ気味ではあるが、私なりの七段目観をそこはかとなく書き連ねてみよう。

○「忠義」という非合理
 由良助のニンは、軸にリーダーとしての揺るぎない信頼感を保ちつつ、細心の用心を重ねながら、しかし心底楽しんでいるような駘蕩たる遊び振りを見せる余裕にある(今回の呂太夫さんの由良助は、この緩急の表現が理想的であった)。放蕩にふけっている時の由良助は、矢間十太郞以下三名の浪士、寺岡平右衛門、斧九太夫らに、一生懸命「なぜ仇討ちしないか」という理由を事細かに説明する訳だが、この説明の仕方が妙に現実主義的なリアリティがあって、説得力がある。
 例えば「鎌倉へ打ち立つ時候は」と問われて、「かの丹波与作が歌に、江戸三界へ行かんして」と戯れ歌を口ずさむが、これは江戸時代初期に流行ったという俗謡で、「江戸三界へ行かんして、いつ戻らんす事ぢややら」(『落葉集』1704年成立。日本国語大辞典による)を引いたもので、上方人の遠い江戸への嫌悪感をよく表している。また、「よう思うてみれば、仕損じたらこの方の首がころり、仕畢(おふ)せたら後で切腹。どちらでも死なねばならぬと言ふは、人参飲んで首括るやうなもの」とか、「はつち坊主(=鉢坊主。托鉢する乞食坊主)の報謝米ほど取つてゐて、命を捨てて敵討ちせうとは、そりや青海苔貰ふた礼に太々神楽を打つやうなもの」とか、蛸肴を勧められて「食べる食べる。但し主君塩谷殿が、蛸になられたといふ便宜(びんぎ)があつたか。……こなたや俺が浪人したは、判官殿が無分別から。スリヤ恨みこそあれ精進する気、微塵もごあらぬ」とか、卓抜な比喩表現に込められた敵討ちへの批判の論理は聞いていて「そらそうやなあ」と思わせられる。
 考えてみれば、当時の大坂の聴衆はほとんどすべて町人であり、彼らに取って、由良助の「死なない理由」こそリアリティである。大星由良助、武士なのになぜそこまで町人心理を知っている。そのうえで、それを敢えて「忠義」の一言で逆転してしまう論理、いや非論理を腹の内に飲み込んでいる、大いなる矛盾、非合理こそが由良助のミステリアスな魅力なのかもしれない。後にも書くが、この由良助の「忠義」、闇が深い。

○平右衛門の一途な“ラブ”
 面談の最中に由良助が寝入ってしまったため、矢間十太郞ら歴々があきれて退出したあと、平右衛門は仲居に枕と布団を持ってこさせ、由良助にあてがったあと、東国下向同道の嘆願書を枕元に置くが、由良助は寝ぼけた振りをして嘆願書をはねのけ、平右衛門はすごすご下がっていく。平右衛門がいそいそと由良助の寝支度を調えるさまは、無骨な出で立ちに対していかにもミスマッチで微笑ましい。ある意味「理想の部下」像ではあるのだが、この平右衛門の由良助に対する気配りの細やかさや熱烈なアプローチは、むしろ恋する乙女のそれに似ている。つまり、これは平右衛門の由良助に対する一途なラブの表現なのだ。由良助はこの場ではつれない素振りを見せるけど、寝たふりをしながらけっこうキュンキュン来てるんじゃないか。おっさんずラブのツンデレバージョンである。忠臣蔵は限りなくホモソーシャルな集団の物語ではあるが、ホモソーシャルとホモセクシュアルは、実はごく近いところにあるのだ(なおこの布団掛けのくだり、床本には一切書かれていない。つまり演出上の工夫なのだが、文楽公演ではやることもあればやらないこともある。歌舞伎にはあるので、ひょっとしたら歌舞伎から逆輸入された演出かもしれない)。

○おかる危機一髪
 七段目の最大のサスペンスは、「おかるの命はどうなるの」というはらはらドキドキである。おかる目線でこのドラマを眺めると、結構ホラーなサスペンスに見えてくる。
 顔世御前からの密書を読んでいるとき、二階からおかるが延べ鏡を使って覗いていたことに気づいた由良助は、とりあえずどこまで知られたかを確かめるため、酔った座興めかして九つ梯子を二階に掛け、おかるを庭に下ろす。この間の「じゃらつく」様子は、遊里でのやり取りと思えばそんなものかもしれないが、由良助のセクハラまがいの言いたい放題、しかも、人妻とは言えずいぶんな年増扱い、こんなにまで言われた上に命を狙われるとも知らないおかるが気の毒でならない。
 由良助がおかるについてどこまで知っていたかという問題について、橋本治氏は『浄瑠璃を読もう』(新潮社、2012年)の中で、「塩谷家の腰元であることは知っているが、勘平と夫婦になったことは知らない」という仮説を立てておられるので、ここでもそのつもりで筋を追っていく。おかるを二階から降ろした由良助は、軽い調子ではあるがなおも核心に迫っていく。
(由良助)「なんとそもじは、ご覧じたか」
(おかる)「アイ、いいえ」
(由良助)「見たであろ、見たであろ」
(おかる)「なんぢややら面白そうな文」
(由良助)「アノ、上から皆読んだか」
(おかる)「オオくど」
 ここで由良助は、最高機密がこのもと腰元の遊女に漏洩したことを確信するとともに、その処理について決断をくだす。それが次の
(由良)「アア身の上の大事とこそはなにりけり」
という台詞に現れている。「忠義一途に凝り固まった」由良助の心の闇から響いてくる、ぞっとするような文句である。
 おかるは、自らの命運が風前の灯火であることにも気づかず、「請け出して三日だけ囲ったら間夫にそわす」という由良助のことばに舞い上がってしまう。ここで兄平右衛門との出会いとなり、おかるが由良助との身請けの相談と手紙の一件について打ち明けると、突如平右衛門はおかるに斬りかかり、おかるはびっくりする。平右衛門は謝って、改めて父と夫・勘平の死を告げ、由良助のもくろみについて説明すると、おかるは絶望のどん底に突き落とされる。
 今回のお家断絶の騒動はすべておかるの軽挙妄動が引き金となったという事情を差し引いても、おかるの状況の悲惨さは同情に余りある。請け出すと言ってくれた由良助はおかるを口封じのために殺す所存であり、肉親である兄・平右衛門は、おかるを連れて逃げ出すどころか、自分の手柄のために自分の手に掛かって死んでくれと迫ってくるのである。何しろ平右衛門は由良助にぞっこんラブしているので、妹の命を差し出すくらい、何でもないのだ。この状況が地獄でなくて、何であろう。
 おかるは確かに状況が読めない、軽率な女であったかもしれないが、好きな男と一緒になりたいというただそれだけを願っている女でもある。それなのに、夫のために身を売って遊女暮らしをしている間に、肝心の夫は「友朋輩の面晴れ」のために勝手に自害してしまう。自分はと言えば、うっかり読んでしまった手紙のために、元の家老に身請けとだまされて謀殺される寸前である。あまつさえ、それを教えてくれた兄までもが自分や夫のために死んでくれと言う。そんな状況のなかでおかるが平右衛門に向かって叫ぶ次の言葉は、胸に迫る。
(おかる)「お手に掛からばかかさんがお前をお恨みなされましよ。自害したその後で、首なりと死骸なりと功に立つなら功にさんせ、さらばでござる」
 つまり兄を母の恨みの矛先にしたくないから自害する、その後で自分の体が「忠義」の役に立つなら勝手にしてと言っているのだ。
 幸いこのあと、由良助が「ホホウ、兄妹共見上げた疑ひ晴れた」の一言で平右衛門に東下向への供を許したうえ、おかるの持った刀に手をそえて床下の斧九太夫をひと突きし、夫勘平のための、主君塩谷判官への言い訳にせよと言う。見事な決着、さすが名家老、と我々観客は胸をなで下ろし、心からの喝采を送るのであるが、おかるの身になってみれば、忠義の論理で命を狙われ、その同じ論理で命を救われただけである。九太夫を突いたのも、別に自分がしたくてしたわけではなかろう。
 おかるは「恋」の原理で行動しているが、まわりの男たちはみな「忠義」の論理で自分を翻弄する。「恋」の世界と「忠義」の世界は、まったくかみ合っていない。かみ合っていないがゆえに起きる軋轢と悲嘆を、時計仕掛けのようなサスペンスとして描いているのが、この忠臣蔵の七段目「祇園一力茶屋の段」なのだ。

■金水 敏(きんすい さとし)
大阪大学・文学部教授。1956年、大阪生まれ、兵庫県在住。専門は日本語史および「役割語」研究。著者に『日本語存在表現の歴史』(ひつじ書房、2004。新村出賞受賞)、『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』(岩波書店、2003)、『〈役割語〉小辞典』他。

(2019年7月30日第二部『通し狂言 仮名手本忠臣蔵』(五段目より七段目まで)、
8月1日第三部『国言詢音頭』観劇)