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国立劇場

国立劇場第45回 特別企画公演 言葉~ひびく~身体Ⅰ「神々の残照伝統と創造のあわいに舞う」(5月25日) 特別対談【後編】
乗越たかお(作家・ヤサぐれ舞踊評論家)& 阿部さとみ(舞踊評論家)

国立劇場が「言葉と身体」をコンセプトに様々な舞踊(ダンス)の魅力を示した特別企画公演《神々の残照》。公演をテーマに、舞踊評論家の乗越たかおさんと阿部さとみさんが縦横に語り尽くした対談の後編です(前編はこちら)。世界の舞踊を愛するが故に、お2人の言葉にはますます熱がこもっていきます。(文中敬称略)

インド古典舞踊「オディッシー」

〈インド東部のオディシャ州に伝わる古典舞踊。もともとは寺院で奉納され、トリバンガ(首、腰、膝の3カ所を曲げるポーズ)の優美な動きが特徴。今回は、インド政府公認のオディッシーダンサー、小野雅子が、インド人舞踊家らと共演した〉

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小野雅子(中央)

乗越(以下、乗):今の日本では、インド舞踊の公演は活発に上演されていますよ。国立みたいな大劇場ではなく、ライブハウス程度の規模のものも多いですが、だからこそ凄く近くで見られる。今回、出演していた小野雅子は、本当に飛び抜けた存在で、視線一つとってもキレがある。動きも早く滑らかで、視線ひとつ、顔の角度ひとつで場面をガラリと変えてしまう。こういう場で見られたのはよかったですね。彼女はインドの国家資格もとって、小規模ながらインド舞踊のフェスティバル的なものを、インド人ダンサーを2,3人呼んでやっていますしね。

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阿部(以下、阿):日本人がそうしたインドの国家資格をとって、それに現地の人が付いて踊っているって凄いことですね。

乗:本当に凄い。たとえば歌舞伎を学んだ外国人が一座を組んだとして、そこに日本人の歌舞伎俳優が入るとはなかなか考えにくいじゃないですか。インドは日本人が想像する以上に大きな国なので、地域ごとに踊りも全然違う。
 今回のオディッシーは、基本的に神に捧げるもので、寺院で踊られます。でも踊っている内容は、神様と羊飼いの恋物語。神聖な場所で、こういう踊りをやっているのが面白いですね。

阿:日本の神社でも恋物語ではないですが、おかめとひょっとこが出て来て、ねんごろになったり、割と露骨なことをやっていますよね。

乗:なるほど。たしかにお祭りで、男根御輿とか凄いのも出てきますね(笑)。

阿:日本では「恋」の段階を飛ばして、「子孫繁栄」に直結することが多い(笑)。そこが面白いですね。私は「オディッシー」を見て、ダンサーの身体の使い方に目が行き、懐かしい感じがしました。日本舞踊で見慣れている、演者の体の持っていき方、トリバンガの訓練の延長上にある様式美がとても自然で、同じ東洋の舞踊として近しいものがあるのかなと思いました。

乗:インドは女性でも踊るときに足を外に開きますよね。少年が女装して踊ったりするからかもしれませんが、昔の寺院の彫刻をみても女性は外に身体を開いています。

阿:日本の伝統芸能でも、表現としてジェンダー(文化的性差)が意識されるのは歌舞伎からで、(それより歴史が古い)能狂言は女らしさを追求した表現というのはありません。日本舞踊や歌舞伎の女方の内股は、女性になろうとして頑張っちゃった「らしさ」の追求の結果でしょう。本物の女性は普段、そんなに淑やかにしていませんし(笑)。女の表現として完成し、日本舞踊に繋がっていった。

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乗:単純に着物を着ているから内股という訳ではないんですね。面白い。日本初のバレエ教師ジョバンニ・ヴィットーリオ・ローシー(1867~1949年)が日本に招かれた時、日本舞踊をみて「これは芸術の不具だ」とまで言ったそうです。なぜかというと、着物を着ていたら手足の動きはすべて吸収され、動きが分からない。歌詞に沿って、左右にヨタヨタと動いているだけじゃないかというわけです(笑)。ひどい言われようですが、バレエの根源は、肉体のありようですからね。肉体を隠す着物は対極にある。
 僕が常々感じる日舞の美しさとは着物の捌き方で、「着物を含めた身体のシェイプ」が美しい。だから日本人の文化の中で、「着物は身体の延長として見ているのではないか」と思うんです。それを確信したのは歌舞伎十八番の「暫」です。鎌倉権五郎が、巨大な袖(柿色の素袍の袖)を、バッと広げるじゃないですか。あれは何のためにやっているの? と疑問に思っていたんですが、特に意味はなく、単に格好いいからやっていると知ったときには驚きましたね(笑)。
 日本では、袖まで含めて身体だと思います。逆に春画における肉体の描かれ方は、西洋美術の基準で見るとひどいものです。腰が変な方向に折れ曲がっていたり、女性の胸なんか「半円にポツン」で終わり(笑)。にもかかわらず、全体には尋常ではないリアリティがあり、ゴッホを始め多くのヨーロッパのアーティストを魅了した。そういう肉体そのものに対する興味の薄さは、「着物も含めて身体」という意識だったからではないかと思っています。春画でも全裸ではなく、ほとんどは着衣のままですしね。
 日本が世界に誇る舞踏も、骨と皮くらいしか興味がないように見える。創始者の土方巽(1926~86年)の有名な言葉「舞踏とは、命がけで突っ立った死体である」というのが、一つの理想ですしね。

阿:それは仏教観からきているのでしょうか。即身成仏のような考え方で。

乗:肉、つまり裸体そのものに対する執着が少ないのだと思います。江戸時代までは、銭湯も入り口は男女別でも、中では一緒でしたしね。夏日に若い女性が庭先で行水をしていたり。

阿:歌舞伎俳優が女方をやっている時、肉体が見えると女性ではないと分かってしまうから、着物で体を隠すのでしょうね。でも最近は、あまり体を隠さない日本舞踊もでてきていますね。

乗:歌舞伎の豪傑が衣装を脱いでも、必ず1枚着ていますよね。襦袢的なもの。生身の肉は感じさせたくないという意思を感じますね。

阿:そうですね。一方で足の美学というものも思います。尻端折り(着物の裾を外側に折って、帯に挟み込む事)なんかに感じます。

乗:ふんどしにかける思いも強い。江戸時代の色男の代表格、河岸の若い衆や力士などはアピール・ポイントですもんね。

阿:でも今は、歌舞伎俳優もタイツ的な物を履くこともあります。

乗:タイツって、もともとヨーロッパでは男が美しい尻を見せるための道具だったんですよ。シェークスピア劇でもそう。かつては尻と足がセクシーの基準でした。

トルコ舞踊「メヴラーナ旋回舞踊」(セマー)

〈トルコ中部のコンヤで、イスラム神秘主義の一派、メヴレヴィー教団により創始された。踊り手が特徴的なポーズで一心不乱にクルクル回り続け、神との一体化を目指す舞踊。セマーを含む儀式は、ユネスコの無形文化遺産に登録されている。今回は、トルコの文化観光省所属の「コンヤ・メヴラーナ楽団」が来日、出演した〉

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コンヤ・メヴラーナ楽団

乗:回っている姿が、とにかく綺麗ですよね。

阿:実際見ると、いい感じでした。シンプルで、そぎ落とされて単に祈ることに集中している感じ。大学で巫女舞について教えた時に、学生から「トルコの旋回舞踊に似ていますね」と言われて、なるほどと思いました。

乗:「舞」は「回る」から出たという説もあるくらいですから。

阿:巫女舞ですと、回っているうち、そこに神が降りてくる。こちらのトルコ舞踊は、解説に「旋回は常態で知覚しにくい世界に通じる手段の一つ」とあります。

乗:右手から神の恩恵を受けるために掌を上に向け、左手はそれを人々にもたらすために下に向ける。両手が開くと最終形。僕は2回くらいイスタンブールで見たことがあります。観光化されていないもので、街外れのお化け屋敷みたいな所に入っていくと、中がドームになっていました。窓も円くすべて丸い空間で、ずっと旋回する彼らを見ていると、次第に部屋全体が回っているような錯覚に陥って、こっちも目が回ってくるんですよ。その酩酊感が宗教的に役立つのではないかと思うんですよね。ヨーロッパの寺院でもドームの上に行く螺旋階段はどんどん狭く急になって、回りながら登る内にクラクラしてくるじゃないですか。そして頂上で不意にパッと視界が開けると、「あ、なんか神様が居る気がする」となる(笑)。

阿:回転の中に神がいる(笑)。

乗:今回の公演に話を戻しますと、ダンサーのスカートの裾が、じつに美しく開いていましたね。きっと特別な素材だと思うんです。「この新素材だと綺麗にパッと開きますよ」みたいに、最新技術がアップデートされているんじゃないでしょうか。

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阿:少ない回転で綺麗に開く。

乗:微妙に裾の方が重くなるよう、何か縫い込んであるんじゃないですかね。

阿:映画俳優の市川雷蔵(1931~69年)が眠狂四郎を演じた時、裾がかっこよく捌けるよう五円玉を裾の先端に入れたっていうエピソードがあります。それを思い出します(笑)。

乗:それから小太りのダンサーや、結構休んでいる人もいて、あり様が色々なのも懐の深さをうかがわせますね。

阿:色々な国でそれぞれ神様がいて、神様がいない国はありませんよね。それはなぜかと言うと、理屈で納得できないことが起こった時に、神なる存在を考え、苦しい時に「何とかしてください」とお願いをしたり、嬉しいことも「神様のおかげ」と祈る。そうしたことが、それぞれの国、それぞれの思いが、それぞれの「神」という形になったということだと感じました。

コンテンポラリー・ダンス新作「いのちの海の声が聴こえる」

〈舞踏やオイリュトミーなど、ジャンルを超え活動する笠井叡が、「古事記」を題材に構成・振付・演出を手がけた新作。出演は笠井のほか日本のトップダンサーである近藤良平、酒井はな、黒田育世らと朗唱団ら総勢約50人〉

乗:神様がいて、歌とダンスを捧げるのは、どこの国でも部族民族でも共通です。ここまで3つの「神に捧げる伝統舞踊」を見てきて、最後の演目で「現代における神とは何か」という命題に戻る。そこで笠井叡の新作です。

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笠井叡

阿:古事記が題材ですね。

乗:ダンサーの顔ぶれは、もの凄い実力者ぞろいです。このメンツを集められのは、さすが笠井叡という感じですね。彼が今まで振り付けてきた、才能あるダンサーたちが育ってきた。僕は最初、笠井が客席からバーっと出て、舞台に上がって発する声があまりに響くので、驚きました。彼がやっているオイリュトミー(独思想家シュタイナーの生み出した舞踊芸術)は、一つ一つの声や音、動きのハーモニーを重視するので、声は重要な役割なんですよね。ただ今作では結構ハードな動きもありましたね。古事記を題材に合唱するのも、なるほどと思いましたが、内容が聞き取れるかというと、きついところがありました。

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ペルセパッサ・オイリュトミー団


乗:コンテンポラリー・ダンスにおいて言語とダンスの関係は、様々な試行錯誤が繰り返されてきました。言葉には「意味」があって、それは非常に強いものです。しかしそこに寄りかかるようでは、ダンスの負けなのではないか。言葉の意味性にどう立ち向かうか、意味性を介在させるか否かで、成り立つ表現は何か、ということをコンテンポラリー・ダンスはずっと考え続けてきたんです。その結果、たとえば言葉を使うとき、あえて雑音を混ぜたり音質を劣化させて意味をとれなくして、完全に「音」として流したりする。または、物語や手記の朗読を流しながら、全く無関係に踊ったり、と様々な試みがされてきました。
 オイリュトミーの考え方だと、言葉は外せない要素です。しかしたとえ十分に意味が伝わらない部分があっても、音としての響きでダンスはできている。今作で群舞を担ったオイリュトミー団の、舞台全体を使った動く背景のような踊りは迫力がありましたね。国立劇場の広い空間をダンスで構成する上で、非常に有効な手段だったと思います。黒田育世や酒井はなが強烈なダンスを踊り、近藤良平も、空間を大きく使いながらも良い感じに力の抜けた動きを見せていました。

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黒田育世

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酒井はな

阿:私は「コンテンポラリー・ダンスは哲学的で難しいものが多い」というイメージがあったので、近藤率いるコンドルズの公演を初めて見た時、「こんな楽しいコンテンポラリー・ダンスがあった!」と思いました。宝塚の男役の黒燕尾のダンスの対極としての学ランの群舞が、とても面白かった。

乗:コンテンポラリー・ダンスの裾野を広げる上でコンドルズが果たした功績は絶大ですが、もともと近藤自身は1980~90年代からすごくいいダンサーとして活躍していたんですよ。コンテンポラリー・ダンスやストリートダンスは、踊りをシャープに早く見せようとするあまり、動きが縮こまってしまうことも多い。近藤のように、長い手足をガッと使えるようなダンサーは、日本にはあまり居なかったんです。


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近藤良平


乗:作品全体の話に戻ると、イザナギとイザナミの話や、音楽にマーラーを使うのも良かったですね。「残照」が「ただ暮れゆくだけの聖なるもの」だけでなく、さらにそこに希望のようなものがみられるラストシーンだったと思います。

阿:あの広い舞台空間で、ダンサーの持ち味、テクニックの違いがよく出ていたように感じました。

乗:笠井は、群舞を使う作品も少なくありません。彼のオイリュトミーのお弟子さんが、いい意味にでも悪い意味でもモダンダンス感を盛り上げた。日本では、モダンダンスとコンテンポラリー・ダンスが分断していますが、本来は地続きで、海外も当然そういう認識です。先日、仏モンペリエ・ダンス・フェスティバルに行ってきたのですが、テーマが「継続性」だったんですね。
 今見て面白い、刺激的な踊りだけ追い求めていっても、積み重ならなければそれは「文化」ではなく「イベント」でしかない。いまのダンスを「文化」として積み重ねるには、それらが古いと言われた伝統舞踊と、最新のダンスがどう繋がっているのか、絶えず考えて、検証して、今を楽しみ、次を考えないといけない。文化的な積み重ねが観客と作り手の両方にないと、ひたすらイベントを消費するだけになってしまう。
 今の日本は、すでにそうなりつつあって、若いダンサーはわずか20年前の日本のダンス作品なんて知らないし、そもそも知るための機会もなければアーカイブもないのが現状です。だからこそ今公演は、伝統舞踊から始まり、舞踏とモダンダンスとコンテンポラリー・ダンスの特徴をそれぞれ色濃く持っている笠井叡作品で締める、という構成が、「ダンス文化の継続性」を考える意味で、本当にいい企画だったと思うんですよ。

阿:昭和20年代だったか、日本舞踊家が熱心にバレエを取り入れようとしたこともあったようです。でも基礎技術が違うのに、日本舞踊家が変に洋舞の真似をするのはもったいないと思いますね。

乗:以前、日本舞踊家の方から「コンテンポラリーの人とワークショップをやりたい」とご相談を受けたことがあります。でもそれがお師匠さんにバレると、「芸が荒れる」とストップがかかると言われました。問題はそこからですね。

阿:そのくらいで荒れるような中途半端な芸では駄目ですね。

乗:一方、韓国にはアジアで唯一、国立のコンテンポラリー・ダンス・カンパニー(韓国国立現代舞踊団)がある。彼らのプロジェクトで、東南アジア14カ国から、伝統舞踊の素養のあるダンサー集め、2カ月くらい合宿して、作品を作ったんです。日本からも推薦してくれと頼まれましたが、伝統舞踊とコンテンポラリー・ダンスの両方をやっている人はなかなかいないんですよね。

阿:洋舞にも真剣に取り組んでいる日本舞踊家さんもいますよね。お師匠さんの中には、コンテンポラリー・ダンスに弟子を取られてしまうという危機感があるのかもしれません。

乗:日本の中しか見てないのは駄目ですよね。僕はダンサーによく「海外に行け」と言っています。それは海外で評価されたら偉いのではなく、日本とは全く違う評価軸に作品をさらすことが大事で、それが作品を磨くからです。国が違えばリアルの基準も違う。評論家もそういう違う価値観に身をさらさないと。

阿:この新作は、古事記に戻ったのか、言葉の世界に戻ってきたのかと思ったら、言葉ではなく「音」なんですね。ダンサーは、全部が全部、言葉を表現しているわけではないですが、こちらはどうしても物語としての言葉を意識するので、音というのが新鮮でした。

いい踊りは「よく分からないけれど、スゲー!」

乗:ダンスの最初のハードルは、「何をやっているか分からない」という点です。なぜなら人間は言葉によって世界を把握する生物なので、言語化された時、初めて「分かった」と思える。そこでダンスを理解しようとテーマなどを考え始めるわけですが、これは間違いです。なぜなら本当に凄いダンスは、「分かった」とかの理解すら超えている。「よく分からないけれど、スゲー!」となるのが本当に良いダンスなんです。

阿:それは日本舞踊も同じです。歌詞の掛詞や連句が全然分からなくても、「これは凄い」ということが分かる、伝わってくる踊りがあります。

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乗:テーマとか考え出すのは、ハートでなく、頭で理解しようとしているわけでしょう。その結果、「分からない、私には向いていない」となって、見ることをやめるのが一番よくない。「よく分からないけど、スゲー!」ではなかった時の正しい反応は「つまらねえダンスだな」でいいんです。ダンスに力がなかっただけのこと。自分を責める必要などない。

阿:日本舞踊で思うのは、発表会などで日本舞踊を初めて見た人が「つまらなかった」のだけれど、そうは言えないから「よく分からなかったわ」と言う。すると受け止めた側が、内容がわかれば面白いと思ってもらえると考えて、作品解説を始めてしまう。そういう事もあって、踊りを分かりやすくする方向にいっているのではないかと。

乗:慣れていない人には「何をしているか分かる(伝わってくる)のがいいダンス」、という暗黙の共通理解がありますよね。それを越えたところにこそ本当のダンスの愉悦があるのだということを、見せていかないといけない。

阿:マルバツ教育で、正解を求めるんでしょうね。

乗:しかも「できるだけ無駄なく正解に辿り着きたい」と思っていますよね。しかしもしもダンスに「ただひとつの正解」があるとしたら、そんなものよりも何百倍もある「間違い」の方が断然面白い。これはアート全般にいえることですが、「分からないけれど面白い」という経験を重ねることでこそ、自分だけのアートを見る目を養うことができる。「分からないのは自分の理解力が足らないから」などと思う必要は全くないんです。ぜひともダンスを見続けてほしいですね。

編集:飯塚友子(産経新聞記者)

プロフィール

乗越たかお(作家・ヤサぐれ舞踊評論家)
株式会社ジャパン・ダンス・プラグ代表。06年にNYジャパン・ソサエティの招聘で滞米研究。07年イタリア『ジャポネ・ダンツァ』の日本側ディレクター。日本とソウルで5つのフェスティバルのアドバイザーを務める。『コンテンポラリー・ダンス徹底ガイドHYPER』(作品社)、『ダンス・バイブル』(河出書房新社)、『どうせダンスなんか観ないんだろ!?』(NTT出版)、他著書多数。現在、月刊誌「ぶらあぼ」で『誰も踊ってはならぬ』を連載中。
阿部さとみ(舞踊評論家)
日本アイ・ビー・エム株式会社在職中に歌舞伎、日本舞踊の面白さに目覚め、日本大学芸術学部、及び早稲田大学大学院文学研究科で学ぶ。文化庁芸術祭執行委員、文化芸術による子供の育成事業巡回公演事業企画委員など歴任。月刊「日本舞踊」に「リボンの夢」、「東京新聞」に「花に舞い踊る」を連載中。共著に『忠臣蔵』(赤穂市)、『歌舞伎登場人物事典』(白水社)、『歌舞伎と宝塚歌劇』(開成出版)など。