舞踊を語る

国立劇場第162回 舞踊公演 「舞の会-京阪の座敷舞-」(8月31日) 特別対談【後編】
山村友五郎(山村流六世宗家)& 武藤大祐(群馬県立女子大学准教授)

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国立劇場で50年以上にわたり開催されてきた、上方舞を特集する「舞の会-京阪の座敷舞-」をテーマに、山村流六世宗家・山村友五郎さんとダンスの研究を中心に普及のための活動にも力を注ぐ群馬県立女子大学准教授・武藤大祐さんによる対談の後編です(前編はこちら)。(文中敬称略)


山村友五郎さん

お座敷と蝋燭で見る「舞」の再現

武藤(以下、武):座敷舞、国立劇場でも十分、醍醐味は味わえていますけれども、1回でいいからお座敷で、蝋燭の灯りで見てみたいです。

友五郎(以下、友):蝋燭を何十本も持ってかないと無理ですからね。実は1回やってみた事があります。本当に部屋を真っ暗にして、蝋燭を何本立てたら見えるか試してみたら、10本以上、必要でした。和蝋燭って芯が太いから熱くて、その燭台を周りに立てるからさらに温度が上がる。昔の人は、それで慣れていたんでしょうね。歌舞伎だって蝋燭でボーッとしている中で、白く塗ったわけじゃないですか。

武:以前、(現存する芝居小屋で日本最古の香川・金丸座で春恒例の)こんぴら歌舞伎を昔ながらの蝋燭で再現した舞台を拝見しましたけれど、本当に真っ暗でした。

友:今の日本人は、明るい生活に慣れちゃっていますから。

武:友五郎さんがお座敷で踊る事もありますか。

友:ありますよ。そろそろ久々にやろうかと考えています。一昨年(平成30年)、やらせていただいたんですが、いいお座敷が見つかって実現できたんです。今、なかなか昔ながらのお座敷がなくて、また僕がこの(大きな)身長ですので難しかったんですが、谷崎潤一郎の家の近所に一軒、ありました。
 そのお座敷で、海外から来た学生らに昔ながらの舞を見てもらったんですが、すごく喜んでいました。秋らしく、「虫の音」を舞ったんですが、そうしたら本物の虫がちゃんと外で鳴いてくれたの。楽しそうでしょ

武:いいですね。ぜひやって頂きたい。贅沢です。

友:でも外で車の音がしたら台無しですから、極力シーンとしている所で、ネオンもない所って、なかなかないですね。

武:お座敷で舞う時は、振りなど変えるんですか。

友:振り自体は変えませんが、舞い方を変えないと無理です。一足一足ものすごく大事になる。

武:至近距離で見ますものね。

友:狭い空間ですから、普段は5歩足で動くところも、2歩ぐらいしか行けない。するとこの2歩をどう大事にして、5歩に見せるか、という工夫が必要。あとすり足で歩くと、畳の音と足袋の音が如実に聞こえてしまう。これを雑音として捉えられるのは嫌なので、「音を出すなら、ちゃんと捉えてもらえるように歩こう」と。効果音ではないですけれど、配慮できたらと思いましたね。
 最近は、所作板の上で踊る事が多いので、そういう(畳の)音がないじゃないですか。畳の音をどうやったら使えるか。一足一足の緊張感が伝わったりすれば面白いと思った。

武:想像するだけでゾクゾクします。お座敷ならではの、そうした部分にもっと目を向けたいですね。今もお座敷の振り付けや技法が基準で、それを舞台用にアレンジするのですか。

友:ほぼアレンジはなくて、そのままです。広い舞台上でも、われわれは燭台を置いて、画角を狭める。あの舞台に置かれた燭台は、明かり取りや雰囲気出すだけではないです。「この画角で見てください」って可動域を示しています。実は僕、燭台コレクターで大好きなんです。100本くらい持っているかもしれない(笑)。「たにし」では節のある竹の燭台出したり、舟にちなむ曲の時には碇の形をした燭台出したり。


碇の形をした燭台

武:「舞の会」は燭台も見所。そこも注目しないと。

友:お座敷では、襖を開けて月明かりが入れば、もうちょっと明かりが取れるかなとは思ったんですが、現代は外から蛍光灯みたいな照明が入ってくる。よほど山奥行かないとダメですね。

武:すごい。月明かりのために山奥に行く。

友:そう。それで座敷組んで舞う。面白いでしょ。

武:面白い。プロジェクションマッピングが流行っている時代に、逆に自然光だけっていうのがいいですね。味わってみたいです。日本は明治維新で色々なものが変わって、それまで育ってきたものがそのままの形で残っていけなくなった。時代とのすり合わせの結果、現状で残っているものを、あえて時計を巻き戻して旧来の姿に戻り、それを支えている価値観や、潜在している可能性を追求すれば、見たことのないものが生まれてくるはずだと思います。我々が知っている舞も、「こういう理由で、こういう振りになった」っていう発見ができれば、さらにその先のことも考えられるようになるのではないか。
 最近、僕は限界集落に入って、念仏踊りなどを調べていますが、夜になると完全に真っ暗。その中で、軒先に入って鐘を聞くと、音が闇に吸収されて、泣きたくなるくらい感動します。とっても綺麗なんです。今、そんなものを味わえる所はありませんから。


武藤大祐さん

友:僕も「おわら風の盆」を富山県八尾市に見に行った時、シーンとした闇夜の向こうから聞こえてくる胡弓の音に、感動しました。

武:風の盆の振付はもともと若柳流ですよね。大分、観光地化されてはいますけれど、現代的な条件と伝統的な美意識をうまくすり合わせています。薄暗い中でザワザワ踊るのがいいですね。

友:今も夜中は、地元の人だけで素人が入れないようにしています。フラッシュをたいても怒られる。特定の時間は、伝統を守っているんです。

武:好きな人が集まるって、本当に大事です。言葉で説明されて、頭で理解しようとしても全然覚えられない。神楽などの舞も、延々と反復しているように見えて、実はすごく複雑なパターンがあったりしますが、好きな人は体で覚えてしまいます。

上方舞とは何か

武:友五郎さんのお話、すごく面白く伺っていて、こうしたお話をレクチャーして頂いてからもう一度、曲を拝見したいです。どうしても日本舞踊って、詞章の言葉が分かりにくいとか、江戸時代の習慣に馴染みがないっていう所が、バリアになりがちです。でも友五郎さんのお話は、日本舞踊に関する知識がなくても分かるし、何より面白くて、日本舞踊の入り口として素晴らしいと思います。友五郎さんは、上方舞をどのようにお考えですか。

友:われわれ自身は、「上方舞」と言ったことは一回もないです。東京に「江戸前の寿司」がないのと同じで、単に「寿司」でしょ。上方舞は、東京から見た言葉だと思いますが便宜上、「上方舞」と言っていることは確かです。
 でもそんなに意識したことはなくて、単純に日本舞踊の中の一つ。特にうちは歌舞伎舞踊もやる、座敷に特化した流儀ではないです。京阪神で発展し、残ってきた舞が「上方舞」と言われていると思います。

武:関東では歌舞伎役者の踊りがどちらかというと主流で、僕たち関東の人間が上方の踊りを拝見すると、主流は座敷舞ですよね。この違いはどうして生まれてきたんでしょうか。

友:僕も分からない。ただどちらかと言うと京阪神は町人文化で、江戸の武士の文化と違い、座敷から生まれた文化だと思います。江戸は、座敷より芝居小屋だったのかなと思います。

武:なるほど。江戸の社交場が芝居小屋なら、上方は座敷。

友:だから座敷舞という言葉も、そうして出たのではないか。座敷踊りとはいいません。

武:そこは根本的な違いがあるのかもしれませんね。坪内逍遥も、関西は楳茂都流など芸妓の芸がすごく活発なのに、関東は歌舞伎役者の踊りが主流で、どうしてなんだって言っています。演目云々以前の段階で、劇場カルチャーとお座敷カルチャーがありますよね。

友:山村流には長唄の「勧進帳」まであるんですよ。当時の旦那衆が舞いたがったんでしょうね。衣裳つけてはだめだけれども、ちょっと宴席で、馴染みの芸者に歌わすとか、「滝流し(間奏の三味線の奏法)弾いてよ」って言って、お扇子一本で舞ったんでしょう。祖母(四世宗家・若)が作ったらしいです。長唄も常磐津も「江戸歌」でまとめて、当時は師匠が何でも弾きましたからね。大概、足(の振り)から覚えて、それから上半身を覚えます。

武:井上流で有名ですが、みなさん鏡稽古(師匠が差し向いになって、左右反対の手をする稽古)ですか。

友:そうです。関西圏は鏡稽古多いです。

武:歌舞伎舞踊だと、普段の舞と違いはありますか。

友:一緒です。ただ振りは違うし見得もあるけれども、舞い分けている感じはないです。うちは初代友五郎がもともと歌舞伎役者でしたから、普通なら歌舞伎の振付師だけで終わるはずが、市井に入って女性や花街の芸者衆に教え出した。そして京阪神で新たに座敷という空間で舞が広がっていったんです。

武:大正時代の踊りについて調べると、関東の料亭などでは、関西からお師匠さんに出稽古に来ていただく、みたいなことが多い。三代目(井上)八千代さんに来て頂いて稽古したという記録がありました。

友:座敷という空間の利用方法、振りが、関西の方がたけていたのでしょう。お客様の方も、舞を習ったり、三味線ができたり歌えたのが普通です。何も高尚な趣味でもなく、今、歌謡曲を歌っているのと変わらない感覚ですね。

〈山村流は女性の家元が続いたが(三世宗家・若(1869-1942)、友五郎の祖母で四世宗家の若(1905-1991)、母・糸(1937-1983)には五世を追贈)、友五郎が六世宗家として、山村流を率いる〉


四世宗家・山村若(国立劇場第19回舞踊公演より)

友:僕、流儀で男として生まれたのが100年ぶりなんですよ。ただ「ゆき」を作ったのも実は男性の流祖・初代友五郎(1781-1842)で、それを綿々と女性が伝えてきた。男からみた「ゆき」の女性像を、女性が伝えてきたから、 自分が舞うときには元に戻せるかな、と思ったんですよ。初代の頃は、女性像の表し方が女方に近かったかもしれないです。女性目線でずっと伝わってきた踊りが、特に艶物が自分の中で少し消化しにくいのは、そこが原因なのかなって思いながら今、やっています。

武:小さい頃大事にされたでしょうね。

友:生まれて2年間だけは(笑)。妹(山村光)ができてからは、祖母以外は全員、妹が継ぐと思っていたんですよ。後から分かりましたが。それが僕が18歳の時、母が亡くなってしまい、20歳の時に突然、「お前が継げ」と言われました。

武:その時、どう思われました?

友:「俺?」って。 でも不思議なもので、そこで「嫌です」っていう言葉は出なかった。「NO」はない世界で育ってきた環境もあります。それで6年後、襲名しました。

武:お若いご宗家ですよね。

友:若いです。もう人生の半分くらい宗家で、“宗家歴”長いです(笑)。

舞を未来につなぐ

友:僕は今、大阪芸大の舞踊学科で教えています。コンテンポラリー・ダンス、クラシックバレエ、ミュージカルを勉強する子たちに、教えています。

武:色々な専攻の学生が、習う日本舞踊のクラスですね。

友:はい。だから本当に日本舞踊、やりたくない学生もいる。「どうして正座しないといけないの」って言うのもいる。面白いですよ。日本舞踊や振りに対する感覚も、僕の方が教えられています。

武:今、若い人で日本舞踊をやる人って、どういう人ですか。

友:なかなかいないですね。子供の頃に習っても、受験などで辞めちゃう。女性の場合、結婚と子育てで辞めてしまい、本当は一番、体が動いて色々と覚えられる時期に、舞えない。でも全てが落ち着いて一段落して、戻ってこられる方も多い。その方たちが孫を連れて来られる、というパターンが大阪では一番多い。
 東京では東京芸大や日大芸術学部に日本舞踊専攻があって、そこに全国から学生が集まっています。大阪の大学には日舞の専門学科がない。僕は学生に、わざとお座敷の曲、教えちゃう。へらへら踊り(ステテコ踊り)なんか、やらせると乗ってくる。バレエみたいに普段は声を発さない学生に、「言葉がないと日本舞踊、弱いやろ」って教える。日本舞踊は言葉があって、それを理解して、それに付いた振りだって言うことを説明すると、面白がって一生懸命踊ったりしますよ。

武:僕は文学部で教えているので、そんなに踊りに興味が強い学生はあまり来ていないのですが、たまにバレエや日舞をやっていた子が、すごく興味を持ってくれます。でも学生の興味の多くは、K‐POPやミュージカル、ストリートダンスですね。
 ただ今、中学校でダンスが必修化され、ダンス人口が爆発的に増えてから、若い人の踊りに対する理解力が全く変わりました。意味を求めないで、体で理解してしまう。歌詞が分からなくても、最初から動きを見ている。
 授業で、日本舞踊は井上流からスタートするんですが、学生からのコメントに「体幹がすごく安定している」などというコメントが来ます。10年前では考えられない。フレッド・アステア(1899-1987)もウィリアム・フォーサイス(1955-)も知らないけれど、理解力はある。だから背中を押してあげれば、どんどん広がっていくんです。NHKの番組の、日舞の取り上げ方は、教養を求めている人には届くかもしれませんが、もっと EXILEみたいに「こうやって踊るんだ」という番組作りをしたら、また全然違ってくると思います。
 バリアの多い世界ですが、そこを突破しなくても裏道があって、どこかで興味が沸けば、若者は自分で勉強します。アプローチ次第で、若者も興味があるんです。どうやったら奥に入れるか、分からないだけ。学生に「こんな楽しみ方あるよ」「この動画すごいよ」と言うだけで、反応が変わってきます。ですから日本舞踊が広まる可能性は、まだまだありますね。詞章から頭で理解しようとせず、肉体言語として入れば、ほかの踊りと変わらないので、バリアを取ってあげればいいですね。

編集:飯塚友子(産経新聞記者)

  

プロフィール

山村友五郎(日本舞踊山村流六世宗家)
大阪生まれ。祖母の四世宗家・若、母・糸のもと、幼少より修業する。父は宝塚歌劇団演出家・植田紳爾。1992年、早逝した母に五世宗家を追贈し、六世宗家・山村若を襲名する。2014年には約120年ぶりに山村友五郎の名跡を復活、襲名。座敷舞と、初世より伝えられてきた上方歌舞伎舞踊の二つの流れを大切に日本舞踊の普及・振興に努めるほか、歌舞伎や宝塚歌劇の振付など幅広く活躍。日本芸術院賞、芸術選奨文部科学大臣賞、文化庁芸術祭賞等受賞多数。
武藤大祐(群馬県立女子大学准教授)
東京生まれ。1997年、早稲田大学第一文学部卒業。2004年、東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。コンテンポラリー・ダンスやアジアの舞踊史、コミュニティにおけるダンスや身体の在り方を中心に研究するほか、ダンスの振興に関する各種財団のアドバイザーやダンスフェスティバルの選考委員などを歴任。共著書に『バレエとダンスの歴史――欧米劇場舞踊史』(2012)、『Choreography and Corporeality: Relay in Motion』(2016)など。