国立文楽劇場

男はつらいよ…でいいの? -令和四年十一月公演に思うこと-

森田 美芽

令和4年もいよいよ充実の秋を迎え、11月公演は『心中宵庚申』『一谷嫰軍記』『壺坂観音霊験記』『勧進帳』と並ぶ。今回は「男はつらいよ」の演目やなあ、と直感した。

まず、『心中宵庚申』の半兵衛。半兵衛を縛る、「武士」としての「主従関係」の倫理。町人の中でも、親子関係が主従のようになることで起こった悲劇である。彼は嫁と姑の対立に、手も口も出せない。愛する妻が自分の知らないうちに姑去りの仕打ちを受けているのに、最初はそれにも気づかない。この男、どこか肝心のところで、女同士の対立を理解する心情が抜けているのではないだろうか。あるいは、そうした理屈を超えた葛藤をうまくさばく大人の知恵が感じられない。現代でも嫁姑の対立は永遠の課題であるが、この男は常に、養母である姑の方に気遣い、絶対服従である。でもマザコンとは違う。親に従うのが封建道徳だから。嫁は忍従あるのみ。

 不思議なところは、普通はどんなに嫌いでも、嫁に子どもができれば、家の存続のために何らかの和解ができるし、跡取りを産む嫁の立場は強くなる。だが、この姑には、そうした影すらない。お千代と姑が、そりが合わないのは、「八百屋の段」の短い二人の動きを見てもわかる。これはどちらが悪いというわけでもない、ただ致命的に相性が悪い、としか言いようがないのだ。これは理屈を超えている。なのに、半兵衛は、母に服従するという形で妻に去り状を渡す。それがお千代を深く傷つける行為であるとわかっていても、彼には義母に逆らうという選択肢はない。

 それに対しお千代の父島田平右衛門は、明日をも知れぬ命でも娘を案じ、「灰になっても帰るな」と叫んでいた。娘への思いやりが仇となり、半兵衛は、いわば義父の遺言を守るためにも、自分の家にも妻の家にも戻れず、心中の道を選ぶ。恋の勝利でも、二人だけに分かる愛の絆でもなく、「この世の外ならどこへでも」という、切ない逃亡劇。いや、今流に言うなら、妻と子に対する一方的なドメスティックバイオレンスではないか。自分だけ武士のつもりで義理を立てるのはいいが、妻と子どもはどうなるのだ、と言いたくなるが、そんな男でも夫との絆を失いたくないお千代がもっと哀れに感じる。なぜ彼は、頑なに武士であり続けようとしたのか。無論、町人とて自由ではなかったが、彼の言葉の端々に、彼の不幸な境涯が見える。忠孝の模範を示すべき武士の誇り、それにこだわらなければ、三人で助かる別の道があったのでは、と思える。

 『一谷嫰軍記』の熊谷直実。この三段目は弥陀六との対決が中心になるが、それは平家の残党と院の忘れ形見である敦盛に関わる葛藤である。熊谷は源氏方の武将だが、16年以上前、相模と通じたことがばれて、藤の方の執り成しで逃れ、一子小次郎を持つことができた。しかしその藤の方の子、敦盛を合戦の最中に殺すことになってしまった。そこまでは確かに葛藤はあれど武士としては当然の行為であり、殺される敦盛も、卑怯未練と言われることよりも潔い死を選ぶべき立場にある。問題は、主君義経が、「一枝を伐らば一指を切るべし」との制札になぞらえ、敦盛を救うために、熊谷に一子小次郎を身代わりにせよと命じたことである。こんな惨い命令があるか、と、相模は言いたかっただろう。だが当時としては院の末裔を死なせることはできない、という論理が最優先される。さらに藤の方には恩もある。二重三重の義理の縛めにがんじがらめにされ、自分の息子を身代わりにする。

実はこの身代わり劇は、この場ではすでに終わってしまっていて、その謎解きをするのがこの「熊谷陣屋の段」であり、その現場である「陣門の段」「組討の段」を見ていないと、この身代わり劇の悲劇性はもう一つ感情移入しにくい。だが、首実検の場で、涙も見せず義経に対峙する熊谷の思いは、それを受け取ったかのような妻の相模の、押し殺したセリフに明らかだ。

 死者は物言わない。ただそこにあることで、そうした理不尽を糾弾している。「十六年も一昔。夢であつたなあ」の熊谷の目に涙を見たような気がした。でも、そうなってから涙してももう遅い。「未来は一つ蓮で」と言っても、その未来を信じない者には、ただの「子殺し」にすぎない。日本で言う親子心中は、海外から見れば子殺しにすぎないように。昔のことだから、諦めざるを得ないにしても、やはり「未来」を信じないではいられないのだ。私は出家した熊谷以上に、相模のその後が気になる。やはり出家したとしても、弔うのは息子の菩提だけで、夫ではない気がしてならない。

 『壺坂観音霊験記』の沢市。これが鬱陶しい、と言っては失礼だが、なぜお里がこんなに惚れこんでいるのかわからない。盲目ゆえに男のプライドに関わる稼得能力に自信が持てないせいか、お里の行動がおかしいと思っても問いただすことすらできない。それでいてお里を失いたくない。その表し方があまりにも子どもっぽく、すねるような態度で妻の真意を質すと、意外にも自分のための夜ごとの壺坂参りであると。そして態度を変える素直さも可愛い。だが本当は、彼はここでお里を自由にするために自死を決意している。不器用なまでのお里への思い。だがお里の方は、予想に反して沢市の跡を追う。結局は観音の霊験ですべてが解決するわけだが、彼は目が見えることで、プライドを取り戻せただろうか。それまでの自分をどう見ているのだろうか。

 最後に『勧進帳』の弁慶。弁慶にはそうした家族と義理の葛藤がない。彼には主君義経こそが唯一の家族のようなものではないか。(『御所桜堀川夜討』では一人娘の話が出てくるが、これも忠義のために殺しているという設定。)だから両者は一体であり、彼はひたすら主君のために、という論理で一貫している、ある意味単純すぎるほど単純である。だから富樫との対決の丁々発止の迫力や、花道の飛び六法を楽しめばよい、という気になる。勇壮で大きな舞。だが、それもつかの間の安息にすぎない。この男は、主君が陥っている苦境の原因が何であれ、とことん義経に仕えるだろう。たとえ破滅とわかっていても、彼には主君に殉じる他はない。富樫も止めることができなかった。そう思ってみると、富樫は実に有能だが、彼らの最期を美しく飾るお膳立てをしてくれたのかもしれない。

文楽の男たち。やせ我慢が得意で、ええかっこしいで、ほんまは心優しい男たち。彼らが心ならずも家族を犠牲にする。顔で笑って心で泣いて。でも本当にそれでいいの?と私は問う。でも彼らは葛藤を抱きつつ、忠義という名の残酷な自己否定を選ぶ。だからこそ哀れで、愛おしくて、やるせない。

■森田 美芽(もりた みめ)
大阪キリスト教短期大学前学長・特任教授。専門は哲学・倫理学 大阪大学大学院博士(文学)キリスト教と女性と文楽をテーマに執筆を続ける、自称「大阪のおばちゃん哲学者」。

(2022年11月5日第一部『心中宵庚申』、第二部『一谷嫰軍記』
11月6日第三部『壺坂観音霊験記』観劇)