国立劇場

国立劇場第165回 舞踊公演 「素踊りの世界-日本舞踊の技法を知る-」(3月13日) 特別対談【中編】
藤間蘭黄(日本舞踊家) & 町田樹(國學院大學人間開発学部助教)

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屏風を背に、紋付きなどの衣裳だけで「素踊り」を特集した舞踊公演〈素踊りの世界-日本舞踊の技法を知る-〉をテーマとする、藤間蘭黄さんと町田樹さんの対談の中編。日本と世界、言葉と音楽、パフォーマーと身体などの視点から、日本舞踊のほか舞台芸術の特質に焦点が当てられた(前編はこちら)。(以下、敬称略)

Nihonbuyoへの反応

蘭黄(以下、蘭):海外公演で同じ踊りをお見せしても、各国で反応は全然違います。一番驚いたのがハンガリー。当初は、素踊りの『都鳥』と、衣裳と鬘を付けるいわゆる歌舞伎舞踊の『山帰り』と、2演目を用意しました。『山帰り』は、鳶の頭の役で、ちょんまげ姿で宵越しの銭は持たない粋な江戸っ子です。すると先方から「衣裳をつけた(歌舞伎の)踊りはいらない。その代わり、素踊りを増やしてほしい」というご要望が来た。日本文化をよくご存じで、驚くほど多くの若者が、日本語を学んでいるんです。
 現地で学生さんたちと座談会をしましたら、みんな日本アニメの大ファン。ハンガリーだと、吹き替えではなく字幕放映だそうです。すると日本語を聞きながら、ハンガリー語を読み、自然と日本語が入ってくる。「日本語の響きが綺麗だから、勉強しようと思った」という声も頂きました。アニメの源流を辿ると、(葛飾北斎による)北斎漫画にたどりつき、浮世絵への興味も沸く。するとモチーフとなった歌舞伎や日本舞踊にまで興味が広がる。みなさん、歌舞伎や能、狂言、文楽までご存知なんです。「素踊りこそ日本舞踊だ」とおっしゃる方まで結構いて、私にリクエストして下さった。感激し、急きょ演目を増やしました。
 チェコも、文学を頭の中で想像して楽しむ文化がありました。日本とチェコの交流イベントがラグビー場で催され、芝の上に緑の絨毯をしいて、踊ったんです(笑)。素踊りの『都鳥』について、「想像力を刺激して、とても楽しい」というご感想を頂きました。さらに日本人のお客様から「何でこれを日本でやってくれないのか」という声を随分、頂きました。

教育における日本舞踊

蘭:青山学院大学に、留学生必修の「日本学」という講座があります。1年間かけ、様々な日本文化を学びます。アニメーションからお茶、お花、お能の授業もあります。私も15年ほど日本舞踊を担当していまして、90分の授業を2コマやっています。
 最初の授業では今公演のように、日本舞踊の起源から説明し、「傀儡師(かいらいし)」など一つの演目を細かく解説した上で、お見せします。翌週はお扇子を使い、一緒に踊ってみる。「見立て」を理解してもらうため、宿題として「みなさんの国の名物など特徴的なものを、お扇子で見立てて表現する方法を考えて」とお伝えします。すると一所懸命考えてきて、お扇子の使い方の理解が深まるんです。

町田(以下、町):美術やバレエなど、どのような芸術ジャンルであれ、鑑賞者教育は大事ですよね。見方が分からない、とっつきにくいと感じる人が多い中、ただ作品を提示するのではなく、深く作品を味わえるようにサポートし、新たな世界に誘う。蘭黄さんが今おっしゃった大学の授業や、今公演のような素踊りの解説は、これ以上ない鑑賞者教育だと思います。やはり日本舞踊を見たことがない方にとっては、今公演のような舞台の鑑賞経験を得たか否かで、その後の鑑賞の深度が全く違ってくると思います。

蘭:鑑賞者教育、私はかつて否定的でした。「いいものは見れば分かる、見方は別にいい」と思っていました。でも現代は、基本のキの字をご紹介しないと、いいか悪いかすら伝わらない。正に鑑賞者教育です。今はすごく大事だと思っています。

町:留学生への必修授業ではなく、ぜひとも全学生を対象にして頂きたいです。私は今、國學院大學の人間開発学部で、体育教員を目指す学生を対象に、バレエを中心としたダンスの授業を行っています。日本の義務教育課程では現在、ダンスが必修化されていて、創作ダンスとフォークダンス、リズム系ダンスがその対象です。フォークダンスは盆踊りやマイムマイムなど、日本はもとより、西洋文化も含む広い意味での民俗舞踊で、本来であれば日本舞踊もこの範疇だと思います。しかしながら残念なことに、このフォークダンスのカリキュラムには日本舞踊の学習は入っていません。自国の舞踊を学ぶ事を義務教育課程に入れると大分、違ってくるでしょう。フォークダンスで何を学ぶかは、割と現場に任されていますので、今後小学校や中学校で日本舞踊が体験できるような体育の授業が開発されることを願っています。
 日本舞踊は「鑑賞」するだけでなく、授業での「体験」のほか、「見立て」を楽しみ、「自国文化への学び」も深められる。私も日本のダンス教育における日本舞踊の位置づけを、考え直したいと、今のお話しを伺って感じました。

蘭:それはとても重要だと思います。どの国でも、自国の民族舞踊は、必ず教育課程に入っていて、入っていない国を探す方が難しい。なぜ日本に、それがないのか。まず、日本舞踊を知って頂かなくてはいけません。それには、教育現場に取り入れてもらうことが一番だと思います。

町:なにはともあれ、何事も一度体験することは大事ですよね。私も知らずに生きてきたので、もし小中高校生時代、日本舞踊を知っていたらフィギュアスケートの演技にも影響があったかもしれません。

蘭:そんな演技を拝見したかった (笑)。

振付の源 言葉か音楽か

町:私はこれまでフィギュアスケートやバレエの振付をして、自分でも踊ってきました。その観点から是非、蘭黄さんにお伺いしたいことがあります。
 バレエやフィギュアスケートは、すべて音楽に合わせて振り付けます。でも日本舞踊は言葉に振り付けていると、私は今回、素踊りを拝見して感じました。「当て振り」というのでしょうか、言葉と踊りが不可分な関係にある事に、衝撃を受けた。そこは大きな違いです。もちろん日本舞踊にも三味線など音楽はありますが、基本的に言葉に振りを当てるものだと感じたのです。

蘭:言葉が根底に流れているのは、実は舞踊に限った話ではなく、これこそ日本文化ではないか、と私は密かに思っています。舞踊の歌詞も、元を辿ると万葉集に出典があったりしますし、お茶道具の名前や組み合わせも、和歌や文学から取ってくる。お能は完全に謡ありきで、平家物語などに取材した演目が多いです。日本文化はずっと、文学的なパフォーマンスを行ってきた。しかもそれを教養あるお公家さんやお侍さんだけではなく、一般民衆も楽しんでいた。

町:つまり日本舞踊は、文学や言葉の視覚化(ビジュアライズ)されたものだという事ですね。バレエはルネッサンス期のイタリアに起源があり、貴族が自分の身体の美しさや宝飾品を綺麗に見せようと踊りにしたのが起源です。それが18世紀、ジャン=ジョルジュ・ノヴェール(1724~1810年)というフランスのバレエダンサーが、バレエ・ダクシオン(演劇的バレエ)を生んだ事から、今も世界で愛され続ける『白鳥の湖』が生まれたり、セルバンテスの『ドン・キホーテ』といった文学作品がバレエ作品として翻案され始めました。
 グランド・バレエ(物語性のある多幕作品)は往々にして文学作品と結びつくのですが、これも音楽に合わせて振り付けられます。シンフォニック・バレエ(交響曲に振付けられたバレエ)も、音楽のテイストを体で表す。やはり軸となるのは音楽で、そこが日本舞踊とは対極的に違います。
 フィギュアスケートも音楽に合わせて振り付けられてきた競技ですが、2014年、国際スケート連盟というルールを統括している団体が、ボーカル入りの音楽を解禁しました。それまでは声や言葉が入った音楽は使用禁止でした。今、フィギュアスケートの大会を見ると、ほとんどのスケーターが何かしら歌詞の入った音楽で滑っていますね。
 でも率直に言うと、ほとんどの場合、歌詞がないがしろにされていて、踊りとあまり連動していない。歌声が言葉ではなく、単なる音として捉えられているケースが多いです。周囲を見回しても、言葉と踊りが分かちがたく結びついているジャンルがあまりなく、アイドルやポップミュージシャンのグループパフォーマンスを見ても、リズムと音楽に合わせて踊っていると感じることが多いですね。だからこそ、言葉と踊りが不可分の関係にある日本舞踊はユニークですし、それこそが醍醐味ではないかと思いました。

蘭:1回ご覧になっただけでよくぞそこまで、ご理解下さって、本当に驚きました。逆に私の方が今、シンフォニック・バレエに相当する〝シンフォニック日本舞踊〟が作れないか、模索しています。
 日本舞踊はよく言えば言葉ありきですが、悪くいえば歌詞に縛られる。歌詞で「山」とか「風」とか言っているのに、お酒を飲んでいる振りをするわけにはいかない(笑)。『都鳥』のように男女の逢引きのシーンで、歌詞がBGMのようにずっと流れていく部分もありますが、ほぼ歌詞が踊りを限定します。
 歌詞なしで、日本舞踊の世界をお見せできないか。そこで、リストの約10分のピアノ曲『メフィストワルツ』に振り付けたり、バルトークのピアノ曲に合わせ、カフカの『変身』をテーマにした作品を作りました。
 逆に言うと、『メフィストワルツ』以前に作った作品は、ほぼすべて歌詞入りです。私が歌詞を書き、ロッシーニのオペラ『セビーリャの理髪師』を江戸時代に置き換えた『徒用心(あだようじん)』、ゲーテの『ファウスト』を日本舞踊化した『禍神(まがかみ)』も、私が歌詞を書いて振り付けました。今、5か国語(英・露・仏・独・ハンガリー語)の字幕を付けてYouTubeで無料配信しています。翻訳がものすごく大変でした。

日本舞踊の挑戦

蘭:「歌詞がなくても(日本舞踊として)いける」と手ごたえを感じたのが、2015年の『信長-SAMURAI-』です。全く歌詞がなく、三味線音楽ですらない。太鼓と笛と大鼓と小鼓、十三弦、十七弦の箏に合わせ、露マリインスキー・バレエ出身のファルフ・ルジマトフさん、露ボリショイ・バレエ出身の岩田守弘さんと踊ったオリジナル作品です。おかげ様でご好評を頂き、再演を含め日本とロシア3都市で計12公演させて頂きました。以前はムソルグスキーのピアノ曲『展覧会の絵』も、わざわざ邦楽に変え、歌詞まで付けて踊っていたのに(笑)。
 『信長』以降は歌詞なしで、日本舞踊の「見立て」の技法を用い、半分パントマイムのような動きを舞踊化して繋げ、一つの世界を作る試みを続けております。『展覧会の絵』も『信長』の後、原典のピアノ曲で新たに振り付けました。
 現代は、伴奏が邦楽でない方がみなさんにご理解ご共感を頂きやすい。私は2015年から、島根県出雲市の「出雲の春音楽祭」に携わり、3年かけて出雲神話を、市民オーケストラの音楽に合わせ日本舞踊化しました。
 最初の年に提示された音楽はラヴェルの『ボレロ』。これに合わせ、「国引き神話」(出雲は、朝鮮半島や能登半島などから土地を引っ張ってできたという独自の神話)をやろうと、ひたすら引っ張る振りの踊りをこしらえました(笑)。2年目はホルストの組曲『惑星』から『火星』『天王星』と、ファリャの『火祭りの踊り』、そしてビゼーのオペラ『カルメン』の間奏曲、3年目はストラヴィンスキーのバレエ音楽『火の鳥』で、それぞれ出雲神話を表現し、みなさん喜んでくださいました。

踊りを見せるか スターを見せるか

町:『ボレロ』は色々な舞踊ジャンルで翻案されていて、狂言師の野村萬斎さんも手掛けておられますよね。日本舞踊は、何かを下ろしてくる〝依り代〟の身体ですね。踊り手は蘭黄さんであって、蘭黄さんでない。日本の舞台芸術のルーツが神事だと改めて感じさせられます。
 ストリートダンスですと、例えば町田樹が踊れば、町田という〝スター〟としての身体を提示する。しかし日本舞踊ですと、蘭黄さんはもちろんスターでいらっしゃるけれども、舞台の上では身体に何かを下ろしてくる。それが人であったり、神であったり、自然であったりと、その変化力と多様さが素晴らしい。
 バレエだと、(『白鳥の湖』」の)ジークフリード王子やオデット姫などという役があり、ダンサーはいかに2時間の舞台で、役として振る舞うかに焦点が当たります。でも日本舞踊は、クルッと回ったら別の身体になる。素踊りなのに、異形になってしまう。これは日本舞踊からしか感じられない醍醐味だと思いました。

蘭:私は、日本舞踊家は透明な存在だと思っています。例えば『藤娘』を、歌舞伎役者が踊る場合と、日本舞踊家が踊る場合、その違いは何か。身振り手振りは同じです。役者さんが踊る『藤娘』は、踊りを通して役者ぶりを見せる。町田さんがストリートダンスを踊る時と同じです。一方、日本舞踊家は、身体を通して『藤娘』という作品を見せる。そうするには、透明にならないとできない。だから踊りという面においては、日本舞踊家の方が、純度が高くなければいけない、と私は心がけています。

町:フィギュアスケートは、どちらかというとスターとしての身体を見せる方が多いかもしれません。私もプロスケーターになって作品を創作して演じる機会があり、『白鳥の湖』や『ドン・キホーテ』、『ボレロ』もフィギュアスケート作品として翻案しました。モーリス・ベジャール(1927~2007年)振付の名作バレエ『ボレロ』は、音楽に合わせ踊りがどんどん高揚し、最後は瓦解します。それをフィギュアスケート作品にしたくて長年構想を温め、翻案したんです。
 フィギュアスケートの歴史を踏まえ、『ボレロ』のクライマックスに至らしむ構成です。18世紀、すでに凍った天然の湖や川の上で滑る文化はあって、人々は氷上でしかできない「滑る」という行為に、夢中になった。しかし氷が割れ落ちてしまい、重いスケート靴に引っ張られ這い上がることができずに、多くの人が亡くなったそうです。それでも滑りたいと熱中する人はいたそうです。ある意味、命がけのスケートですよね。このような歴史的背景を、『ボレロ』に合わせ作品化したのです。ある男が松明を持って、人気のない森の奥の湖に行き、時を忘れ激しく滑るうち、太陽が出てきて氷が溶け、男が湖の中にストンと落ち消え失せる-という物語です。
 私はストリートダンスを踊る時は、町田樹のままです。でもフィギュアスケートの創作作品を踊る時は、町田樹という存在を殺し、表現しようとしている存在や世界に肉体を捧げる、という思いでやってきました。ですから蘭黄さんの「透明になる」というお言葉、非常に共感を覚えました。
 私の場合は、一つの役柄になり切るだけですが、『都鳥』は刻一刻と形なきものに変化していく。しかも流れが途切れず、フローとして提示される。伝統芸能ですが、初めて見る者からすると、むしろ斬新です。

編集:飯塚友子(産経新聞記者)


※写真撮影時のみマスクを外しました。 

※後編はこちら

  

プロフィール

藤間蘭黄(日本舞踊家)
東京都生まれ。江戸時代より続く藤間流勘右衞門派の「代地」の芸系を守る。幼少の頃より祖母・藤間藤子(重要無形文化財保持者=人間国宝)、母・藤間蘭景に師事し、研鑽を積む。1978年、藤間蘭黄の名を許される。『積恋雪関扉』『忍夜恋曲者-将門-』『隅田川』など、古風な味わいを残す代地ならではの古典作品を継承するほか、振付のみならず台本も手掛け、新作も生み出している。とくに「日本舞踊の可能性」を題した公演ではジャンルを越えたダンサーと共演し、話題を呼んでいる。2016年には文化庁文化交流使として10か国14都市で公演やワークショップを行った。紫綬褒章、日本芸術院賞、芸術選奨文部科学大臣賞等受賞多数。
町田樹(國學院大學人間開発学部助教)
神奈川県生まれ。フィギュアスケート競技者として活躍し、2014年ソチ五輪個人戦と団体戦共に5位入賞、同年世界選手権大会で準優勝を収めた。同年12月に競技者引退後は、早稲田大学大学院において研究に励むかたわら、プロフェッショナルスケーターとしても自らが振り付けた作品をアイスショーなどで発表。2018年10月にプロを完全引退し、現在は大学で教鞭を執りながらフィギュアスケートの普及にも力を注いでいる。博士(スポーツ科学/早稲田大学)。主著に『アーティスティックスポーツ研究序説:フィギュアスケートを基軸とした創造と享受の文化論』(白水社、2020年)。作品映像集に『氷上の舞踊芸術:町田樹振付自演フィギュアスケート作品Prince Ice World映像集2013-2018』(新書館、2021年)。

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