国立文楽劇場

観客に寄り添う 仮名手本忠臣蔵を観るⅡ

三咲 光郎

 平成から令和へ。年号をまたいでの『通し狂言仮名手本忠臣蔵』の第2弾。夏休み公演は、五段目「山崎街道出合いの段」から七段目「祇園一力茶屋の段」までです。
 4月公演をご覧になっていなくてもまったく大丈夫、今回は、おかる勘平がメインのドラマですので。

 東京で飲み屋さんに入ると、最初に「お通しです」と注文していない小鉢が出てきて、「突き出しですね?」と無粋にも確かめたことがあります。今では大阪でも突き出しをお通しと言う店があって違和感はありませんが。
 飲み屋さんでいう「お通し」は「お客さんの注文を通しましたよ」の意味だと聞きました。私らは「通し狂言」の「通し」だと思ってしまうので、東京では店を出る最後まで何か頼んでもいないサービスが付くんかいな、とチラと不安になったわけです。

 牧村史陽編『大阪ことば事典』の「通し」の説明を見ますと、「近松の時代物や、その後の竹田出雲らの……諸作など、当時は、一日の狂言は一本立てで、……発端から解決(大序から大詰)までを完全に通して見せるのが原則となっていた」とあります。当時の観客は、朝に入場したら夜の終演まで一日を通し狂言で楽しんでいたのですね。道頓堀朝日座の頃にお弁当持参で観ていたお婆ちゃんらののんびりした風情を思い出します。
 『仮名手本忠臣蔵』の五段目から七段目は、4月公演の大序から四段目までとはまた違った雰囲気の場面になっています。四段目までは、お侍たちが面目の火花を散らし合う、緊迫感に満ちた武家物なのですが、今回上演するパートは、山崎の農家や祇園の茶屋を舞台に、猟師、足軽、遊女といった人々がメインの、市井物になっています。一日を「通し狂言」で楽しむ観客を飽きさせない工夫があったわけですね。

 4月公演の登場人物の中で気になっていたのが早野勘平です。お役目中に恋人おかると逢瀬を楽しんでいて、主君・塩谷判官の刃傷沙汰の現場にいなかった。いいヤツなんだけど、ちょっと軽率。この先、重厚で一途な義士たちに合流できるんかいなと気に掛かっていました。
 今公演のメイン・キャラクターは、勘平、おかる、おかるの兄で足軽の平右衛門。
 勘平は、山崎のおかるの実家に身を寄せて浪人中。猪撃ちの猟師になっています。おかるは勘平を武士に戻すために身売りして祇園の一力茶屋へ。

 ところが、勘平は夜陰に猪を仕留めたつもりが旅人を撃ち殺してしまいます。死者の懐の財布を「道ならぬことなれども」とわかってはいるが「天より我に与ふる金」だと道を踏み迷い、仇討ちの御用金として奪ってしまう。その財布と金が、おかるが身売りして得たものを義父が運んでいたと判明し、勘平は義父殺しの犯人になってしまいます。そのうえ、由良助側からは、主君に不義不忠をした者からは受け取れない、と御用金を突き返されます。
 忠心は人一倍強いのに、主君の仇討ちにまったく合流できない勘平。要所要所でダメな行動を取ってしまう自分が悪い、とはいうものの、タイミングの悪さと、返ってくるダメージの大きさは、勘平本人の責任をとてつもなく上回っている気がします。勘平の苦難、追い込まれ具合に、理不尽、不条理を感じて同情してしまうのです。
 それでも勘平は忠心を貫いて、ある意味で武士の本懐を遂げることができます。

 一方のおかると兄・平右衛門は、一力茶屋で遊蕩三昧の由良助に関わっていきます。
 舞台は祇園のあそび茶屋。遊女たちが歌い笑いさざめく気配が伝わって華やかです。演出上も賑やかな工夫に富んでいて、登場人物一人に太夫さんが一人付いて掛け合いで進行します。平右衛門担当の豊竹藤太夫さんは下手に座って床本なしで溌溂と語ります。趣向が楽しいです。
 ちなみに、本筋には関係がないことですが、おかるは何かを頼まれると「アイ」と答え、平右衛門は「ネイ」と答えます。
「聞き分けて命をくれ」「アイ」「死んでくれ」「アイ」
「来いよ来いよ。コレ」「ネイ」「コレ」「ネイ」「コレコレコレ」「ネエイ」
 ネイ、は身分の低い者がする返事の言葉で、今の「ハイ」や「ヘイ」に当たるそうです。わかりましたか? ネイ。
 ちょっと流行らせようかな。

 閑話休題。それはさておき。
 平右衛門は由良助に相手にされず、おかるは密書を読んだと知られて殺される窮地に。勘平同様、忠義の心情はお武家様たちには届かないのか……
 通し狂言の中盤です。浪人で猟師、遊女、足軽といった当時の身分の低い人々の苦渋と活躍を描くことで、市井の人々である観客を、自分たちの目線で忠臣蔵に参加させる。今公演の五段目から七段目にはそんな働きがあるようです。
 お武家様たちに仇討ちを成功させてあげたい。観ていて、忠臣蔵の世界がぐんと身近になります。

 由良助の存在感が圧倒的です。前回「城明渡しの段」でも、ほぼセリフがないのに、仇討ちへの意志を強烈に印象づけて、この男なら必ずやるぞ、と観ていて気持ちが先へひっぱられたものです。
 一力茶屋の由良助を、豊竹呂太夫さんと桐竹勘十郎さん。胸中の信念を隠しての、そらっトボケた蕩尽の底には、ヒーローの力強さと凄みがあります。それが七段目の最後に、爽快感と、次回への期待感へとつながっていきます。
 ああスッキリした。次回はいよいよ討ち入りだ。令和の私もそんな気分で劇場を出ました。
 楽しみです。

■三咲 光郎(みさき みつお)
小説家。大阪府生まれ。関西学院大学文学部日本文学科卒業。
1993年『大正暮色』で第5回堺自由都市文学賞受賞。1998年『大正四年の狙撃手(スナイパー)』で第78回オール讀物新人賞受賞。2001年『群蝶の空』で第8回松本清張賞受賞。大阪府在住。

(2019年7月20日第二部『通し狂言 仮名手本忠臣蔵』(五段目より七段目まで)観劇)