イベントレポート

あぜくらの集い
「忠臣蔵―義士引揚げの道をたどる」バスツアー

開催日:平成28年10月22日(土)・24日(月)

国立劇場開場50周年記念の10月・11月・12月歌舞伎公演『通し狂言 仮名手本忠臣蔵』全段完全通し上演にちなんで、吉良邸から泉岳寺まで、赤穂義士の足取りをたどるバスツアーを開催致しました。中央義士会理事長・中島康夫氏のご案内で、「忠臣蔵」の虚実が垣間見える充実した一日となりました。


両国から出発!

義士たちが本懐を遂げた旧吉良邸

バスツアーは両国駅から出発し、仇討ち事件の地、旧吉良邸へと向かいます。墨田区両国三丁目に本所松坂町公園として残る吉良邸跡は、現在では三十坪ほどですが、当時の吉良家上屋敷は約三千坪という広さでした。元禄十四年(一七〇一)三月の浅野内匠頭による刃傷事件のあと、吉良上野介がこの屋敷に移り住んだのが同年九月。「以前の吉良さんの屋敷は、今の東京駅の真ん前にありました。ところが討入りを恐れた周りの大名屋敷から苦情が出て、少し離れたこの地に移されたのです」と中島氏。


都指定旧跡の吉良邸跡

翌年元禄十五年(一七〇二)十二月十四日(十五日未明)、大石内蔵助ら四十七士が吉良を討ちます。「朝四時に討入り、六時に終了です。映画では門を開けて入りますが、実際には全員が静かに塀を乗り越えました。ところが吉良さんは部屋から逃げていて、布団がまだ温かかった。義士はその場に〈寝間まで押し入ったが上野介殿おり申さず〉と書き残しています」。

三人一組による兵法、池に落ちた義士のこと、内蔵助は討入りの時に太鼓を叩いていないことなど、芝居の世界と史実との相違点に、参加者の皆さんも興味津々。中島氏の熱くユーモラスな解説によって、討ち入りの様子が鮮やかに目に浮かんできます。討ち入り前には精力がつく“なた豆”を、引揚げ時にはミカンと餅を皆で食べ、医者を帯同して事前に血止めの薬も配るといった、内蔵助の周到な気配りにも驚かされました。

万年橋から旧浅野内匠頭邸

バスは隅田川に沿って南下します。隅田川につながる小名木(おなぎ)川に架かる万年橋でも中島氏に解説していただきました。吉良の首を掲げて一行が万年橋にさしかかる頃は、周囲はまだ真っ暗。映画や芝居でよく見られるように内蔵助が行列の先頭を歩いたわけではなく、義士たちは槍の先や刀にさらしを巻いて引揚げたそうです。「実際には武器も着物もバラバラでした」と中島氏。袖の合印は付けていたようですが、揃いの装束は、やはり物語の世界ならではというわけです。


万年橋で義士に思いを馳せる

築地で各自昼食後、集合した築地本願寺には親族によって埋葬された間新六(はざましんろく)の供養塔があります。


賑わう築地市場で昼食

築地本願寺の間新六供養塔

続いてバスは本願寺近くの旧浅野内匠頭邸へと向かいました。浅野家屋敷は約一万坪という広大さで、現在は聖路加国際大学の西側に石碑が立っています。大名屋敷は幕府から貸与されるもので、火事などを起こせば建て替え費用は自前とのこと。また浅野家は茨城県笠間の出身者が多く、〈赤穂浅野家〉とはいうものの、茨城の血が色濃く流れているというお話も意外でした。


浅野内匠頭邸跡

内匠頭の実弟・大学を立てて浅野家再興に力を注いだ内蔵助ですが、再興が却下されると吉良を討つことを決意します。その意を受けて、三々五々、江戸に結集する義士たち。内蔵助の巧みな人心掌握術についても中島氏にたっぷりお話しいただきました。

義士たちが眠る泉岳寺

さて、いよいよ引揚げの目的地、内匠頭が眠る泉岳寺へ。ここに至る頃には義士の後に続く町民の数も膨れ上がり、大行列になっていたそうです。


泉岳寺に到着

山門前で中島氏が、内蔵助が討ち入り前日に三人の僧侶に宛てて書いた手紙を披露してくださいました。「赤穂時代からの内蔵助の思いがひしひしと伝わり、読んでいると泣きたくなります」と中島氏。


大石内蔵助の書状を解説する中島氏

内蔵助は討ち取った吉良の首級(しるし)を井戸水で洗い、主君の墓前に供えて本懐成就を報告しました。その内匠頭の墓に刻まれた戒名には、〈正義の剣〉の意味が含まれていることが、近年の研究で判明したそうです。同じ墓地内にある内匠頭の妻瑤泉院(ようぜいいん)、四十七士の墓前にも、参加者の皆さんは線香を手向けました。


泉岳寺での墓参

またここには、討入り前に周囲の反対に遭って切腹した萱野三平(かやのさんぺい)の供養墓もあります。ご存じ、『仮名手本忠臣蔵』に登場する早野勘平のモデルです。つまり泉岳寺には、四十八の墓碑があるというわけです。

吉良の首が吉良家に返された際の〈首受取書〉など、貴重な資料や義士たちの遺品が納められた赤穂義士記念館を見学し、泉岳寺を後にしました。

義士切腹の地、旧細川邸

最後に訪れた細川家下屋敷跡は本来非公開。講師の中島氏のご好意で特別に訪れることができました。本懐を遂げた四十七士は、細川家・松平家・毛利家・水野家の四大名家に預けられ、翌元禄十六年(一七〇三)二月四日に切腹しました。そのうち内蔵助や礒貝十郎左衛門、堀部弥兵衛など十七名が預けられたのが細川家です。現在は集合住宅敷地内の一角に、雑木林と塀に囲まれてひっそり残る空間が、まさに十七名が切腹した場所。中島氏がつぶさに語る切腹の順番や作法のリアルさに息を呑み、皆さんは自然と手を合わせていました。


特別に公開された細川邸跡

赤穂義士に対する中島氏の情熱に圧倒されながら、忠臣蔵の真実に思いを馳せることができたツアーでした。同時に、いかに芝居の作者たちが史実をもとに想像を膨らませて書き上げたのかもわかります。「芝居を観る時に、本当はこうだったんだなと考えると、また違う面白さが感じられそうです」との声も。脚に自信のある方は、徒歩で引揚げの道をたどってみるのも一興かもしれません。

(取材・文/市川安紀)

あぜくら会ではこれからも会員限定の様々なイベントを開催してまいります。皆様のご参加をお待ちしております。

あぜくら会ニュースに戻る

国立劇場あぜくら会