文楽かんげき日誌

武骨で神々しい弁慶

中沢 けい

 とても素晴らしい舞台を見せてもらいました。「勧進帳」。武骨で神々しい弁慶でした。紫と緑の衣装の義経はいかにも御曹司という感じ。まず幕が開く前に居並んだ太夫と三味線のみなさんの裃の色が、都から北陸へと抜けて行く琵琶湖の道を思わせるものでした。

 都にようやく春の気配が漂う季節、琵琶湖の岸を北上すれば湖北はまだまだ冬のさなか。湖北の空は晴れてはいても、なんとなく雪の気配を漂わせる。ちゃんとした色名があるのだろうけど、その名前を知らないので「勧進帳」の幕が開く前に並んだ三味線7人太夫7人のそろいの裃の色に北陸へと進む道中の空の色を思わせる色。青い地に白い霰のような模様が散っているのも美しい。着物の色名や文様の名前をもっとたくさん知りたくなります。幕があけば能舞台のしつらえ。松が描かれた鏡板に揚幕の畏まった感じが、弁慶一行の登場に緊張したものでした。

 ネタバレという言葉を知ったのはいつ頃だっただろう。書評や映画評などに「ネタバレ注意」の表示を見かけるけれども、どうも私はこの言葉が好きになれない。「ネタバレ?それがどうした」と聞きたくなる。物語の筋や結末が分かったからと言って、何か不都合があるのかしら?と首をかしげたくなる。なにしろ、気にいった本は何度も繰り返し読むのが好きだし、映画やドラマも同じものを何度も見る。好きな場面を「さあ、くるぞ、くるぞ、ああ!きたぁ~」とみるのが大好きなのだから「ネタバレ」大歓迎です。

 「勧進帳」は能として上演され、歌舞伎で演じられ、それがまた明治になって文楽でも上演されるようになったそうで、どのかたちで上演されても、見る人をわくわくさせるものがある芝居の代表的なものと言ってもいいのかもしれません。そのような演目のわくわく感をなんと説明したらよいのか、私にはうまい言葉が見つかりません。伝統芸能というのは、よく知っているはずのものと新鮮に出会いなおすというものなのかもしれません。

 まだまだ冬の気配が抜けない湖北から海の岸へと降りれば、そこは春の訪れが感じられる景色の季節感が詞章の中で語られ、能舞台の様式と合わさる時、想像力を刺激する恭しい空間が広がりました。

 勧進帳を読み上げろと富樫が弁慶に命じるところ。弁慶が巻物を広げ朗々と勧進の趣旨を読み上げるところと、ほんとに何度もいろいろな形で見た筋書きが、人形の動きとともに心地よく展開します。富樫が弁慶に山伏の衣装の謂れを質問する場面では、北陸の海辺で過ごす関守が、都からの旅人と知的な問答をする喜びが滲しんでいました。質問に答える弁慶は、せいいっぱいの知恵を絞っている様子。弁慶を使う3人の人形使いがそろって紋付袴の畏まったいでたち。畏まったいでたちこそ、弁慶が安宅の関でうった大芝居を支えているのも。おもしろく見たあとで、強力が義経と見破られそうになり、弁慶が御曹司を激しく打ち付けるという場面。と、どうも筋を追うだけになってしまいますが、このあたりまでは、知っているつもりのお芝居を安心してみていると、いきなり鏡板が外れ、能舞台の様式化された老松の背景が青海波の文様となったところで、北陸の海辺に連れ出された心地に誘われました。洋式化されたものとリアルな景色の中間と言えばよいのでしょうか。無事に関を通りぬけた一行を追いかけてきた富樫が酒をふるまう場面の伸びやかさ。

 実を言えば文楽の人形には胴体がないということが私は信じられないのです。もちろん、衣裳を着せていない人形を見れば、頭、手、足の部分があり、胴体そのものは空洞に近いのは理屈では分かっているのですが、舞台を見ているうちに、どうしても人形の暖かな胴体、血の通った胴体、魂がこもった胴体が出現するのを目の当たりにしている気分がひしひしと湧いてきます。

 「勧進帳」の幕切れで、弁慶が花道をひっこんで行くところは、暖かな胴体、血の通った胴体、魂がこもった胴体の感じがひしひしと伝わってくるのでした。人形を遣う3人の人の紋付に袴という畏まったいでたちはこの場面のためにあったのかと納得。太夫、三味線の裃、鏡板から青海波への舞台の転換、それらが都から北陸への空間を劇場いっぱいに広げるなかで、弁慶の存在がひときわ大きく広がる幕切れの花道でした。生身の人では表現できない不思議な力に突き動かされている存在をして弁慶を感じることができる場面でした。空間と存在が一体になる、そんな感じとでも申しましょうか。武骨で神々しい弁慶を見せてもらいました。そして春の浅い頃に都から北陸へ抜ける旅をしてみたいものだという望みが私の胸の中でうごめきました。春浅い頃に旅をすれば、奥州へと落ち延びて行く弁慶を一行を見ることができそうな気持がしてくる舞台でした。

■中沢 けい(なかざわ けい)
作家。法政大学教授も務める。1959年生まれ。高校在学中に書いた「海を感じる時」で群像新人文学賞を受賞。1985年『水平線上にて』で野間文芸新人賞受賞。著書に『野ぶどうを摘む』『女ともだち』『豆畑の昼』『さくらささくれ』『楽隊のうさぎ』『うさぎとトランペット』など。千葉県出身。

(2022年10月21日第三部『勧進帳』観劇)