あらすじSTORY




- あらすじを読む
- 悪七兵衛景清について
- 関連コラム
〒102-8656 東京都千代田区隼町4-1
TEL:03(3265)7411(代表)
都03(晴海埠頭―銀座四丁目―四谷駅)
「三宅坂」徒歩1分(本数僅少)
宿75(新宿駅西口―河田町―四谷駅前―三宅坂)
「三宅坂」徒歩1分(本数僅少)
一門を滅ぼした源氏への復讐を志す平家の勇士・悪七兵衛景清(あくしちびょうえかげきよ)を主人公とする作品群は、「景清物」と呼ばれ、能楽を始めとする様々な芸能で、多くの名作が生まれました。「景清物」の集大成の一つになったといわれる浄瑠璃作品が『大仏殿万代石楚(だいぶつでんばんだいのいしずえ)』(享保10年[1725]初演)で、その中心となる場面は『嬢景清八嶋日記(むすめかげきよやしまにっき)』(明和元年[1764]初演)に採り入れられました。特に、景清父娘の情愛を綴った場面「日向嶋(ひゅうがじま)」は、歌舞伎や人形浄瑠璃でもたびたび上演され、現在では時代浄瑠璃の屈指の大曲に数えられています。
11月歌舞伎公演は、両作品を踏まえ、「日向嶋」を中心に、景清が復讐に挑む「東大寺大仏供養」、景清の娘が廓(くるわ)に身売りする「花菱屋(はなびしや)」等を取り上げ、通し狂言として再構成し、『孤高勇士嬢景清(ここうのゆうしむすめかげきよ)―日向嶋―』と題して上演します。
平家を滅亡させて権力を掌握した源氏の大将・頼朝(よりとも)。平家によって焼き払われた奈良・東大寺の大仏殿を再興し、秩父庄司重忠(ちちぶのしょうじしげただ)ら家臣と共に落慶供養に臨みます。そこへ、頼朝の命を狙う景清が斬り込みますが、頼朝は、平家への忠誠を貫く景清を称え、自分に仕えるよう説得します。景清は、頼朝の仁心に感じつつも、源氏へ従うことを潔しとせず、二度と復讐をしない証(あかし)に両目を刺し貫き、立ち去ります。
一方、幼少の時に景清と別れた娘の糸滝(いとたき)は、父が盲目となって零落し、日向国(現在の宮崎県)に暮らすと聞き、駿河国(現在の静岡県)手越(てごし)の宿(しゅく)の遊女屋・花菱屋に身を売った金を携えて、肝煎(きもいり)の左治太夫(さじだゆう)を伴い、 景清の許を訪ねます。景清は、頑なに頼朝への帰順を拒み続けていました。しかし、糸滝の献身的な愛情を知り、激しく苦悩します……。
吉右衛門が、昭和47年(1972)当劇場で実父・八代目幸四郎(初代白鸚)が勤めた景清を、平成17年(2005)に継承して以来14年振りに、さらに練り上げて演じます。明治以降初めての上演となる「大仏供養」を含め、通し狂言として上演することで、孤忠の武士・景清の力強い人間像と悲劇、糸滝との情愛を描いたヒューマンドラマが、さらに感動的に浮かび上がります。錦秋にふさわしい魅力溢れる舞台をお楽しみください。
本作の主人公・悪七兵衛景清(あくしちびょうえかげきよ)のモデルとなった藤原(平)景清は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて実在した平家方の武将です。伊勢を本拠地とした豪族・上総介(かずさのすけ)藤原(平)忠清の子で、上総七郎などとも呼ばれました。また、一説によると、壇ノ浦の敗戦後に自分を匿った伯父を疑心暗鬼に駆られて手にかけたために、「悪七兵衛」と呼ばれるようになったといわれています。この「悪」は、必ずしも悪人の意味ではなく、勇猛果敢さを指すものといわれています。
景清は、寿永2年(1183)に平維盛・平知盛に従って源義仲・源行家と戦い、その後、平氏一門とともに西国の各地に転戦しました。一説によると、平家滅亡後も生き延び、建久6年(1195)に東大寺の大仏供養に訪れた源頼朝を討とうとして捕らえられ、翌年、断食して没したと伝えられています。
謎多き景清の生涯は、様々に脚色され、運命に翻弄された敗残の英雄物語として人気を博しました。
景清の勇猛果敢さを称えるエピソードの一つに、屋島合戦における「錣引(しころびき)」の伝説があります。景清は、一騎討ちとなった源氏方の三保谷(みおのや)四郎の太刀を折り、逃げる三保谷の錣(兜の左右や後方に垂らして首筋を保護するもの)を手で引きちぎったといわれています。革や鉄板をつづり合わせて造られる頑丈な錣を裂いたというからには、相当の剛腕だったことでしょう。景清は三保谷の首の強さを、三保谷は景清の腕の強さを互いに称え、豪胆に笑い合って別れたと伝えられています。
奈良の東大寺には、「景清門」の別名を持つ国宝・転害門(てがいもん)があります。これは、平家滅亡後も生き延びて抵抗を続けた景清が、この門に隠れて、大仏供養に訪れた源頼朝を討とうとした、という伝説から名付けられています。度々の大火を免れ、天平時代に創建された当時の姿のまま現存しています。
今回、頼朝の命を狙う景清が敵勢へ斬り込む「東大寺大仏供養」の場面を、明治以降初めて上演します。前半では、変装して勇猛果敢に東大寺の境内へ乗り込む景清の力強い姿が、歌舞伎ならではの演出も取り入れて描かれます。頼朝は景清に対面し、景清の武将としての姿勢に感銘を受けます。頼朝の温情溢れる言葉に感じ入りながら、景清は意外な行動に出ます。両目を失うことで平家への忠誠を貫く景清の姿に悲壮感が漂います。この場面の上演によって、「日向嶋」の物語の背景が分かりやすくなります。
景清の生涯、とくにその晩年については諸説あり、能楽を始めとする様々な芸能で脚色され、多くの名作が生まれました。
能『景清』では、配流の身となり、九州・日向で零落して暮らす景清の姿が描かれています。思いがけず尋ねてきた我が娘に、正体を知られた景清は屋島合戦での武勇を誇らしげに聞かせますが、語り終えると余命短い自分の回向を頼んで娘と別れます。
また、能『大仏供養』では、世を忍ぶ身となった景清が、東大寺の大仏供養の日に頼朝の首を狙うものの、正体を見破られて再び行方をくらます姿が描かれています。
一説によれば、頼朝に捕らえられた景清は、鎌倉に移送され、幽閉されたとも伝えられています。敵の施しを受けるのを嫌った景清は、やがて断食して果てたといわれています。鎌倉駅から徒歩10分ほど、化粧坂(けわいざか)へ向かう道の角には、景清が幽閉されたといわれる土牢の跡があります。
今回の舞台では、「東大寺大仏殿」で頼朝殺害を試みた景清は、その後、日向の地で亡君・平重盛の位牌を供養しながら、貧しく暮らしています。景清は、父の身を案じて訪れた娘・糸滝に対し、自らの素性を隠して餓死したと言い放ちます。やがて正体を知られた景清は糸滝を抱き寄せますが、大百姓に嫁いだと聞くと、激高して追い返します。しかし、娘を乗せた船が去ると本心を覗かせ、さらに自分のために娘が身を売って金を調(ととの)えたことを知ると、娘の深い孝心に慟哭します。源氏への憎しみを捨て切れず、孤忠の武士として生きようとする景清が父親として葛藤する姿は、胸に迫ります。
ドラマチックに展開する景清の悲劇は、日向灘の穏やかな波に包まれ、終局を迎えます。娘を想う景清の人間性にご注目ください。