文楽かんげき日誌

「すしや」の勘違い

 

金水 敏

『義経千本桜』は「渡海屋・大物浦の段」「河連法眼館の段」は鑑賞したことがあったが、「すしやの段」は文楽でも、また歌舞伎でも見たことがなかった。それで、令和5年初春公演で「すしやの段」初鑑賞となったのである。この年になると、そこそこ有名な演目は何らかの形で見てきたので、初鑑賞はなんだかうれしい。

これまで、あらすじなどを読んで、すしやの息子の「いがみの権太」という嫌われ者が、最後に善人になって死んでいく話という漠然とした理解はあった。ところがそのイメージに大きな間違いがあったということに、今回気付いた。「すしや」という名前の漠然とした印象で、てっきり江戸前寿司のようなものを思い浮かべていたのである。「渡海屋」とごっちゃになって、海辺の話と思い込んでいたところもある。歌舞伎の権太が江戸っ子風であるということも知識として入っていて(公演プログラムに掲載された、犬丸治氏の解説も参照)、そのことがさらに私を混乱させていたかも知れない。むろん、これは大きな誤りであった。舞台は吉野の下市村(現在の奈良県吉野郡下市町)、そしてここでいう「すし」とは、鮎の「なれずし」だったのである。

この「すし」違いのことについて説明する前に、「すしやの段」について簡単に振り返っておこう。前は豊竹呂勢太夫さんと鶴澤清治さん、切は豊竹呂太夫さんと鶴澤清介さんによる。

平家が一ノ谷の戦いに敗れて都落ちをした際に、行方不明になっていた平維盛は、下市村のすしや「つるべすし」の当主・弥左衛門にかくまわれ、名前も弥助と変えて、弥左衛門の娘お里に婿入りの段取りとなっていた。そこに、弥左衛門に勘当された無法者の権太が父親の不在を確かめて金をせびりにやってきて、母親から銀三貫目をせしめたが、父が帰ってきたので慌ててその金を店にあった空のすし桶に隠し、奥に隠れる。そうとは知らず、帰宅した弥左衛門は、やはり空のすし桶に、何かを隠し入れる。実は帰宅途中、維盛の妻子を守って討ち死にした小金吾の死骸に偶然出会い、その首を討って持ち帰り、その首をすし桶に隠したのだ(すしやなのに、商売物のすし桶に生首を入れるなんて、客にとっては迷惑行為もいいところだ。現代だったらとんでもないスキャンダルである)。

弥左衛門は改めて弥助、すなわち維盛を呼び出し、梶原平三景時の探索が迫っているので、維盛に自分の隠居所に隠れるよう勧める。弥左衛門にとって維盛の父、重盛は大恩人であり、その恩返しのために、妻以外には娘にさえ維盛のことを明かさず、いままでかくまってきたのだ。先ほどの小金吾の首は、維盛の身替わりに景時に差し出そうと考えていたのである。

そこに、維盛の妻・若葉の内侍と子・六代君が宿を借りに立ち寄り、維盛と再会を果たす。維盛と妻子は上市めざして家を出るが、奥で聞いていた権太が、維盛を捉えて景時に突き出し、褒美を得ようと、銀の入ったすし桶を抱えて飛び出していく。

ここで梶原平三景時が現れ、弥左衛門に維盛を出せと迫る。弥左衛門は、維盛を討ったと偽って首を見せようとすると、すし桶に入っていたのは銀三貫目。権太が金の入ったすし桶と間違えて、小金吾の首の方を持っていってしまったのだ。

やがて権太が若葉の内侍と六代君を縛って連れ帰り、抵抗した維盛を討ち取ったと言って景時に首を見せる。景時は首を検めた上、褒美の陣羽織を権太に与え、若葉の内侍と六代君を連れて帰っていく。激昂した弥左衛門は権太に刀を突き立てる。虫の息の中で権太が笛を吹くと、維盛と妻子が現れる。実は権太は以前より改心の機会を伺っていて、親をも欺いて維盛一家を救い出したのである。若葉の内侍と六代君と偽って景時に渡したのは、権太の妻子の小仙と善太であった(文楽・歌舞伎によくある、自分の家族を貴人と偽ってお上に差し出す、現代人には理解しにくいパターンである)。また、すし桶は小金吾の首入りと気づいて、今の維盛(弥左衛門)の姿に似せて首級の月代を剃ってきたのである。

このどんでん返しにも驚くが、さらに上手だったのが梶原平三景時、そしてその主君の源頼朝である。景時が与えた陣羽織を維盛が引き裂くと、中から袈裟衣と数珠が現れる。かつて重盛に命を救われた頼朝が、維盛を助けて出家させようと考えていたのである。景時が小金吾の首を維盛であると認めたのも、偽首と承知の上のことであった。若葉の内侍と六代君に付き添って高野山に旅立つ弥左衛門に、女房は「ナウコレつれない親父殿、権太郎が最期も近し、死に目に逢うてくだされ」と懇願するが、弥左衛門は「エヽ現在血を分けた倅を手に掛けどう死に目に逢はれうぞ(中略)。息あるうちは(中略)助かることもあらうかと思ふがせめての力草」と振り払って去って行く。この部分、呂太夫のさんの気持ちの入った語りが胸に迫る。

さて、お金(銀)と首の取り違えの小道具として大活躍のすし桶であった。現在、すし桶と聞くと、平たい飯台(飯切)を思い出す方が多いと思うが、「すしやの段」で出てくるのは、いわゆる手桶の形をしており、首を入れるのに丁度いいと言えばいい。つまりこれが、鮎のなれずしを漬けておく、当時のすし桶なのである。なれずしとは、塩漬けにした魚を塩抜きしたあと、米の飯に漬け込んで何日も発酵させた食べ物である。古代に東南アジアから入り込み、平安時代の『延喜式』に存在が確かめられる。現在では滋賀県のフナズシが最も有名であるが、各地にアユ、オイカワ、ハタハタ、サバ等のなれずしのバリエーションが残っている。現代の我々には、発酵臭がきついものもある。『義経千本桜』が上演された18世紀中頃では「すし」と言えばなれずしに決まっていたのだ。今のような、酢飯と鮮魚を使う江戸前寿司は19世紀に誕生したものであった。「すしやの段」の冒頭の床本を読むと、なれずしであったことがはっきりする。

春は来ねども花咲かす、娘が漬けた鮓ならばなれがよかろと買ひに来る
風味もよし野下市に売り広めたるところの名物、釣瓶鮓屋の弥左衛門、留守のうちにも商売に抜け目も内儀がはや漬に娘お里が片襷(だすき)、裾(すそ)に前垂れほやほやと愛に愛持つ鮎の酢(すし)、押さへてしめてなれさする、うまい盛りの振袖が、釣瓶鮓とはものらしゝ

という訳で、私の「すしや」の勘違いは66歳の正月に解消された。今でも下市町には「つるべすし弥助」というお店が残っていて、名店として知られて繁盛しているそうだ。鮎の姿寿司も出しているが、その鮓は当時のなれずしではなく、酢飯に鮎の開きをのせてしめた、現代の私たちにも食べやすい押寿司である。

 

■金水 敏(きんすい さとし)
放送大学大阪学習センター所長、大阪大学・大学院文学研究科名誉教授、日本学士院会員。1956年、大阪生まれ、兵庫県在住。専門は日本語史および「役割語」研究。著者に『日本語存在表現の歴史』(ひつじ書房、2004。新村出賞受賞)、『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』(岩波書店、2003)、『〈役割語〉小辞典』他。

(2023年1月4日第一部『良弁杉由来』、第二部『義経千本桜』観劇)