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イベントレポート

竹本文字久大夫さん、野澤錦糸さんを迎えて、「復曲素浄瑠璃を聞く会」を開催いたしました。

竹本文字久大夫さん
竹本文字久大夫さん
野澤錦糸さん
野澤錦糸さん

3月23日、あぜくらの集い「復曲素浄瑠璃を聞く会―復曲の現場に立ち会う―」を開催いたしました。
「大塔宮曦鎧(おおとうのみやあさひのよろい)」は享保8年(1723)初演の時代物で、作者は竹田出雲と松田和吉(後の文耕堂)、添削を近松門左衛門が行った作品です。鎌倉幕府執権・北条氏の討伐における後醍醐天皇の皇子・大塔宮の活躍と、六波羅の斎藤太郎左衛門一族の悲劇を題材としています。
明治25年(1892)以降、文楽での上演は途絶えていましたが、このたび「六波羅館の段」「身替り音頭の段」が、三味線の朱(楽譜)をもとに、野澤錦糸さんの手によって復曲されました。
120年ぶりの復活となる演奏を会員のみなさまにお聞きいただいた後、産経新聞記者・亀岡典子さんを聞き手に、竹本文字久大夫さんと野澤錦糸さんから、復曲に挑まれての思いをうかがいました。

亀岡 いま演奏を終えられたばかりのお二人に、すぐにお話をうかがえまして、私たち大変幸せだと思います。120年ぶりだそうですけれど、こういう復曲の現場に立ち会わせていただき、本当に感動しながら聞いておりました。お二人のご苦労がしのばれますが、この曲を復活するきっかけはどういったものだったんでしょうか?
錦糸 去年、「阿漕浦」のちょっと抜けてるとこだけ復曲したんですけれど、残念ながら震災で来られないお客さんがほとんどやったので(平成23年3月14日開催・あぜくらの夕べ「復曲素浄瑠璃を聞く会」)。それでも50人くらいいらして聞いていただいたんだけど。
あれ済んだ後すぐに、国立劇場の制作担当者が大阪へ本を持って来てくれて「これ、どうだ」って。まあ、きれいに譜面(朱)が残っていましたので、やってみようかなと。で、本読んだら、非常に面白いんです。大阪の市立図書館に「清六文庫」というのがあって、三代目の清六師匠の本がきれいな状態で残っていましたので、それを参考にしてやろうという話になったんです。最初は後半部分だけだったんですが、そこで欲が出ちゃったんですよ。
この端場(はば)、三段目の口の部分ですね、本読んでたらやりたくなったんです。すごく面白いじゃないですか、文章が。端場らしい感じの朱が入っていたんで「これ、いっぺんやってみようか」って。
亀岡 今回の復曲に関しては、三世鶴澤清六師匠の朱がベースになっているということですか?
錦糸 そういうことですね。実にきれいに、朱がきっちり入っていて、これが切場(きりば)の部分も二冊出て来まして。端場の本も二冊、それとは別に「綱造文庫」というところに残っていたので、ずいぶん資料は多かったんです。だから比較的やりやすかった。
それと、三味線の譜面だけじゃなくて、大夫のちょっとしたイントネーションとか、止めるとか、音(おん)を遣いなさいとか、そういうのが全部入ってて。
文字久大夫さん 野澤錦糸さん

文字久大夫さん野澤錦糸さん

亀岡 朱に忠実に再現されたんですか? それとも錦糸師匠の、ここをこういう風にやってみたいとか…
錦糸 そんな、あつかましいこと。なるべく忠実にいかないと失礼ですよね。これからやっていって変わっていく分にはしようがないと思うんですけれども。
どうしてもおかしいところは多少変えさせていただいたとか、ちょっと手数減らさせていただいとか。いま、こういう形でやっていいのか悪いのかって考えて、あえてちょっといじらしてもらったところはあります。
亀岡 復曲にあたって、一番苦労されたのはどういうところですか?
錦糸 最後までわからなかったところが一箇所だけあったんです。ほかはだいたい譜面を起こして、あとは大夫の上げ下げですとかを見ていると見当がついたんですけれど。
一番最後の、もう段切りのほんとの最後の「人間有為の喜怒哀楽は」っていうところなんですけれど、「人間有為の喜怒」にしか朱が入っていないんです。「哀楽」のところは無いんですよ。飛んでるんですね。これは何なんだろうと思って、もう一冊の本を調べても書いてない。ただ、「哀」のところにチョンと印が入っているんです。
何だろうなって、一ヶ月くらい悩んでいましたね。わからないんです。何か手数つけちゃおうかなってつけたんですが、安っぽいんですわ。やっぱりこれおかしいなと思って、ふっと考えて、あ、無いんだと。大夫が音を遣うんじゃないかなって思って。
だったら大体こんなもんじゃないかなって、「きどあい~らく~は」って大夫に言ってもらったら…、かっこいいじゃないですか。
文字久大夫 大変でした、あそこ。
錦糸 あそこであっぷあっぷしたらダメなんや。あえてそういう言い方してたんじゃないかな、これでもかって。三段目っていうのは、そういうのがあるんですよ。
亀岡 文字久大夫さん、きょうお語りになられて一番大変だったところと、これ面白いなって思ったところと、ひとつずつ教えていただけますか?
文字久大夫 お稽古の時とまた違いまして。お客様の前で語らしていただいて、切場が始まって10分くらいしたところで、最後まで保(も)つのかなという感じがしました、まずは。
亀岡 この曲の面白さは、どういうところに感じましたか?
文字久大夫 面白いというか、現代でも残っている雰囲気のものがいっぱい残ってるでしょう、これ。 「菅原伝授手習鑑」を書かれた初代竹田出雲さんの最初の作品だそうですが、この段階ですでに現代にも通じる、「菅原伝授手習鑑」にも通じるものがたくさんあるなって、非常に驚きました。
亀岡 同じ身替りものでも趣が違うというか、趣向が面白いですよね。身替りの身替りという。このあたりはいかがですか?
錦糸 これって結局、切場で悪者っていないじゃないですか。みんな善い人にしちゃってる。面白いですよね。
端場に出てくる駿河守だけは完璧な悪者ですが、奥になるとみんな善い人になってしまう。右馬頭だって六波羅でしょ。髪を落として天皇方につくっていう話やし、花園っていう奥さんかておかしな話ですよ。六波羅方の侍大将の嫁さんなのに、天皇さんの准皇后の言うことを聞いて、「私が行ってきます」って交渉しに言ってるわけじゃないですか。変な話ですけれどね。みんな善いほうに善いほうに。斎藤太郎左衛門は見事にぶっ返って、孫の首切って…ということですから。
そのへんが逆に言ったら処女作であるのかなと。ちょっと凝りすぎてるのかなっていうところもありますけれどね。
亀岡 たしかに趣向がたくさんありますから…。だけど、その面白さもありますよね。
岡本綺堂さんがこの「『大塔宮曦鎧』研究」(「演芸画報」大正5年)というのを書いていらして、燈籠というものをひとつの枷(かせ)にして、ひとつの小道具として扱っているところに詩情があると。「寺子屋」の身替り物の趣とは違う、あちらは枯淡というか渋い味わいがあるけれども、こちらには詩情があって。岡本綺堂さんは「身替り物の中ではこれが一番傑作である」とおっしゃっているらしいですね。そのあたりは、おつとめになってどういう風に感じられますか?
錦糸 これは難しいですね。やはり時代と合うていたらいいんですけれどね。そのへんでやらなくなっちゃったんじゃないかと思うんですけれどね。
地域によったら音頭に類したことやってるとこありますけれど、全国的にはちょっと無理があるんじゃないかということと、これ、公演としたら期間限定でしょ。夏の芝居でしょ。盆過ぎてからやったら、ちょっと具合悪いでしょ。そんなのもあるんじゃないですかね。
亀岡 斎藤太郎左衛門という主人公は六十歳くらいですが、なかなか魅力のある人物として描かれてると思うんです。復曲される時って、ひょっとすると人形の頭(かしら)を少しイメージしながら作られるところもあるのかなぁと思うんですけれど、齋藤太郎左衛門はたとえばどんな感じですか?
錦糸 これは歌舞伎の写真が残ってて助かりました。「玉藻前曦袂」の金藤次、あれと一緒なんですよ。ほぼ、あの感じでやったらいい。いわゆる「玉三(たまさん)」という「玉藻前」の三段目、ちょうどそんな感じで。
亀岡 自分の娘の桂姫を身替りに切るんですよね。白髪頭に白い髭の気骨ある老武士という感じですかね?
錦糸 そういうちょっとしたヒントをいただくと、ものすごい助かるんですよね。
亀岡 他のお役はどうですか?
錦糸 一番難しかったのは駿河守ですわ。僕らはどうしようもなくなったですね。
「金閣寺」の松永大膳みたいな、ちょっと落ち着いた感じ。あれでやると、今度は斎藤と重なるところが出てきたりして非常に難しいですね。いっそ、比較的若くてきりっとした感じでやろうかと。
なぜかと言うと、いやらしいことばっかり言ってるんですよ、この人。六波羅の大将ですよ、それがバカなことばっかり言ってるわけです、「安房(あほう)のほの字」とか何とかって。だからわからないんですけどね。当て込みというのかな。

亀岡典子さん文字久大夫さん野澤錦糸さん

文字久大夫 この時代はそうだったんですかね。今ひとつね…
錦糸 まだ練れていないのか、ちょっと武将的なおかしなところがあって難しいです。
それと、三位の局と花園の語り分けが難しいですわね。
亀岡 身分の違いというところで語り分けられるんですか?
文字久大夫 やはり音遣いというか、三位の「位」です。ずっと音がつながってるような。今でも天皇陛下のお言葉って違いますよね、ああいう感じもあるんじゃないですかね。気張るとね、それがなかなかいかないです。どうしても重なってしまうんですね。
錦糸 「宮様」とひとこと言うのでも、花園の場合は敬って頭を下げて言わにゃならないし、三位の局はふつうに自分の子供に言うようにとか、そんなのも含めていろいろ考えないかんというのがあって。面白かったですけれどね。
亀岡 ものすごく繊細で微妙なものですね。
錦糸 一応考えてるんですよ、これで(笑)
亀岡 伝わりますよ(笑)
「身替り音頭」のところに能の「満仲」(観世流では「仲光」)が入れ込んでありましたけれど、こういう余所事浄瑠璃(よそごとじょうるり)の趣向――いまそこで行われていることと、そこに流れる音楽とが、重ね合わさりながら重層的に展開していく…というのも、非常に立体的になって魅力的な曲ではありますよね。
錦糸 まあ、いろいろ調べないかんので。わからんことばっかりなんですよ。
一番参ったのは、三段目の口に出てくる「都やかなる女あり、車を同じうす、顔(かんばせ)蕣(あさがほ)の花の如しと謡ふ、鄭衛(ていえい)の二風(じふう)道を蕩かし、国を賊(そこな)ふ」と、これ、わからへんですよ。参ったなって思ったら、『論語』に出てくる。「鄭衛は淫らなり、淫(いん)なり」と。「鄭」と「衛」は国の名前ですね、どっちも社会が乱れてすぐに滅びちゃった国らしいですけれどね。また、『礼記』という本に「鄭衛の音は乱世の音なり」って出てくるんですよ。
だから当時の人ってすごかったんですね。僕らなんかさっぱりわからへんもんね。
文字久大夫 これなんか近松門左衛門が教えてくれたんじゃないですかね。添削、きっと。
亀岡 近松の添削というのは、そこらへんに、ほの見えますか?
錦糸 こことね、後半で七五調にしてないところがあるんですよ、わざと。七五調にしてないの。「音頭は鯨波(とき)の声」…
文字久大夫 「音頭は鯨波の声」、…全然違いますね。
錦糸 斎藤太郎左衛門が孫の首を見ていて、「汝を討ちしはな、六波羅の侍大将斎藤太郎左衛門利行」って名のりをするわけですよ。侍は畳の上で、蒲団の上で死ぬことは恥になるけれど、立派な侍と戦って首を討たれる分には恥にならんってところ、これ、非常にテンポよく来るんですよ。「莞爾と笑ひ尋常に討ち死には、文武に富める果報の武士」って、素晴らしいテンポで来るんですよ。で、「汝を討ちしはな、六波羅の侍大将斎藤太郎左衛門利行」、ここまで素晴らしいんですよ。
「敵に取つて不足なく」、このへんからおかしくなってくる。「踊りの庭は軍の場」、これはまだ許せます。次が「音頭は鯨波の声」、これはとてもじゃないですけれど、作曲せぇって言われたら手のつけようがない。
「晴業(はれわざ)の討死果報者」、これは完璧に近松ですよ、こつこつこつこつ当たる七五調じゃなくしてるっていうのは、完璧に近松がいじってる筈ですよ。何か一種の趣味みたいな、近松さんの。あえてしないっていう。七五調に頼らなくてもいいんじゃないかっていう。
「音頭は鯨波の声」って、絶対三味線弾けないですよ。だから清六師匠の本では、「音頭は凱歌(がいか)」「ときのこえ」と別になってます。「凱歌」と書いて「ときのこえ」ですよ。後に「鯨波」と書いて「ときのこえ」と足してるやつもあるんです。近松さんには悪いんですけれど、あんまりいじってほしくなかったなあ。
亀岡 近松さんがいじってくれたお陰で、もともとの部分より面白くなったっていうのもあるんですか?
錦糸 いろんな趣向の面でいじってる、アドバイスしてるからこれだけのものが出来たんでしょ。それである程度、作家としての道が確立できたわけですから、一概に字余り字足らずだけを責めるわけにはいかないです。どの程度、どういう風に添削しているかはわからないけれど、あきらかに近松らしいところはここと枕とですね。
亀岡 一昨日お稽古を拝聴させていただきましたが、錦糸さんと文字久大夫さんが言葉をそれぞれ、これはどういう意味なんだろうってひとつずつ確認しながら詰めていってらっしゃるのを目の当たりにさせていただきました。こういう風に作っていくのかと。
その時、錦糸さんが「ここ、どうなんだろう。疑問だな」っておっしゃったのが、花園の言う「この切籠(きりこ)には四方に四つの角ある物」。これはどういう意味なんだろうって。
錦糸 わかんないですよ、これ。「総じてこの切籠には四方に四つの角あるもの」でしょ。「帝のお願い叶はず」って、わからないじゃないですか。
でも、ふっと気がついたんですよ。じっと見ていて。「四方に四つの角ある」で、「帝」=三角(みかど)はひとつ足んないからかなって。二人で「面白いですね」とかやってたら、住大夫師匠はなんか知らん顔して、すーっとやってて。
違うんかなって思って制作担当者に聞いたら、「隠岐に流された帝は、鎌倉方に四方を囲まれ、生きている間は島から帰ることができないという意味ではないでしょうか」と。
ちょっと惜しかったですね(笑)  「見つけたー」って思ったんですけどね。
亀岡 ひとつひとつの言葉の意味を、きちんと解釈しながら作っていくということですよね。復曲って大変ですよね。
錦糸 でも、それが一番楽しいんですよ。それが面白いんです。それをやらないと駄目ですよ。
昔、早稲田でやらしていただいたんですけれど、そこまで出来なかったんです。本が読めなかったんです、はっきり言って。上っ面しか読めない。もっと前は、譜面を起こすだけですよ。呂大夫さんがいらしたんで、それを何とか格好つけてくれたから、一応復曲してるけれども、こんなところまでとても出来ないです。
亡くなった越路師匠が「本読みっていうのは本を読むことじゃない。本の裏側を読め」って言ってましたけれどね、そのとおりです。勉強になるよな。
文字久大夫 なります。ほんとにもう根本ですから、浄瑠璃の。ほんとに勉強さしていただきました。そればっかりですね。
錦糸 何もないところから、譜面から全部起こしていくわけじゃないですか。
もちろんテープになんか入れなかったですよ。うちで本読みして、ちょっとずつこしらえて、それで録音してマスターテープにしてるんですけれど。いま一番問題になっているカセットテープに頼る、音源に頼る浄瑠璃ね。それが嫌だからこうしたわけですよ。そのかわり一年かかったな。一年かかった。で、この人(文字久大夫)の悪い癖もわかったわけですよ、音に頼ろうとする。
こういうことをやらせていただいて、僕はほんとに感謝している。またやらしていただきたいと思っている。
文字久大夫さん、野澤錦糸さん

文字久大夫さん野澤錦糸さん

文字久大夫 どうしてもね、テープで覚えてしまうので、どうしてもテープの平面的な音の上げ下げばっかり気になるんです。ドレミファソでもないですけれどね。
これはもうテープがないわけですから、ほんとのゼロから勉強さしていただけるし、そうすると見えてくるものが全然違いました。根本っていうんですか、浄瑠璃の。テープはだめだなというのが、本当にわかりました。
錦糸 いや、気がつくだけでも大したもんですよ。誰に向かって、何を伝えようとしているのか。どういう会話をしようとしているのか考えずにやって、お客さんに伝わる道理がないですよね。
これなんかだってそうでしょ。斎藤が誰と会話していて、怒っているのか、皮肉で言ってるのか。あえて怒らんと皮肉に言ってる方がこの人物が立つって場合もあるし、花園なんか相手にしてないんじゃないんかっていうのがあるわけですよね。切籠のところで花園に裾踏まれるのかな、掴まれるのかな、どちらにしても相手にしてないから「放せ」で済むわけだけど、本気で相手にしてたら切ってもかまへんわけでしょ。
これは演劇ですからね、特に素浄瑠璃なんて、演劇が頭に浮かばなかったら何の意味もないわけですよね。
亀岡 もうひとつこの曲で面白いと思ったのは、登場人物が類型的な時代物の人物ではないということ。
たとえば右馬頭は、自分の子供を身替りにしようと結構簡単に決めてしまっているわけですけれど、それは忠義のためだけではなさそうで、斎藤への対抗心というものから来ているような気がする。それは、これ以降の「寺子屋」の身替りとはずいぶん違っている。人物の作りかたが違っていて、それがまあ面白いといえば面白いのですが、お二人はどういう風にお考えになられましたか?
文字久大夫 そうですね。それだけが僕、不可解というか。
実際に殺されはしなかったものの、子供を身替りに差し出そうとするにはよほど忠義の気持ちがないと駄目なんじゃないかなと思うんですけれど、この時代この段階の竹田出雲はそういうことを書いていないですよね。
これが竹田出雲の最初の作品で、「寺子屋」が最後の作品になるわけですけれど、「寺子屋」では忠義のために身替りを差し出すように書いているでしょ。そこがだいぶ変わったのかな。
四段目「寺子屋」は竹田出雲が書いたと僕は思っているんです。三段目「桜丸切腹」は並木千柳だと思うんですけれど、四段目は竹田出雲が書いたと思ってるんです。最後にいろは送りを入れてね。これは燈籠の音頭を入れて。そういう趣向があるから、そうと思うんですけれど。
対抗心だけで自分の子供を身替りにさせられるのか、僕もどうしても納得いかないですけれど。
錦糸 まあでも、時代としたらそれくらいするでしょ。
僕は別に違和感なかったです。非常に面白いし。花園が「何で身替りにするんだ」って言ってるじゃないですか。ここでもう成立してるんですよ。奥さんまで知らん顔してたらこれはいかんけど。
で、ひと泡吹かさないかんねんって、それで自分の子供を差し出すのはとんでもないと思うけれど、それしか手段がないんやったら…。右馬頭という人は、やはり、きりっとしてるなと思いますよ。この人は相当…
亀岡 頭のいい人ですよね。
錦糸 …と思いますけれどね。
亀岡 お二人のお話をうかがっていると、この作品がもっとよく見えてきます。次は人形を入れてぜひ舞台で見たいなと思うんですけれど、どうでしょうか。これは人形を入れて本公演で出来そうな曲でしょうか?
錦糸 これは僕が言う話じゃないですよ。僕はここまででお仕事終わっていますから。今日はもうほんとあっぷあっぷしてましたから、面目ないです。
ほんまに今日はしんどかったです。大阪でも二人でずーっと稽古して、巡業中も稽古して、この前は五時間くらい稽古して、きのうも四時間稽古して何ともなかったのに、きょう一遍すっとやっただけでもう、お客さんの前でやらしてもらうっていうので、あっぷあっぷして。どないしようかなって思ったな。
文字久大夫 ほんと、そう思いました。勉強になりました、すごい。やってみないとわかりませんよね。
錦糸 これ、ネックになるのは子役いっぱい出さないかんでしょ。文楽でそんな、子供がぴょこぴょこいっぱい出てきたら邪魔になるじゃないですか。もちろん詰めでしょうけれどね。だから三人だけ、三人遣いの子役が出てくる。三人遣いの子役が三人出て来たってうっとうしいね(笑)  たいがい邪魔だよね、これ(笑)
ただ、曲としてはいけます。いけますよ、これは。
亀岡 太鼓判ですね。
錦糸 だから口からやったんじゃないですか。だ、か、ら。
亀岡 初めて聞いた私たちも応援して、ぜひこの曲が本舞台でかかることを期待しお祈りしています。ほんとにお疲れの中、お二人とも大変だった大変だったとおっしゃっている中、ありがとうございました。これからもご活躍をお祈りしております。
文字久大夫さん、野澤錦糸さん
文字久大夫さん野澤錦糸さん

いつもの劇場とは異なり、まさに目の前での熱のこもった演奏に、会場のお客さまからは「お二人の熱演に感動」「間近に聞くのは格段の迫力があり素晴らしかった」「床本を読んでもなかなか内容が頭に入らなかったが、演奏を聞くと、すうっと情景が浮かんだ」「途中から人形を見ているような想像がふくらみました」など、文楽での上演を熱望される声も寄せられました。

あぜくら会では今後もこのような会員限定イベントを企画してまいります。
みなさまのご参加をお待ちしております。