舞踊を語る

国立劇場第163回 舞踊公演 「京舞」(11月29日、30日) 特別対談【後編】
井上八千代(井上流五世家元)& 三浦雅士(文芸評論家)

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昨年11月、21年ぶりに国立劇場で開催された「京舞」。日本舞踊界の中でも際立った特質と美感を有する京舞井上流の魅力が凝縮された公演で、満席の観客で賑わった。
 その魅力や舞の深層に迫るべく、浩瀚な知識と鋭い視点による評論で知られる文芸評論家の三浦雅士が、井上流五世家元・井上八千代に迫る対談の後編です(前編はこちら)。(文中敬称略)


『萬歳』

東京への思い

三浦(以下、三):京都を拠点とする五世八千代さんにとって、東京は特別な場所だと思います。井上流の引っ越し公演のような大規模な舞台がこれまでにも何度か歌舞伎座や国立劇場で行われてきました。東京の舞台の、ご自分にとっての意味は何ですか。

八千代(以下、八):私が東京で出演する時、(祖母の)四世(1905~2004年)も初めは付いてきてくれました。歌舞伎座では昭和44年、13歳で出て何も分からないまま『石橋』を舞いました。国立劇場公演には49年「京舞」が初出演で、当時18歳で、舞いたい気持ちがフツフツと沸いていた頃です。51年からは毎年、「舞の会-京阪の座敷舞-」に出るようになりました。


昭和51年「舞の会」に出演(『相模あま』)

八:東京は、京都と違うお客様が来られ、客席の空気が違う。もっと色々な所で舞いたくなった。自分の会(井上三千子舞の会)をするようになって、東京でもやりたいと思ったんです。
 今はなくなってしまいましたが、東京・渋谷に「ジァン・ジァン」という小劇場がありました。時々お芝居など見に行っていたのですが、こういう濃密な空間で舞の会をやったら、お客様がどういう風にご覧になるのか、直に見たいと思った。20代半ばくらいで念願叶い、ジァン・ジァンで『珠取海士(たまとりあま)』を舞わせていただきました。憧れの曲を京都で習い、それを東京でお見せする。
 当時は、舞に自分の気持ちが強く向かっていった時期です。『珠取海士』『鉄輪(かなわ)』『葵上』と立て続けに習い、座敷や能舞台、野外も含めさまざまな空間で舞いました。最初の『珠取海士』の稽古が済んだ後、四世が「来年は『鉄輪』やな。それが済んだら次は『葵上』」って言わはった。当時の私は、舞に出会う喜びに溢れていました。無我夢中で、常に挑むような思いを東京のお客様も、受け止めてくださったように思います。

四世八千代の思い出

〈五世家元である当代は、3歳になる前から祖母、四世井上八千代に師事した。名人と名高かった四世は昭和30年、人間国宝に認定されるが、これは当時最年少で芸能関係唯一の女性だった。五世が幼い頃、涙をこらえ稽古に励んだ日々は著作『京舞つれづれ』(岩波書店)にも詳しい〉

三:初世八千代(1767~1855年)から四世八千代まで、日本近代の波乱を生き抜きました。

八:よく四世は、「大戦の前後で、人の心も何もかも変わった」とハッキリ申しておりました。現在、新型コロナウイルスの影響で誰も向き合ったことのない事態となり、その一刻も早い終息と舞台活動の再開が望まれるような状況ですが、それでも私は何もかも無くなる、ということを体験しておりませんから、苦労などとは申せず、恵まれております。

三:初世が流派を立ち上げたわけですが、初世はその前に近衛家に出入りしていて能の素養を相当に身につけていた。それを基盤に二世(1770~1868年)が金剛流の能を学ぶことにもなった。また、人形遣いにも学んで、人形振りも習得したようですね。基本は京都の花街で教えていたわけですから、時代の変化に合わせながら、流派の本質を失わずにやっていくには、どうすればいいか、ずっと考えてきたのだと思います。

三:この二人が基盤を作り、三世(1838~1938年)が明治から激動の昭和初期までを担ったわけです。京都府知事と図って“都をどり”を振付けたりしたのはこの方ですね。四世はそこに貰われてきたわけですが、三世の孫(観世流能楽師・八世片山九郎右衛門)と結婚された。この四世が太平洋戦争を経験した方で、五世八千代つまり当代八千代さんのお師匠さん、お祖母さんにあたる。京都と東京の関係が変わっても、たじろがずに対応したと思います。さて、孫の五世は、高度成長の後に成人したわけですから、先代、先々代に比べて楽に見える。しかし実際は、一番大変だったと思う。流派も大きくなったし、時代も変わった。

八:おっしゃる通りです。四世の時代、井上流という小さな流儀がある意味、最盛期を迎えた。四世が流儀を率いていた時代、私は20代でしたが、周囲の人から「あなたは、どんどん(師匠や先輩を)失いながら、舞っていくんだ」ということを言われました。現実に師匠がいない、ということは大きいです。
 若い時は、四世が目の前でやって見せる事にただただ向き合い、そのまま、写していました。現実には出来ていないのですが・・・。全幅の信頼を置く正しい目(四世)が、そこにあったということです。「離見の見」とよく言いますけども、それは簡単にできるものではありません。四世が晩年の頃は、「祖母なら、こういう風に舞うかな」とシミュレーションして稽古をしていました。四世には何を言われても反論の余地がない。そういう形で、何十年も過ごしたわけです。
 ですから先に挙げた地唄もの3曲を立て続けに祖母から学び、ジァン・ジァンで舞えた頃が、最高に幸せな時でした。平成16年に祖母との別れがありましたが、その6年前の前回の京舞東京公演では、祖母は本番直前に倒れ、舞台には立てませんでした。師匠の70代から90代の舞台での在り様は、「ただただ在る」ということですね。渡辺保先生流に言えば、“身体の声”がどうあったか、です。
 私は四世晩年の弟子やったと思います。師匠が50代のときに入門し、幼い時に素晴らしい舞台を見せてもらった。でも本当に私に教えてくれたのは、70代以降やと思っています。

三:ぼくが拝見したのは四世の晩年ですが、舞台ごとにどんどん子供っぽく、若くなっていくのがたいへん興味深かった。対するに当代の五世八千代さんは、風格が出てきたと思います。

八:四世は、軽くならはった。童女のように見えました。晩年の90代はおっしゃる通りだったと思う。

三:10代の少女のような感じで、可愛らしくて、びっくりしたのが忘れられない。

八:私もそう受け止めました。「舞が好き」という一心で、よそからお嫁に来た人ですから、三世から伝えられた型を守って、やってきた人でした。それが80代の終わりくらいから、色々な事から解き放たれた。そして早く「井上八千代」の名前を譲りたいとも思っていました。
 90代に入り、大きく変わらはったなあと思いました。こんなに人が変わっていくということと、自分の心と身体に向き合って、舞台の上であるがままに立つ姿を見せてもらったということが、私の中では大きな宝です。

日本舞踊と京舞井上流の未来に向けて


『三つ面椀久』


手打『廓の賑』

三:日本舞踊には年齢をプラスに転じなくてはならないという鉄則があると思う。老いていく身体の美しさを教えるもので、これは世界的に見ても珍しいものだと思います。

八:そうですね。枯れるとか熟成というものを西洋は舞台芸術的にはあまり貴ばない。

三:画家にはないこともないですが、舞踊家にはほとんどないと思う。でも、四世八千代さんの童女のような舞を見ていれば、凄いことが分かりますね。日本舞踊が世界の舞踊に寄与できることがあるとすれば、それは年齢に対する新しい見方を提示してくれることではないかとさえぼくは思います。

八:私は師匠が母でなく祖母(四世)で、年の離れた晩年の弟子でしたから、老いに向きあう祖母の背中を見てきたと思います。年代に合わせ、変わりゆくにはどうすればいいか。そういうことを語らない人でしたけど、直に見せてくれた。その果てにどうなるかと言うと、ある時、本当に自由になった。
 自分の意志でもなく心でもなく精神でもなく、「私でない何か」がその舞台に残る、というものを、最終的には見たような気がします。その舞は、私の目標でもあります。客席におられた方も「見たのか見てないのか、分からへんかったわ」くらいでいいのではないかなと。そういうものを目指して、もう少し長生きしたいなと思っております。三世四世も、うちは代々長寿ですし(笑)。

三:老いを芸術に高める舞踊があって、それこそ人間の体にとって自然なことだということ。これは井上流というか京舞の素晴らしい宣伝になりますね。健康に最もいいのは日本舞踊だ、と。

八:私自身は日本舞踊の未来のため、子供向けに日本舞踊の鑑賞教室をやりたいと思っています。皆で知恵を絞って、国立劇場の公演としてやっていただきたい。そうでないと日本舞踊というものが何であるのか、次代に伝わらないという危機感を持っています。

三:日本は舞踊に恵まれている。基本は摺り足ナンバンの農耕民の舞踊で、エッセンスはお能や上方舞に残っていますが、遡れば琉球を通って、はるかインドネシアまでたどることができる。だけど、他方に狩猟採集民の舞踊が東北に残っています。青森のねぷた祭りや岩手の鹿踊りなどの特徴は飛び跳ねることです。これは朝鮮を通ってユーラシアの中央にまでたどることのできる特徴です。(ともに世界的振付家であるモーリス・)ベジャール(1927~2007年)や(ジョン・)ノイマイヤー(1939~)にも自慢したんですが、しかし、その日本舞踊の芸術性の根幹は能と上方舞にあるとぼくは思っています。歌舞伎舞踊の芸術性を芯の部分で支えているのも上方舞だと思う。ですから、八千代さんの率いる井上流はたいへんなプレッシャーのもとにあるわけです(笑)。今回の東京公演は、21年振りというのは間が空き過ぎで、八千代さんも大変だったと思いますが、これで終わるわけではない。

八:お尻叩かれないとやらない方ですから。それぐらいでちょうどええのです(笑)。

三:いやそうは見えませんよ、プログラムを拝見していてもきわめて野心的ですよ(笑)。今後のご活躍を心から楽しみにいたしております。

編集:飯塚友子(産経新聞記者)

プロフィール

井上八千代(井上流五世家元)
京都府生まれ。祖母は四世井上八千代、父は片山幽雪。幼少の頃より厳しい研鑽を積み、昭和50年(1975)より八坂女紅場学園の教師となる。平成12年(2000)、五世家元井上八千代を襲名。格調高く、古格を守った舞台で活躍するほか、近年は公益社団法人日本舞踊協会の常任理事として斯界全体にも目を配り、日本舞踊の振興と普及に取り組んでいる。平成25年(2013)に日本藝術院会員、平成27年(2015)に重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。紫綬褒章、日本藝術院賞等受賞多数数。
三浦雅士(文芸評論家)
青森県生まれ。1970年代に『ユリイカ』や『現代思想』の編集長を務め、1980年代に文芸評論に転じる。以降、文学や芸術を中心に精力的な執筆活動を展開。その間に舞踊への関心を深め、1990年代には新書館編集主幹として月刊『ダンスマガジン』、季刊『大航海』などを創刊、編集にあたる。主著に『メランコリーの水脈』、『青春の終焉』。平成24年(2012)に日本藝術院会員に認定。恩賜賞・日本芸術院賞受賞、紫綬褒章、芸術選奨文部科学大臣賞等受賞多数。