文楽かんげき日誌

遥かな夜に思い巡らせ

青柳 万美 

 「お帰りなさい!」ようやく大阪に文楽の公演が帰ってきてくれました。
 8月の公演の後、ちょっぴり物足りない日々だったのは、人形浄瑠璃文楽にどっぷり浸れる1日がなかったからかもしれません。そんな秋の1日の感想を綴らせていただきます。

 今回の公演内容は第1部の『心中宵庚申』から組み立てられたそうです。
ちょうど300年前の4月6日に起きた、夫婦の心中事件をもとに作られた作品で、同月22日に竹本座で上演されています。

 悪人の出てこないお話で、むしろ皆が良い人です。
誰も悪くないのに歯車が狂い命が失われてしまう、ドラマとしての盛り上がりは弱いかもしれませんが、現実はそうなのかもしれません。非常にリアリティある物語です。
 とはいえ、かしら(首)では主人公・半兵衛の養母(役名:伊右衛門女房)に悪婆が使われ、意地悪そうな目つきのおばあさんです。
 『舌切雀』の強欲なお婆さんとは違い、こちらは武士の子を5歳の時から引き取り、町人として仕込み、さらには養子にし店を継がせる、そんな人物です。自他に相当厳しいキリッとした女性と思われます。それが悪婆の顔・・・意思のはっきりした女性って300年前からそんな役回りなのでしょうか。

 この物語のヒロインは半兵衛の女房お千代。全く男運がないということ以外普通の女性です。
今度こそ離縁されないようにと、おそらく甲斐甲斐しく立ち回ったお千代は所謂「愛されキャラ」(過去2度の離縁の理由も夫が原因)で、姑としては理屈を超えたところでどうにもならない苛立ちがあったのかもしれません。
 お千代も、周りが優しいからこその不幸です。
年老いた父は「今度こそ幸せに、今度こそ離縁にならないよう」と願い、夫に頼んでくれる。姉も厳しいことは言うけれど、自分の味方をしてくれる。夫も慈しんでくれる。お千代が「どうして私だけがこんな不運ばかり!!」と憤ったりできれば違う結末があったのに、ね。

 唯一、この物語で悪いとすれば「武士マインド」と言えるでしょう。
主人公の半兵衛は武家の出として切腹しようとします。
 そして舅(お千代の父)と死ぬまでお千代と添い遂げると約束した義理と、養母との義理との間で身動き取れなくなってしまいます。
 一旦お千代を離縁することで養母に義理を果たし、共に死ぬことで舅との約束を果たす。武士の出として誇らしく在りたいとする半兵衛の心が死へと追い詰めたのかもしれません。
 奉公に出て養子となり必死に町人として生きた青年の支えでもあった誇り。死を前にしてお千代に語る言葉を養母が聞けば悔しく哀しいでしょう。そしてそんな彼の心を養母は感じ取り、それがお千代に向かったのかも知れません。

 武士の誇り、武士の理論。
その悲劇は第2部『一谷嫰軍記』でも描かれます。直実親子の悲劇は胸が詰まります。
 一方、武門を離れた弥陀六に育てられた平家の姫君と院のご落胤敦盛の未来を思うと僅かばかりでも希望が感じられます。
 第3部の『壺坂観音霊験記』も観音様のご加護はもちろんのこと、沢市とお里という市井の夫婦だからこそ得られた幸せです。
 人形浄瑠璃文楽、その戯曲の魅力の1つは市井の「生きてこそ」という逞しさです。

 終演後、外に出るとちょうど1580年以来の天体ショーのクライマックスでした。
三味線が登場した頃ですね。
 あの頃の月を見上げていた人たちの生きるエネルギーが三味線に託され、戯曲となり、義太夫になり、私たちに届けられている。月を見上げてそのように思われました。

 

■青柳 万美
大学卒業後、NHK高松放送局、NHK大阪放送局に勤務。リポーター・キャスターとして、生活情報のほか、伝統工芸や古典芸能にまつわるインタビュー企画など作成。MBSラジオ『あどりぶラヂオ』やFMひらかた『おはラジ TUE』で歌舞伎をテーマに話すなど、古典芸能に馴染みのない人へ向けたきっかけ作りを大切にしている。その一環として会員制オンラインサロン Petit Foyer 歌舞伎倶楽部 を主宰。MBSラジオ『日曜コンちゃん おはようさん』 、タカラヅカ・スカイ・ステージ『NOW ON STAGE』などに出演。

(2022年11月8日 第一部『心中宵庚申』、第二部『一谷嫰軍記』、
 第三部『壺坂観音霊験記』『勧進帳』観劇)