文楽かんげき日誌

魂送(たまおく)り

髙田 郁

 以前にも「かんげき日誌」の中でちらりと書かせて頂いたのですが、殺しを題材にした物語が苦手です。心中物も正直、あまり好みません。「心中天網島」は子どもの頃、岩下志麻さん主演の映画で観たことがありますが、あまりの恐ろしさ、悲しさに「二度とかかわるまい」と思ったほどでした。しかし、この度、夏休み文楽特別公演第二部でその「心中天網島」を観ることになるのですから、巡り合わせというのは面白いものです。
 私事ですが、その一週間ほど前に、六年半続いたシリーズものの時代小説「あきない世傳 金と銀」の最終巻の原稿を手放したところでした。魂が抜けたような、身の置き所のなさを持て余しておりました。今回の演目の中に「心中天網島」を見つけた時、「今なら心中物も大丈夫かも知れない」と思い、国立文楽劇場へ足を運んだ次第です。
 遊女小春十九歳、紙屋治兵衛二十八歳。網島の大長寺で実際に起きた情死事件を脚色した作品で、作者は近松門左衛門。近松の最高傑作とまで評するひとも多くいます。
 何処までが事実かは謎ですが、近松は宴席で事件を知り、その場で戯作を依頼されたため駕籠で帰路につく途中、最終段の「道行名残の橋づくし」の書き出しを思いついた、と伝えられます。クライマックスから書き始めて、あの物語を構築したとすれば、筆力は勿論、その構成力も恐ろしいほどです。
 物語は「心中を決意した男女と、何とか思い止まらせようと腐心する者たちの、愛憎と忠義の人間模様」と簡単にまとめてしまって良いものかどうか。詳細については、舞台をご覧頂くこととして、終盤の「大和屋の段」に至るまで、私は治兵衛に苛立ち通しでした。
 天満で紙屋を営む治兵衛は、二年の間馴染んだ遊女小春と心中の約束をしています。出会ったばかりの頃、小春は十七歳。当時は数えですから、満年齢だと十六歳ということになるでしょう。治兵衛には従妹同士で結ばれた女房のおさん、それに勘太郎とお末という幼い我が子が居ます。お末はまだ乳飲み子なのですよ。この情況だけでも、治兵衛に対するイライラのスウィッチが入ります。
 治兵衛を思い止まらせようとするのは、治兵衛の女房のおさんと、実兄の粉屋孫右衛門です。この両名が何とも健気なのです。
 女房のおさんは、愚か者の亭主に代わって商いを守り、二人の子を慈しんで育てています。そして、周囲には内緒で、小春に夫の命乞いをする文を送っていたのです。その文を心に刻み、一度は心中を止まる決意を固める小春。侍に化けて廓の客として現れた孫右衛門に、そうとは知らずに「心中したとしたら、私一人を頼りとしている母親はどうなるのか」と悲しい胸の内を打ち明けました。
 バカなのは治兵衛です。小春の気持ちに気づかぬまま、心変わりを責めたてて、兄の眼前で小春を罵り、殴る蹴る。いやはや、大したDV男振りを発揮するのです。女と切れたところで、商いに身を入れるのか、というと決してそうではない。女房に店を任せて昼日中から炬燵でゴロゴロ。もうね、「このクズをどうしてくれようか」と舞台に見入りながらもグッと拳を握り締めていましたとも。
 二十八歳にもなる男、こいつさえ己の分を弁え、大切にすべきものを見失わなければ、ああいう結末には至らないだろうに。切歯扼腕とはかくばかりか、と思うほどに、ぎりぎりと歯噛みして観劇していました。
 見栄っ張りで浅はか、この上なく愚かな治兵衛ですが、大和屋を抜け出した小春と抱き合い、手に手を取って「北へ向かうか」「南へか」と惑うその姿を見た時に、流石の私も「ああ、もう戻れない」と漸く腹を据えました。
 それまで太夫一人に三味線一人だったものが、最後の「道行名残の橋づくし」では、太夫五名、三味線五名が勢揃い、凄まじい迫力で治兵衛と小春の死出の旅が語られます。近松の名文として誉れの高い段ですが、橋の名を織り込んだあとの、「泣き顔残すな」「残さじ」の場面は真骨頂。
 舞台に魅入られながら、その時、私の脳裏をよぎったのは「魂送り」という言葉でした。古く、葬送の際に、肉体とは別に魂を送るために、例えば通夜の最後、笠や杖を用意する儀式があったと聞きます。太夫の謡と三味の音は、治兵衛と小春の魂をあの世へ迷わず送るためのもの、まさに「魂送り」そのものに、私には思われてなりませんでした。
 心中事件が起きたのは、三百二年前のこと。
死を選んだ治兵衛と小春ですが、舞台の度に、魂送りをしてもらっていたに違いありません。
苦手なはずの心中物でしたが、いやあ、観て良かった、と心から思う「心中天網島」です。どうか皆さま、是非ともご覧くださいませ。その際、イヤホンガイドをレンタルされることを強くお勧めします。物語の背景を知ることで、舞台の味わいはぐっと深まります。
 ところで、イヤホンガイドでは「治兵衛」と、その恋敵の「太兵衛」、字面は近いのに、アクセントが違うんですよ。両者を混同しないように、という配慮なのか、はたまた、かつてはそのような抑揚だったのか、気になる所です。これも是非、イヤホンガイドでお確かめくださいませ。

■髙田 郁(たかだ かおる)
兵庫県宝塚市生まれ、中央大学法学部卒業。 漫画原作者を経て2008年に「出世花」にて時代小説に転身。著者に「みをつくし料理帖」シリーズ、「銀二貫」、「あい 永遠に在り」などがある。六年半続いた「あきない世傳 金と銀」シリーズの最終巻となる第十三巻は、近日発売予定。

(2022年7月21日第二部『心中天網島』観劇)