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イベントレポート

桂平治さん、春風亭一之輔さんをお迎えし、「落語家、師匠と弟子」を開催いたしました。

左から太田博さん、桂平治さん、春風亭一之輔さん 左から太田博さん、桂平治さん、春風亭一之輔さん

3月5日、国立演芸場にて、あぜくらの夕べ「落語家、師匠と弟子」を開催いたしました。今回は、平成24年秋に江戸落語の大名跡「桂文治」を襲名する桂平治さんと、平成24年春の「21人抜き・単独」真打昇進で話題を呼んでいる春風亭一之輔さんをお迎えし、演芸評論家の太田博さんを進行役に、対談と高座をたっぷりとお楽しみいただきました。

太田 今日は、非常におめでたいお二人。この秋11代目の桂文治を襲名いたします桂平治さんと、3月に先輩21人を追い越して真打に昇進いたします春風亭一之輔さんをお迎えして、お師匠さんとお弟子さんの関係についてお伺いしようと思います。
まず、平治さんから、師匠をご紹介いただけませんか。
平治
桂平治さん(写真は師匠の桂文治さん) 桂平治さん(写真は師匠の桂文治さん)
うちの師匠・桂文治は、まあ、見てのとおり噺家らしい噺家で。さっき出囃子でね、こう幕が上がったんでございますが、「武蔵名物」という、うちの師匠の出囃子でございましてね。「月の武蔵の江戸育ち」、そういう文句が入っているんですけれど、落語協会の方では圓菊師匠が使っているんですよね。で、また、ふたりがよく一緒になるんですよ。おんなじ出囃子を使うんですよね。それ聞いて、「おれの出番か…、え、え、圓菊のやろう、『武蔵名物』使ってんじゃねぇか。おれは『月の武蔵の江戸育ち』、江戸っ子だから『武蔵名物』。あいつは静岡の島田じゃねぇか、『ちゃっきり節』でいいんだ」。そういう師匠でございます。
ほんとに、うるさい師匠ではありましたがね、心根は優しい。特にね、弟子のことについては優しい。桂文治の得意な話は「弟子ほめ」というようなね。
一之輔 うらやましいですね。いいですね。
太田 残念ながら8年前、落語芸術協会会長最後の日に、文治師匠は亡くなられたんですね…。
続いて一之輔さん、よろしくお願いいたします。
一之輔
春風亭一之輔さん(写真は師匠の春風亭一朝さん) 春風亭一之輔さん(写真は師匠の春風亭一朝さん)
はい。うちの師匠はまだ健在でございます。春風亭一朝ですね。うちの師匠も江戸っ子で、言葉にうるさいですね。どれくらい江戸っ子かというと、千住の生まれなんですけれど。「金曜時代劇」っていうNHKのドラマで江戸言葉の指導とか、大河ドラマの「龍馬伝」では勝海舟(武田鉄矢)につきっきりで江戸言葉の指導した。「あれは直らねぇ」って言っていましたけれど。まあそれぐらいの人で。
ふだん何も言わないですし、弟子には無干渉というか、小言らしい小言もあんまりなく。よほど礼儀を失したっていう時は言われますけれど、芸に関してはもう「自由におもむくままにやれ」と。むしろ「おれに似るな」と。その指導にのっとって、あまり似ない落語をやろうかなって思っているんでございますけれども。でも、やっぱり、落語の…何てんですかね、習いにくる方が多いですね。うちの師匠のところに稽古をつけてもらいに。稽古つけることを嫌がらない師匠で。
平治 ネタもうんと持っていますからね。
一之輔 前座の時に百八つあったと。
平治 うわあ、それはすごいや。
一之輔 「煩悩の数だけ」っつってました。師匠は、何ていうか、どっちかっていうと優しいですよね。見た目とおんなじ、裏表のない師匠でございます。
太田 どうして今の師匠を選んだのか、その辺のお話をうかがいましょう。平治さんはなぜ、大勢いる中から…?
平治 小さい時分から落語が好きで。「お好み演芸会」というNHKの番組でね、米丸師匠が司会で、針すなおさんがだるまの裏に絵を描いたりなんかしてね。で、最後が大喜利で「噺家横丁」、小三治師匠が司会で隣がうちの師匠、まあボケ役ですよね。まだその時分は伸治で、「みゃ・・・?横丁のフランス人形、桂伸治でございます」なんつってね。ふたり面白いなって思っていて、どっちかの弟子になりたいなって。そしたら田舎の興行で、うちの師匠がうちの田舎に来てくれたんです。
で、「中学卒業したら入門したい」ってそう言ったんですが、「まあ、こういう世の中だから高校くらい出た方がいいから」ってんで高校に行って。高校の三年くらいですかね、うちの師匠と連絡取り合って、夏休みに体験入門みたいなものですよね。一週間ばかり泊めさしてもらって、「これが我慢できるようだったら、冬休みにもういっぺん来い」。冬休みにまた一週間ばかりいて、「これが我慢できるようだったら、春休みに親をつれて来い」と。
親が承知しないと、「これは親不孝を勧めるようなもんだから、おれはそんなことしたくないから」って。で、親を説得してうちの師匠のところへ入門がかなったという、まあ、とんとんと行ったといえば行った方なんでしょうね。
太田 生前、文治師匠と話していましたらね、「いやあ、あのくらい追い返したら、もう帰ってこないんじゃないか」って言ってましたよ。それを乗り越えて…。
一之輔さんは、師匠を選んだ一番の動機というのは何でしょう?
一之輔 高校2年生の時に寄席に通いはじめまして。浅草演芸ホールとか、上野の鈴本とか。高校が春日部で、地元が野田だったんで、東武線を使って浅草まで出たりして。だいたい土曜の午後。詰め襟の学生服で。
で、まあ、いろんな人を好きになったんですけれど。寄席へは出てませんでしたけど、談志師匠とかも追っかけたりしてました。
大学に入ってから、また寄席によく行くようになって。あ、いいなあと思って。きっかけは寄席でというより、ラジオで「真打ち共演」とか、NHKとかTBSの中継とか。収録ですね。よくそれを予約タイマーで録音して、うちで聞いてたんですけれどね。うちの師匠の落語は目をつぶっていても、絵がなくても、動いているものがなくても、すうっと耳に入ってくるような、すごく気持ちのいい…。歌でいうならね、何ていうか、うまい歌ですよね、やっぱり。メロディもリズムもすごい心地よくて。ああ、弟子入りするなら、こういう人だなって思って、そういう感じで。
太田 お二人とも、師匠選びの目が高いというかね、いい師匠を選んだんだなって思います。
平治・一之輔

ありがとうございます。

桂平治さん 春風亭一之輔さん

桂平治さん春風亭一之輔さん

太田 さて、入門しました。まず、平治さんの場合は内弟子だったんでしょうか?
平治 内弟子でしたね。それを承知で体験入門をしたんですが、内弟子っていうのは全部やるんですよ。朝起きて、掃除を一時間くらいやって、それから師匠に稽古をつけてもらうんだったら、おまんまを食べる前っていうね。胃が働いちゃうと、芸が身につかないというので、稽古をして、それからおまんまを食べて。
師匠は早めに、夜席でも昼過ぎには出かけちゃうので、それから洗濯をしたり、買い物をおかみさんと行ったりね。それからお湯の掃除をしたり、トイレの掃除をしたり。まあ、自由がきかないんですがお金は使わないという。アパート代と食費はいらないですから、まあ、体で奉仕をしながら、師匠に芸を教わるという、昔はほとんどやっていた、そういう制度なんですがね。
四年前座があって、御礼奉公っていうね。「二ツ目になりました、はいさよなら」って言うとね、師匠もおかみさんも悲しがるんですよ。「そんなにうちが嫌だったの」って。ですから一年くらいは、「今日はちょっとアパート捜してきますんで。ええ、夕方には戻ってきます」「そう、じゃあ鍋こしらえて待ってるから」って、五年くらいいましてね。
体で奉仕をして、早い話が給金のいらない家政婦さんと同じなんです。で、まあ最初はやるつもりで入るんですが、二年くらいたつと仲間がみんな「飲みに行く」とか、「遊びに行こう」なんて。行きたいなと思ったりなんかしてね。だんだんこう気持ちも萎えてきますよね。あと二年か、あと一年かと。まあ、一生懸命。「もう一回やれ」って言われたって無理だと思いますが、若い時分だからできたっていうね。
太田 近頃は住宅事情がよくないものですから、どこの師匠も内弟子っていう弟子の取りかたをしなくなったんですね。みなさん通い弟子ってことになっちゃたんですけれど、一之輔さんはどちらだったんですか?
一之輔 今の平治師匠の話を聞いているとホントに申し訳ないんですけれど、うちの師匠はですね、先代の柳朝師匠の教えかたを踏襲していまして、「うちには来なくていい」。まあ、珍しいんですよ。うちの協会でそういう人はいないんですけれど、「必要な時に呼ぶ。来なくていい。でも世間的には行ってると言え」と。それをまず入門の初日に言われまして。
で、楽屋に入ってから、みんなに「師匠ん家行ってるの?」「行ってます、毎日」「嘘をつけ」って言われました。みんな知ってるわけですよ。
何で来なくていいかと言いますとね、先代の柳朝師匠曰く「家政婦になるためにお前は入門したんじゃない」と。「噺家になるために入門したんだから、家の掃除洗濯はしなくていい。その時間を、ネタを覚えたりとかお芝居を見たりとか、余芸、そういうものを覚えるために使いなさい。何でも自由に使え」と。「そのかわり、やることはちゃんとやれ」と。「噺の数を覚えてなかったら、おれはそういうときは怒るし」と、そういう育てかたですね。特殊ですよね。
太田 そうですよね、珍しいですよね。
平治 その師匠の考えによって違ってくるんですね。
太田 先代の小さん師匠もそれに近かったかもしれないですよね。大勢、来るものは拒まずで、「弟子になりたい」と言うとどんどん採っちゃって、何十人もいたということですから。
でも、その中からやっぱりこの世界、自分がやる気がなかったら何もできない世界ですから、そういう育て方もあるのかなっていう気もします。
平治さんはそういう苦労もなされた。苦労とは思わなかったんでしょ?
平治 その時分はね。苦労とは思わなかったですけれどね。入門して、兄弟子が四人いて、僕が五人目なんですがね。
国立演芸場に前座で入っていた時間、遊びたくってウソついてね、「国立行きます」って。うちの師匠は新宿の芝居に入ってて、ここに来るわけがないんですよ。だから、ちょうど笑三師匠の旅についていたとき、「師匠すみません、旅から帰ってきてすぐに国立入って、夕方うちに帰ります」って。ここに来ないで、上野に映画見に行っちゃった。それで、時間を見計らって帰ろうかなって。
あとから聞いたら、師匠が国立に羽織を置きに来て「うちの弟子いるか」と。南なん兄さんが「いえ、今日はお休みで」。「何だ、今日ここに来るって言ってたんだけどな」って。それでうちに帰ってきて、「おまえ今日、国立行ったか」「え、行きましたけど」「なんだ、南なんのやつは『いねぇ』って言ってたぞ。あのやろう、ふざけたやつだ、電話するから」って電話しちゃったんです。
「何だ、うちの弟子、いたらしいじゃねぇか。今、当人と代わるから」。もう、どうしていいか、「兄さん、僕、いましたよね、いましたよね」って。したら、兄さんが察して「ああ、いたいた。僕が謝るから」って。「申し訳ありません、私がぼうっとしておりまして」って謝ってくれて。
あくる日、兄弟子がみんな集まって食事をするっていう、初日と中日と楽日はそういうことやってたんですが、兄弟子の前で「南なんってやつは悪いやつだ。あいつはうちの弟子を落とし入れようとしてる」って。ああ、これはもう駄目だなって思って。「師匠すみません、嘘をついたのは私です」って。
うちの師匠は弟子を殴ったことはないんです。ところがその時はカーッとして、「おれはウソつきはきれぇなんだ」って、パンパーンって往復ビンタですよ。弟子の中で殴られたのは僕一人なんですけれど。小さなウソをつくと、その次にはもっと大きなウソをつくというね、国会議事堂で話したいような、そういう話ですね。
太田 いかにも噺家の世界らしいエピソードですけれども。
一之輔さんは、それで、「家に来なくていいよ」とは言われても…
一之輔 ええ。行きますよ。
太田 稽古っていうのは、入門してからどのくらいたってからやるものですか?
一之輔
春風亭一之輔さん 春風亭一之輔さん
ひと月くらいですかね。ひと月くらいしてから教えてもらって、最初の三つ、四つは師匠が教えてくれるんですけれど。
家に行くんですけれどね。「来なくていい」って言われても行くんですよ。不安になるので、何か用を見つけて。「わかんないことあるんで聞きにきました」とか「太鼓教えてください」とか。
まあ、行ってもすぐには教えてくれない。午前中は「暴れん坊将軍」の再放送みたいなのを、二人でずーっと見てるんですよ。「この役者、死にましたね」とか、そういう会話ずっとして。で、「ついてはこの噺を」と。したら、「わかったわかった、やるか」って。
結構いい加減で、四畳半くらいの居間で、前にちゃぶ台置いたまま、面と向かって。柳朝師匠なんかいい加減だったらしいですよ、寝ながらやってたとか、布団の中で稽古してたって言いますもんね。
太田 普通、相対稽古といって師匠が弟子に向かってしゃべる、それを弟子はそれを覚えて、師匠の前でやるわけですよね。
一之輔 アゲと言いましてね、教わったものを覚えたらダメ出ししてもらって、オーケーが出たら高座にかけていいと、そういうことをやるんですけれども、うちの師匠の厳しいのは、江戸弁のアクセントですね。あまりにおかしいのは言いますけれど、ある程度できているのは「もう高座やっていい、もう自分の回数重ねて身につけなさい」と、そういう教え方ですね。
あとは「よそに行きなさい」って言いますね。「あんまりおれに習うな」と。前座のうち四本目くらいのネタになってくると、この「道灌」は小さん師匠のとこ、「たらちね」だったら扇遊師匠、「道具屋」は市馬師匠とか。で、その場で電話して「うちの弟子に」って、師匠が直接頼むんです。前座が真打ちに直接頼むのは失礼だっていう考え方があるらしくて。だから上の人でも、面と向かって頼んでくれて、「今度うちの弟子に」って、そういう礼儀はうるさかったですね。
太田 やる気を待ってるという。それから、よその師匠のところへ稽古へ行けと。非常に進んだ師匠ですね。
一之輔 だから聞かれるんです、「今、何を覚えてんだ」って。「これこれです」って言うと「じゃあ、やってみろ」と。やると、「次、何やるんだ」「その次は何をやるんだ」「その次は」。うちの師匠はもう、どんどんどんどん噺を覚えろと。そういう教え方でしたね。
太田 最初習ったネタはなんでしょう。
一之輔 最初は、うちの師匠は「子ほめ」です。で、「転失気」。三つ目が小さん師匠のところで「道灌」。そのあとはもう、どんどん決めてってくれるんですね。「ある程度、前座話が覚えられたら、そのあとは、この人にこれを習いたいと思ったら、おれに言え」と。「おれが話を通してやる」と。たまに「この師匠に、これ」って言うと、「それはやめとけ」って言うことがあります。誰とは言いませんけれどね。「それはやめとけ。それはこいつだろ」と。
太田 ちょっと聞いてみたい感じもしますけれど。まあ、やめときましょう。
平治さんが最初習ったのは?
平治
桂平治さん 桂平治さん
やっぱり「子ほめ」ですね。うちの師匠がうるさかったのは、「子どもをほめに上がる時に、上下が入れ替わらなくちゃいけない」という。「八っつぁん、すまなかったね、この前は義理もらって。お前、子どもが生まれて祝ってんだって」といろいろあって、「ちょっと奥で寝てるから見てやってくんねぇか」って、そこで入れ替わらなきゃいけない。うちの師匠は他人の高座を見て、「ああ、あれはだめ。子供が玄関に寝てるよ」。子供は奥、「はい、ごめんよ」って前で、ここでこう入れ替わらなくちゃいけない。ほかのところはあんまり聞いたりしないんですけれど、そこはうるさかったですね。

言葉の張り方と、「芝居だから」っつって後輩の鯉太を連れて、裏のね、我々は裏って言ってるんですけれど大劇場に行って、何の許可も得ないで、花道で。「おれが甘酒屋になるから、お前そっから『甘酒屋』って声かけてみろ」って。「むこうにいる時とこっちにいる時は違うんだから」って、そういうことを断りもなしにやっていて。係の人に、「いや、師匠いいんですけれど、一言断ってもらわなきゃ」って。そこまで親切に教えてくれる。わかんないと、後にまわって「ここはこうやって、こうやるんだ」って、まことに親切に教えてくれましたね。
太田 文治さんは非常に歌舞伎がお好きでしてね。多分、お弟子さんにも、歌舞伎を見ろよと言ったはずなんですね。
落語の世界はみなさんご存知のとおり、江戸時代から明治にかけての世界を描いたものがほとんどなんですけれども、その舞台設定というんですかね、まず玄関に入る、上がりがまちがある、奥座敷があるみたいなイメージ、それが歌舞伎だとすぐに再現できる。やっぱり高座で参考になることが多いでしょう?
一之輔 そうですね。間取りとかはやっぱり、歌舞伎見てると勉強になりますね。長屋のつくりとか、長屋に入ったところの間取りとか。勉強になりますね。
平治 落語にも、歌舞伎が下地になっているというのがいろいろありますのでね。やっぱり、ああいうのは、自分にそういう素養がないとできないものでね。セリフだとか、義太夫もそうでね。ちょっとでもかじっといた方がいいのかなと思いますけれどね。
太田 近頃ほんとに音曲噺をやる方が少ないですから。一朝さんなんか、その方面ではなかなか。
一之輔 うちの師匠は好きですね。よくやっていますね。
太田 非常に貴重な師匠だと思うんですけれど。
修行が始まりまして辛いとか、やめちゃおうとか、思ったことないんですか?
平治 僕なんか師匠にはまって、名前をもらったって思ってる人が多いんですが、一番しくじってたんですよね。
あとに女性の、早稲田の法学部を出た桂右團治さんっていう人が入ってきて、うちの師匠は右團治になんとか大成してもらいたいっていうのがあって、同じことをやっても、右團治はほめられて、僕は「ガタでしょうがねぇな」って言われるんで。もう、そういうのが重なって、ある夜、「僕はちょっとこの商売に合っていないんで、もうやめたいんですが」って。自分でも悔し涙っていうんですか、情けない、涙がボロボロ出てきて。
うちの師匠はその時なんとも言わなかったんですけれどね。あくる朝、やめるにしても掃除はしなきゃなんないっていうんで掃除やっていたら、師匠が降りてきて、すれ違いざまですね、「お前ね、お前、やめるなんて言うもんじゃないよ」って。
それっきり、とどめることもなく、僕もやめることもなく、その一言に救われたというかね。そういうことが、ちょうど三年目くらいですかね。二ツ目がそろそろ決まるんじゃないかっていうときにありましてね。まあ言わないだけでね。
太田 そんなに惚れた師匠でも…。
一之輔さんはどうですか。逃げだしたことはないんですか?
一之輔 逃げ出すも何も、最初から逃げっぱなし、自由なんですよね。自由なほど、逆にいえば厳しい…。
太田 つらいですよ、きっと。
一之輔 不安になってきますよ、だんだんだんだんね。師匠はおれのこと気にしてるのかな、とか。そういうことを思いましたね。
で、よくね、喧嘩しました、やっぱり、前座同士でね。「いいな、お前んとこは楽で」なんて。厳しい修行をされてる一門ももちろんあります。厳しいというか、うちはそういう意味では楽なので。「いいね、いかなくて」とか、よく飲みながら絡まれたことはありますけどね。でも、しょうがない。それは知ってて入ったわけじゃない。
でも、うちの師匠はやっぱり見てるんですね。いろんなところで、はしばし気にしてましたね。たまにタクシーで一緒に帰る時とか、二人きりになるといろいろ言ってくれたりね。「このあいだ聞いたあの噺は…」、あそこはああだとか、ここはこうだとか、おれはこう思うとか押しつけない。「おれはこういう風に習ったけど、それはそれでいいんじゃない」みたいな。
平治 柳昇師匠のところもそうですよね。弟子に取るけれど、あとは自分でやりなさいと。放任主義で、そうやってると桃太郎、昇太とか、そういう人が出てくることもあるという。
一之輔 すごい人が生まれますね。
太田 稽古している中で、師匠のネタっていうのはかなり気になるものですか?
一之輔さん、どうですか? 師匠のネタでこれはやらなければとか、これはちょっと稽古しとこうとか。
一之輔 習っています。
「天災」っていう噺はいま、 林家正蔵師匠(先代)から、柳朝、一朝ときていますからね。「天災」というのは登場人物も少ないし、落語の基本みたいなものがいっぱい入ってる噺ですから、すごい難しい噺ですけれども、うちの師匠はよくトリでやっています。そういう噺はね、やりたいなと。
音曲とか、そういうのはなかなか手が伸びないんですが芝居噺、「淀五郎」とか、最近うちの師匠、なんか今までやんなかったのやるようになってきてるんですよね。ここ三、四年。
平治 それは新しく仕入れたのか、前にやってて…
一之輔 前にやってて、全然やらなくなったのを、最近よくやるんですよ。それはほんとにありがたいですよね。教科書がボンボンボンボン、いいのをいただいたみたいな感じで。
太田 平治さんは、このあと「源平」をやるんですね。これは文治師匠、ほんとにお得意でしたね。
平治 ドル箱だったですね。僕もやるつもりはなかったんですが、斎藤別当実盛のお祭りがあるのでやってくれないかというので、師匠に、それに絡めてということで教わって。やってるうちに自分でも楽しくなって、生涯やることはないと思ったネタですがね。うちの師匠はキャラクターですからね。普通の人が教わりにきて、そっくりやっても受けないっていうんですよね。あの顔で、あの甲高い声で、「あら、この人はよーく寝ちゃってるわね、死んじゃったのかしら」なんて、うちの師匠だから受けるんですよね。あれをうまくやろうと思っても、ほんとにキャラで売れた年代ですからね。
太田 今日はその「源平」をトリで聞いていただきます。
それから一之輔さんは、これは大師匠の柳朝さんのネタですね。「粗忽長屋」を…
一之輔 「粗忽の釘」。
太田 「粗忽の釘」ですね、楽しみにしています。
一之輔 びっくりしましたよ。今、さらわなきゃいけないかと思って(笑)
太田 師匠とお弟子さんの関係っていうのが、まあ、お笑いもあり、涙もありだったような気もするんですけれど、よくわかりました。めでたいお二人ですので、これからの活躍をお祈りいたしまして、とりあえず…

桂平治さんと春風亭一之輔さん、それぞれの師匠との心温まるエピソードでお楽しみいただいた後、一之輔さんに「粗忽の釘」を、平治さんに「源平盛衰記」をたっぷりと語っていただきました。対照的な芸風のお二人に、会場には何度も大きな笑いの渦がわき上がりました。

「粗忽の釘」 春風亭一之輔
「粗忽の釘」 春風亭一之輔
「源平盛衰記」 桂平治
「源平盛衰記」 桂平治

一之輔さんには国立演芸場5月中席(11~20日)で真打昇進披露を、平治さんには11月中席
(11日~20日)で11代目桂文治の襲名披露を行っていただく予定です。こちらもぜひお楽しみに。

あぜくら会では今後もこのような会員限定イベントを企画してまいります。
みなさまのご参加をお待ちしております。