舞踊を語る

国立劇場第52回 特別企画公演 「二つの小宇宙-めぐりあう今-」(5月22日) 特別対談【後編】
中島那奈子(ダンス研究者)& 高橋彩子(舞踊・演劇ライター)

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緊急事態宣言発出中に開催された、1回かぎりの特別企画公演「二つの小宇宙-めぐりあう今-」をテーマとする対談の後編。異ジャンルのコラボレーションや、クリエイションにおけるドラマトゥルクの役割と重要性など、舞台作品の創作について洞察の深まる話が展開された(文中敬称略。前編はこちら)。

コラボの現状と期待

高橋(以下、高):コラボレーションは、やるだけでも大変なものですが、「1回やって終わり」となってしまうものも多いのが残念です。違う背景を持ったジャンルが出会う時は、やはり多少の齟齬や、見る人によっては違和感もある。
 再演をするか、あるいは同じメンバーで創作を続け、別の作品作りを何回かやれば、そういう表現の差異が埋められ、また違いを生かすやり方が発見できるはずです。何らかの形で再演し、継続することで、新たな表現が見つかるのではないでしょうか。

中島(以下、中):確かに舞台芸術の〝言語〟を増やすには、そういう試みを続ければ、繋がってくると思います。自分のジャンルから外れると思うかもしれませんが、舞台芸術の全体像からみれば、それは拡張している。


「Birdge」

高:それぞれの背景が違っても、演者はみな、この現代に生きる人間同士ですから、持ってる言語の違いに共通性を見出したら、現代ならではの表現が生まれるはずです。そこまでコラボレーションがいくといい、と常々思っています。

中:伝統や古典は、現代の感覚とは少し離れていますよね。当時の世界観や常識が、今は変化している例も多い。それを今、もう一度上演すること自体、もう一度解釈することだと思います。
 復元なり再構成なり、今、古典や伝統芸能をやる意味を考え、どう繋ぎ合わせるか。例えば現在のコロナ禍は、古典の時代には想定できなかったけれども、似たような事例に引き寄せる事もできる。私たち自身も、今回の舞台で人間と文楽人形が離れて演じていれば「ソーシャルディスタンス」と解釈してしまうように、古典の見方もどんどん進化しています。


「変化と人間とー羽衣伝説ー」

古典における新たな表現

高:文楽に出てくる女性の多くは慎ましやかで、しっとりとした動きになっていますよね。それを私達は「こういう時代の物語だから」と違和感なく見られます。文楽の技は本当に素晴らしく、何でも表現できる。だからこそ私は、「現代の洋服でやったらどうなるか」って想像するんです(笑)。あの着物の裾とセットになった女性の人形が、どのくらい違和感なく洋服にフィットするのか。すごくそういうものも見てみたい。
 そうなった時、「女性の人形ならこうすべき」というルールの幾つかを捨てなければいけないかもしれないですが、それこそが新たな表現になり得る。もし人間と文楽人形の共演に違和感が生じるのであれば、もともと持つ〝言語〟だけでやるのではなく、新たにその作品のための表現が生まれてもいいと思います。

中:それは創造的解釈と言っていいと思います。新作の方ができやすいですね。

高:文楽には300年の蓄積があるのだから、新作も他の普通の人形劇と違う、文楽ならではのものは何か、問われるでしょう。現代の演出家が歌舞伎を手掛けると、黒衣の存在を面白がって、それを生かした演出をしたりするので、文楽でやっても面白いかもしれないですよね。


高橋彩子

鑑賞者の変化

高:今、観客がやたらと拍手をしたがりますね。歌舞伎では役者が出たら拍手、去ったら拍手という感じですし、文楽でも、物語が進行している中、同じ人形遣いに複数回、拍手が起きる。能でも拍手で余韻を壊されることが稀にあります。しかし、例えば「翁」や「三番叟」は本来、神に奉納するものですよね。観客が、すべてのパフォーマンスは自分たちのためだけに行われていると受け止め、演者が頭を下げたら自分たちへの挨拶であると疑わず拍手を返すのは、ある種の傲慢だとすら言いたくなります。

中:私はこれまでは長くドイツにいたのですが、最近、アジアの舞台芸術に携わることが多くなりました。アジアには近代以降、劇場という制度が導入されます。儀式的芸能的なものが、近代劇場に合う形に変化していくため、そこに収まらない部分もある。「翁」も然りで、それをどうすればいいのか。
 ある種のヨーロッパ中心主義に対す反発、近代化に対する抵抗として、(儀式的芸能的作品を)温存するやり方もあるし、劇場作品として近代化するため、従来の形式を変化させるやり方もあります。そこで抜け落ちるものもあるわけですが、これからの日本の劇場はどうなるのか。コロナ禍もあり、劇場空間ではなく、それ以前のように外でパフォーマンスした方が安全だったりします。観客の見方も変わってくると思います。ただ照明などは、近代化した劇場空間でこそ効果がでるものです。

高:そもそも日本に現在のような「拍手」が入ってきたのは近代以降ではないでしょうか。日本の伝統芸能は、拍手とは関係なく観客に受け入れられ、育ってきた。でも今、その歴史すら、ほとんどの人は知らないですね。歌舞伎でも文楽でも、拍手したいからするというより「ここで拍手するもの」とむしろ義務のようにやっていらっしゃる方がいて、つまり観客側の反応も形骸化し継承されているように感じます。

中:バレエはすごく拍手が起こるので、アンコールも長いですよね。

高:バレエでは私も上演中に拍手をすることがありますが、一方で、拍手をした瞬間、その前後にあるものがこぼれ落ちるようにも感じるんです。優れたダンサーは、跳躍や回転と役柄を繋げる芸術表現をやっているけれど、拍手すると「回転だけ」「跳躍だけ」の印象になってしまいがちというか。

中:技術だけになってしまう。

高:技術だけ注目され、観客も「ここに来たら拍手する」というルールだけ受け継がれ、なぜそこで回転するのか、分からなくなっている気がします。以前、(世界的バレエダンサーの)吉田都さんに取材した時、「『白鳥の湖』の回転にも意味がなければならない」とおっしゃっていました。ただ32回転すれば「すごい」ではなく、それで何を表現するのか。
 ですから私は今回の「変化と人間と」で演者が登場した時などに拍手が起きず、「Bridge」でも拍手で現実に引き戻されることなく世界に浸ることができたのは良かったと思っています。

中:拍手には色々な意味があると思います。

高:好きな人が出てくる場合、応援とか。他の人が拍手しているからではなく、拍手に意思を持って拍手できるといいですよね。

中:ドイツの観客は、気に入らないと途中で席を立って、本当に帰ってしまいます。

高:日本人は気に入らなくても周りに合わせて拍手しますし、最後まで席を立たない。本当はお金を払って見ている観客こそ、一番何でも言える立場なのですが、SNSでも批判的なコメントは少ないですね。確かに批判は難しいものですが、それも舞台を育てること。面白いものは評価される、そうではないものは批判され淘汰されるというのが、健全なあり方かと思います。

中:私も、作り手側に入る場合は、作品と自分の関係が近いことがあります。「作品」を批判されることと、「自分」を批判されることを、作り手が分けて考えられると、批判はすごく機能します。「作品」は色々な要素と過程があってできており、それは変えることができるのに、そこを整理できない創作現場は多いです。

高:日本では再演が難しく、公演期間が短い事も背景にあるかもしれない。批判を受けても手直しできないですし。批判を、マイナスにしか受け止められない状況が、舞台芸術の作り手側にもある。だからこそ今回、国立劇場も「作品を作ってお終い」ではなく、公演後に対談までするのは(笑)、批判も含め語ってほしいという企画ですよね。それを劇場がやるのは、いいですね。

中:批評家の意見を、クリエーション(創作)に繋げていくサイクルが作れると、本当にいいと思います。


中島那奈子

ドラマトゥルクの重要性

中:私自身が今、ダンスの創作現場で「ドラマトゥルク(創作現場でリサーチを基盤に、作品にかかわる全てを繋ぎ合わせ、より高い次元に導く役割)」という役割を果たしているのですが、各地でその存在を起用する動きが起こっています。日本のダンス界では、山田うんさんが約10年前、初めてドラマトゥルクをチームに招き入れました。批評的視点を創作過程から入れていく試みで、特に公演期間が短い時、他者の批評的視点をチームに入れる試みはあっていいと思います。

高:それは私もすごく思います。特にコンテンポラリーダンスは、身内だけで作っている感じがある。新しい試みをする時、外からの視点は必要で結局、観客の目に触れるわけですから、創作過程でもその視線を持った人が入った方がいい。
 オペラで、外部の演出家が起用される事がありますが、音楽が分からないといけないし、色々なハードルがある。ドラマトゥルクが入って、演出家が分からない音楽的な事、あるいは別の視点を入れた方がよかったのでは、と公演後、残念に思う事が多々あります。

中:確かに、作家には専門に通じている人の情報提供は、凄く助かる。特にコラボレーションや創作では貴重です。
 最近は、さまざまなプロジェクトでドラマトゥルクの起用が増えていて、これからもっと増えるのではないかと思います。シンガポールやタイなどでもドラマトゥルクが起用されており、私が関わっているのもタイの振付家ピチェ・クランチェンの新作です。(古代インドの長編抒情詩)「ラーマーヤナ」の現代版で、これをコンテンポラリーダンスにする企画です。初演は台湾の国立劇場で、現場に日本人は私一人ですが、アジアの他国の方が積極的にドラマトゥルクを起用している印象があります。

高:それはヨーロッパではドラマトゥルクの起用が普通だけれど、日本以外のアジアでは日本より盛んという意味ですか。

中:一概には言えませんが、そのように考えるのは、アジアで初めてのドラマトゥルクネットワークも2016年にシンガポールで設立されたからです。ドラマトゥルクの起用はヨーロッパからの影響もあります。もともとドイツで始まり、ダンスにおいては(独振付家、舞踊家の)ピナ・バウシュ(1940~2009年)が起用したライムント・ホーゲ(1949~2021)からです。それが新しいダンスの潮流である、タンツテアターと共に始まりました。
 アジアのコンテンポラリーダンスは、伝統芸能とどう接続するか、という部分が大きい。日本では両者が住み分けていますが、アジアでは、伝統芸能の要素を考えずに、新しいダンスを創れないからではないか、と考えています。

高:日本だと伝統芸能の人は伝統芸能の人で、そうではないダンサーは伝統芸能の身体を持っていないといった具合にはっきり分かれているので、そこは違うかもしれない。

中:そうですね。私がドラマトゥルクとして入った「ラーマーヤナ」もアジア5カ国の舞踊家が集まるコラボレーションで、2019年からリハーサルが始まり、台北とバンコクそれぞれの劇場でリハーサルをしました。初演は2年前の予定でしたが、コロナ禍で延期が続いています。

高:ドラマトゥルクという独立した存在はすごく大きいと思いますが、そう銘打たなかったとしても、もう少し違う視点の人を複数、入れる形もあっていいですね。今回のような企画でも、伝統芸能が分かる人が統括するとしても、外の人ならではのアイデアが、必ず出てくる。例えばアクロバットの人を入れれば、最初は不可能な事を言うかもしれないけれども、そこから伝統芸能の人が思いつかないような形なり動きなりが出るかもしれない。あるいは別の視点が入る事で、作品がより多くの人に理解できるものになるのではないでしょうか。

中:今、思い出したのが、(ベルギー出身のダンサー、演出家、振付家の)シディ・ラルビ・シェルカウイが、太鼓集団「鼓童」の吉井盛悟さんやコンテンポラリーフラメンコダンサーとコラボレーションした時のドキュメンタリー映像です。伝統的な太鼓の叩き方や拍子の取り方では、コンテンポラリーのフラメンコダンサーはついていけない。「自分たちのカウントの取り方とは違う。その叩き方じゃ踊れない」とリハーサルで喧嘩してしまうのですが、作品として成り立たせるため、どこかでお互いが歩み寄らないといけない。それこそ対立する「二つの小宇宙」(笑)。2人だけだと解決しなくて、周りがサポートし仲介して、そんな経緯を乗り越え最後、2人がお互い一番近いところを目指す、という過程が記録として残っています。

高:鼓童は(本拠地の新潟・)佐渡で、じっくり創作する時間があるから、それができるのかもしれませんね。通常の限られた稽古日数では色々なことを熟成させるだけの時間はなく、リスクのある提案や試みには触らずに終わってしまうこともあると思います。だからこそ、一人ドラマトゥルクが入ると、大分違う。そしてそういう人を、ちゃんと敬意を持って周囲が受け止めることも大切ですね。

中:ドラマトゥルク自体、もっと日本で大事な存在になる事を願っています。観客にとっても、深く舞台芸術を理解する事に繋がるし、創作現場が硬直する状況を打開できる。喧嘩の仲裁だけでなく、演出家によるパワハラ的行為や、様々な問題を解決する可能性をもたらします。それは演出家や振付家が、1人で作品を背負い込まない事にもつながる。創作現場では、作家に押し付けすぎてしまう部分があると思うので、そこを皆で解いていくわけです。

高:ドラマトゥルクの仕事って、言葉ですよね。ダンス自体、言葉を使わない作品が多いですし、創作過程で振付家が実際に動いて見せて振り付けたら、言葉は使わずに済むかもしれない。でも言葉の存在は本当に大切で、結局、人間は言葉で考えるのですから、言葉にする事は思考そのものです。その思考が創作に繋がるし、鑑賞体験もより多くの人と分かち合える。でも言葉にする事自体、日本人は苦手な傾向にあり、特にダンスはそれがあまりできてない分野だと言えそうです。

中:そうですね。作品と自分との距離も、言葉にする事で変化させることができます。特にダンスで、作品のために集まってコラボレーションする場合は、みんな初対面の場合が多く、感じ方も働き方もバラバラで、それをさまざまな方向から調整するドラマトゥルクの役割は大きいですね。

国立劇場での「夢の企画」

高:言葉という点で言うなら、今回の公演も、舞踊劇仕立てにするという手もあったのではないかとも考えました。そうやって分かりやすくする試みはあっていい。節のついた言葉を追えればいいですが、そうでないと、分からないうちに終わってしまいます。
 いずれにしても、国立への希望としては、コラボレーション作品の再演を含め、長期的スパンでじっくり創作を行っていただきたいということですね。1回限りではなく、継続して、国立でしかできないような人脈と時間を使って素敵な作品を作ってほしい。作ったものを練り上げ、何度も上演したり、一回行った試みをさらに発展させたりして、時間をかけていけば、良い作品ができていくと思います。その余裕がないと、新作が残らない。

中:どの作品も新作の時期があって、その後レパートリーになるには、継続することが大事ですよね。

高:歌舞伎でも真にレパートリーになる新作は最近、少ないように思います。話題性のある新作はたくさん生み出されていますが、それら全てが後世に受け継がれるかは疑問です。必ずしもそうしなければいけないということではないですし、興行主が企業の場合はその都度、業績を上げなければならない大変さもあるでしょうが、国立の場合は違う立ち位置で創作し、再演を重ねる中でさらに良くしていくことができるのではないかと期待しております。

中:後世に伝わるレパートリーによって、劇場も芸術家も観客も育つ。その相互作用を期待したいです。

編集:飯塚友子(産経新聞記者)


※写真撮影時のみマスクを外しました。

プロフィール

中島那奈子(ダンス研究者、ダンスドラマトゥルク)
東京都出身。ベルリン自由大学にて博士号(舞踊学)取得。ダンス創作を支えるドラマトゥルクとして国内外で活躍。老いと踊りの研究を並行して進め、近年のプロジェクトに「イヴォンヌ・レイナーを巡るパフォーマティヴ・エクシビジョン」(京都芸術劇場春秋座、2017)、老いた革命バレエダンサーの作品(メンファン・ワン演出・振付、北京中間劇場、2019)、能楽師とダンサーとのレクチャー・パフォーマンス「能からTrio Aへ」(名古屋能楽堂、2021)。2020年ベルリン自由大学ヴァレスカ・ゲルト記念招聘教授。ダンスドラマトゥルギーのサイト(http://www.dancedramaturgy.org)を開設。編著に『老いと踊り』(外山紀久子共編、勁草書房、2019)。2017年アメリカドラマトゥルク協会エリオットヘイズ賞特別賞。
高橋彩子(舞踊・演劇ライター、編集者)
東京都出身。早稲田大学大学院文学研究科(演劇学・舞踊専攻)修士課程修了。現代劇、伝統芸能、バレエ、ダンス、ミュージカル、オペラなどを中心にアーティストのインタビュー、紹介記事、舞台評などを執筆している。『The Japan Times』『ELLE Japon』『AERA』などや各種公演パンフレットほかに寄稿。現在、『ONTOMO』で「高橋彩子の 耳から“観る”舞台」、『SWAN MAGAZINE』で「バレエファンに贈る オペラ万華鏡」、『バレエチャンネル』で「ステージ交差点〜ようこそ、多彩なる舞台の世界へ」、『Time Out Tokyo』で対談シリーズ「STAGE CROSS TALK」を連載中。第10回日本ダンス評論賞第一席。年間観劇数250本以上。