コラム

2023.04.28

菅原道真と昌泰の変

 菅原道真は、少年の頃から詩作に優れ、その識見と博学により、当時日の出の勢いであった藤原北家に対抗しうる存在として、宇多天皇の期待を背負い、天皇親政の“寛平の治(かんぴょうのち)”の推進に貢献し、その家格としては異例の出世を遂げます。宇多天皇が譲位(宇多法皇)し、醍醐天皇の御代になった昌泰2年(899)、右大臣となり、年若くして左大臣となった北家の継承者・藤原時平と相対します。昌泰4年(901)、時平らの策謀で、道真が帝を退位させ、娘婿でもある斉(斎)世親王を立てようとしているという風説が流れ、1月25日、醍醐天皇の宣命によって道真は大宰員外帥(だざいいんがいのそち)に降格されます。荒廃した大宰府は老いた道真には過酷な環境だったことと思われます。配所にて都での思い出を偲び詠んだ「9月10日」を掲げます。

去年の今夜 清涼に侍す 秋思の詩篇 独り断腸
恩賜の御衣 今此に在り 捧持して毎日 余香を拝す

 配流2年を経て延喜3年(903)、心身ともに憔悴した道真は失意のうちに生涯を終えます。逝去した道真は「天満大自在天神」として祀(まつ)られます。一方、都の疫病、時平とその縁者の相次ぐ夭折(ようせつ)、清涼殿落雷事件(延長8年〈930〉)などから、道真怨霊説が流布します。それを鎮めるためにかねてより祀られていた火雷神を北野天満宮として天暦元年(947)に造営され、また道真が葬られた大宰府の安楽寺廟に延喜19年(919)社殿が造営され、のちの太宰府天満宮となります。時代が下ると天神信仰は怨霊としての道真の姿が薄らぎ、平和な江戸時代が到来すると天満宮は学問の神としての信仰が確立するのです。

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